6年という、長い時間。 その時間に、俺は膝を屈するしかない。 そう、俺は思っていた。 おそらく、瞬も そう考えていただろう。 だが、俺たちの仲間の考えは違っていたらしい。 希望の聖闘士が希望を忘れてどうするんだというような顔を――いや、むしろ、希望を見失った俺たちに呆れているような顔を――星矢と紫龍は俺たちに向けてきた。 「しょぼくれたおっさん……って、なに言ってんだ? おまえ、まだ10代じゃん。おまえ、今のセリフで、『俺はまだおにーさんだ』って言い張ってる世界中のおっさんたちを敵にまわしたぞ」 「瞬も何を急に今更なことを言い出したんだ? あの頃だって、氷河は、おまえを男の子と知った上で、おまえに執心していたろう」 「仲直りでも やり直しでも、好きにやってくれればいいけどさ。あの頃に比べたら、おまえらも大人になったんだし、昔みたいに周囲に迷惑かけるのだけはやめてくれよ? ったく、普通の人間は、今のおまえたちくらいの歳から、そろそろ初恋ってのを経験し始めるんだぜ。おまえらは ませすぎ。普通より、6、7年くらい、いろいろ早すぎなんだよ。昔はさ、おまえらがあんまり堂々と いちゃついてみせてくれるから、常識的なスピードで成長してる俺の方が遅れてるんじゃないかって不安になって、俺、時々 混乱してたんだぜ」 「おまえが本当に おっさんになっていたとしても同じことだ。40だろうが、60だろうが、おまえたちが今でも好き合っているのなら、遅すぎるということはないだろう。他に好きな相手ができたとでもいうのなら話は別だが、おまえたちに そんな暇はなかっただろうし……。それとも、おまえたちの修行はそんなに楽なものだったのか?」 「何度も死ぬ思いをしたよ!」 聖闘士になるための修行なんて、どこでしたって、誰がしたって、つらく厳しいものに決まっているのに、紫龍はいったい何を言っているのかって、僕は思った。 人を傷付け倒す技を身につけなければならないことに傷付き、だけど、その技を身につけないと死ぬしかない。 孤独の中で、人を傷付け倒す術に長けていく自分を恐れる日々。 その修行の日々が、楽なものだったはずがない。 「俺の身体には、裂傷の縫合の痕が5ヶ所、38針分ある」 この馬鹿は何を言っているのかと、俺は思った。 紫龍は、俺が 毎日階段を一段ずつ登るような呑気な修行をしてきたとでも思っているのか。 階段どころか! 峻厳な山を一日で越えろと言われ、必死の思いでその山を越えれば、その山以上に険しい山が俺の前にそびえ立つ。 そういう修行を、俺はしてきたんだ。 聖闘士というものが そんなに楽になれるものだったなら、俺はそんな修行は半年でやり終えて、瞬の許に駆けつけていただろう。 そうすることができなかったから、俺と瞬の間には今、6年という長い年月が横たわることになったんじゃないか。 「なら、他の誰かに浮気や目移りしてる余裕なんかなかっただろ?」 「あたりまえだ! 万一 俺に そんな余裕があったとしても、そんなことは無意味だ。瞬より綺麗で可愛い人間が この世にいると思うか !? 常識で考えろ! だが……」 俺は、瞬を横目でちらりと見やった。 星矢や紫龍の言う通り、確かに 俺たちはやり直すことができるのかもしれない。 そうするための時間もあるのかもしれない。 だが、それは俺の一存で決められることじゃないんだ。 「瞬、おまえはどうだったんだ? そういう余裕があったのか?」 紫龍が僕に尋ねてくる。 僕の答えはわかっている――っていうような笑顔で。 僕は、どんな憂いもないみたいな紫龍のその笑顔に、泣きたくなってしまった。 「僕にだって、そんな余裕はなかったよ。もし あったって、ないのと同じことだよ。僕は、氷河と一緒にいられた時のことを思い出して、その時間を過ごすしかなかったはずだもの。