氷河と初めてキスした時、僕はどきどきして――ああ、きっと僕は熟したトマトみたいに真っ赤になってしまっていた――と思う。
そんな僕を、氷河は変な顔をして見てた。
氷河にしてみれば、キスなんて、そんなものは挨拶の一種にすぎず、特別なことでも何でもなかった。
『おはよう』のキスと『おやすみ』のキスをマーマと毎日してたって、氷河が平気な顔で言うもんだから、僕は、氷河のマーマにさえ焼きもちを焼いたよ。
僕には、人生における重大事だった初めてのキスが、氷河にはそうじゃなかったなんて、悔しくて悲しくてたまらなかったから。

僕のそんな気持ちが、氷河は全然わからないみたいだった。
だから、僕は、それから、朝となく昼となく夜となく、それこそ人前でも構わずに氷河にキスをねだるようになった。
氷河にはもう何千回目のことで、特別なことでも何でもないキス。
でも、僕には初めてで、とても特別なことだったキス。
僕は、せめて、世界でいちばん たくさん氷河にキスしてもらった人間になろうと思ったんだ。
氷河は、そんな僕に、きっとすごく呆れていたんだろうけど。

あれはいつのことだったろう。
「戦いなんてしたくない」って我儘を言って、氷河を困らせたことがあった。
多分、僕はあの時、氷河に『二人で逃げよう』って、言ってほしかったんだ。
そんなことは絶対に無理。
そんなこと言ってもらえるわけがなかったのに。

あの時、もし氷河が僕に『二人で逃げよう』って言ってくれたら、僕はすぐに『我儘言ってごめんなさい』って謝っていたと思う。
僕は、氷河がそう言ってくれるものと期待して――きっと氷河はそう言ってくれるって、一人で勝手に決めつけていた。
なのに氷河は、真面目な顔をして、僕の夢物語を否定してきた。
僕は、嘘でもいいから『二人で逃げよう』って言ってほしかったのに。
ううん、僕は氷河に『二人で逃げよう』って嘘をついてほしかったんだ。

ばかみたい。
自分が望んだ嘘を氷河が言ってくれなかったからって、そんなことで氷河をなじって。
どうして『二人で逃げよう』って嘘をついてくれないの――なんて、馬鹿げた理屈で氷河を責めて。
氷河はきっと呆れただろう。
そんなふうな些細な出来事が氷河の胸に積み重なって、そして、氷河は、少しずつ僕を嫌いになっていったんだ――多分。

今の僕なら、絶対、あんな我儘は言わない。
あんなこと、考えもしない。
氷河と一緒にいられるのなら、どんなことだって――どんな悲惨な戦場にだって行く。
戦場の真ん中でだって、氷河と一緒にいられるなら、僕は平気だよ。

あんなに好きだったのに、どうして僕は、氷河を傷付けることしかできなかったんだろう。
今なら――ううん、本当は、あの頃だって、僕は氷河のためになら何だってしたし、どんなことだってできた。
それくらい、氷河が好きだった。
なのに、些細なことの積み重ねが、僕たちの人生を二つに分けてしまった。
そして、二人の間に横たわることになった6年間の空白。

きっと、今の氷河には僕なんかよりずっと素直で優しい人がいて、氷河は僕とのことは思い出したくないと思っていたに違いない。
もしかしたら、今日こうして再会するまで、氷河は僕のことなんか すっかり忘れてしまっていたのかもしれない。
なのに、どうして僕たちはまた出会ってしまったんだろう。
会いたくなかった。
でも、会いたかった。
ずっとずっと、僕は氷河に会いたくてたまらなかった。

苦しくて悲しい。
どうして今の僕は、氷河の恋人じゃないの。
どうして こんなことになってしまったの。
僕は、今でも、氷河がこんなに好きなのに。

今なら、僕は、『いつも僕だけを見て、僕だけの側にいて』なんて我儘は言わない。
氷河に抱きしめてもらえたら、それだけでいい。
氷河が僕以外の人を見ていたら、その視線が僕の上に戻ってくるのを じっと待つし、氷河が僕以外の人と一緒にいたら、氷河がその人に『じゃあまた』って言って、僕のところに戻ってきてくれるのを いつまでも静かに待つよ。
僕が氷河を好きでいることを、氷河が時々思い出してくれて、そして僕を抱きしめに戻ってきてくれるなら、その一瞬のために、僕はどんなことにだって黙って耐えてみせる。

氷河が時々 僕のことを思い出して、ぼくのことを抱きしめてくれたら――抱きしめてほしい。
今。たった今。
なのに、僕は、自分のせいで――僕があまりに我儘な子供だったせいで、氷河が僕を思い出してくれる時を待つ権利さえ失ってしまったんだ。

氷河と一緒にいられた頃、僕が氷河の側にいる権利をまだ失わずにいた頃、僕は本当に幸せで、世界は光に満ち輝いていた。
眩しいほどに輝いていた。
こうして あの頃のことを脳裏に思い浮かべるだけで、眩しくて――眩しくて、涙が出る。
あんなに眩しい幸福の中にいたのに、なぜ あの頃の僕は そのことに気付かずにいたんだろう。
あんなに幸福な時代は、きっともう二度と僕の人生の上に巡ってくることはないのに。
幸福に輝いていた あの場所に帰ることは、もう永遠にできないのに。
なのに、あの頃の僕は、自分が幸せな人間だということにすら気付いていなかったんだ。






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