でも……」 僕は、言葉を途切らせて、こっそり氷河の顔を盗み見た。 紫龍の推察通り、僕は今でも氷河だけだよ。 氷河みたいに、いつもずっと側にいたいって思える人は誰もいなかった。 でも、あの眩しい時間を取り戻そうと努める行為は、僕ひとりだけで始められることじゃない。 「おまえらは若くて、フリー。結婚できる歳にもなってないのに、やり直しがきかないなんて、どっから湧いてきた思い込みだよ? 何の問題もないじゃん。『長い喧嘩だったけど、ごめんなさい』で仲直りすれはいいだけだろ」 星矢は気楽にそう言うけど……僕はもう、あの頃みたいに『好き』という気持ちだけで猪突猛進することはできない。 きっと、氷河もそうだよ。 僕たちは、6年分 大人になってしまったんだから。 離れ離れで6年もの長い時を過ごした。 星矢は、僕たちを『まだ若い』って言うけど、それは単に身体の年齢だけのことで――むしろ、身体はまだ若さを保っているから、僕はそれが恐いのかもしれない。 「僕と氷河がまた一緒にいられるようになったら――そんなことが もし許されたりしたら、僕はまた、氷河を独り占めしたくなって、そして、きっとまた氷河を傷付けてしまう……」 それが、僕の不安。 僕が子供だった頃に犯した過ちを、また繰り返すこと。 繰り返しかねないくらい、僕が氷河を好きでいるということ。 「瞬が、あの頃のように俺の側にいてくれるようになったら、俺は、瞬が俺のものだということを確かめたくて、また瞬を泣かせることになるだろう」 それが、俺の恐れていることだ。 若かった時に――いや、幼かった時にと言うべきか――犯した過ちを再び繰り返すこと。 繰り返しかねないほど、俺が今も瞬を好きだということ。 星矢は、そんなことが どれほどの障害なのかと言いたげな顔を、6年間の時を経て再会を果たした二人に向けてきた。 「でも、おまえらだって、6年分、大人になっただろ? 6年分、いろいろなこと考えて、いろんなこと経験して、反省も学習もしてきたんだろ? なら、今度はうまくやれるだろ? それが大人になるってことじゃん。前とおんなじミスをするようだったら、おまえらは この6年間を全く無駄に過ごしてきたってことになる。そんなんだったら、生きてても無意味だから、死んだ方がいいとは思うけどさ」 相変わらず――子供の頃と変わらず、ずばずばと物を言う奴だ。 だが、星矢の言うことは全くもって正論だ。 大人になるということは、してみると、そう詰まらないことではないのかもしれない。 俺たちは、あの頃に比べれば臆病になり 無鉄砲な恋はできなくなったかもしれないが、恋の情熱の賢い迸らせ方を、あの頃よりはよく心得ている――はず。 「僕は、今なら――」 「俺は、今なら――」 俺と瞬は、ほとんど同時に同じことを訴えようとした――多分。 重なる声に はっとして、互いの目を見詰め合う。 瞬のその瞳の中に、俺は、あの頃と同じような情熱と、そして、あの頃には見い出すことのできなかった叡智の輝きを認めることになった。 情熱と聡明を兼ね備えた この美しい生き物を 俺のものにせずにいられるのかと、俺の中の情熱と理性が、俺を説き伏せようとして俺に襲いかかってくる。 『いられるわけがない』と、俺の情熱と理性は即答した。 だが、それは俺の一存で決められることではないと、大人になった俺の分別が、俺に冷静でいることを強いてくる。 瞬も――俺と同じように、“分別”の制止を受けたんだろうか。 瞬は切なげな眼差しで俺を見上げ、だが、それ以上の言葉を発しようとはしなかった。 臆病や不安ではなく理性に、僕は引き止められた。 僕は、氷河の側に行きたい。 けれど、それは、自分がそうしたいからではなく、そうあることを二人が望んでいるからでなければならないと、僕の理性は僕を諭す。 氷河を傷付けたくないのなら、傷付け合いたくないのなら――と。 決定的な一歩を踏み出せずにいる僕を、紫龍がけしかけてきた。 「大人になったんだし、おまえら、キス以上のこともできるぞ。瞬、おまえ、キス以上のことをしてみたいと思わないか。氷河と」 紫龍は、僕が子供の頃 キス魔だったことを憶えているみたい。 恥ずかしいと思うより先に、僕の正直な情熱が、僕の意思を押しのけて――僕は、紫龍のその言葉に飛びついていた。 「したい、したい、したい。キスも、それ以上のことも、いっぱいしたい!」 「瞬、おい……」 まるで6年間の『お預け』のあとに『よし』をもらった犬みたいな僕に、星矢が鳩が豆鉄砲を食らったような目を向けてくる。 「……キス以上のことが何なのか おまえ、わかってんのか」 「そんなこと知らないけど、氷河とだったら何でもしたい!」 ああ、なんて正直な僕の情熱。 僕は、そんな自分に 自分で呆れたけど――でも、僕は6年前よりは大人になっていたから、その情熱を直接 氷河にぶつけることはしなかった。 一度 深呼吸してから、氷河の意思を確かめようとした。 「あの……氷河は……?」 俺は――色々な意味で、確かに大人になったらしい。 6年前には自分の欲しいものを求めてくるだけだった瞬に、遠慮がちに「氷河は?」と尋ねられた俺は、ごくりと息を呑んだ。 キス以上のことを、この瞬と――想像しただけで、頭がくらくらしてくる。 それでも俺は――そんなふうに頭がくらくらしている状態でも俺は――、瞬が『氷河 理解して、俺たちは もう一度、あの眩しく輝いていた日々を取り戻すことができると確信した。 あの頃のように傷付け合うことはせずに、あの頃の眩しさだけを、俺たちは取り戻すことができる――と。 それは難しいことじゃない。 至極 容易なことだ。 情熱のまま、感情のままに動く前に ほんの一瞬、相手の気持ちを思い遣りさえすればいいだけのこと。 それだけのことを知るために、それだけのことを学ぶために、もしかしたら 俺たちには6年という別離の時が必要だったのかもしれない。 「俺たちはもう一度やり直せる……と思うか」 あの眩しかった日々を思い出にしたくはない。 きっと、遅すぎるということはない。 俺たちの6年間は、大人の臆病を知るためにではなく、希望を見失わずに生きる術を身につけるためにあったのだと思いたい。 「あの頃、僕は氷河を好きだった。そして、氷河も僕を好きでいてくれた。ただ それだけだった。あの頃の僕は自分の心しか見ていなかったし、多分 氷河もそうだった。だから きっと僕たちは互いを傷付け合うことばかりしていたの。でも、僕は、今は、氷河の心を見ようとすることが――少なくとも、見ようと努力することはできるようになったと思う」 きっと、それが大人になるということ。 大人になるってことは、決して 若かった頃の情熱や一途さを失うことじゃないよね。 僕はそう信じたい。 氷河が僕を見詰めてくれているから――懐かしい あの青い瞳で 僕を見詰めてくれているから、僕はそう信じたい。 氷河の青い瞳――その瞳の色を、子供の頃の僕は、空の色と海の色のどっちなんだろうって、よく思ったものだけど、今 わかった。 氷河の瞳の青は、希望の色なんだって。 多分 僕たちは(おそらく 俺たちは)――二人が出会い 惹かれ合った あの頃が あまりに眩しい時だったから、あの頃以上に眩しい日々は二度と二人の上に訪れることはないと思い込んでいたんだ。 だが、今は――。 「俺は今は、あの時間が眩しかったのではなく、おまえこそが俺の光の源なのだということが わかっている」 「僕が あの頃を眩しく輝いていたと思うのは、僕が氷河と一緒にいられたからだって、今の僕には わかってるよ」 「今もそうだ。おまえが俺の光だ」 「今もそうだね。僕たちは今、こんなに近くにいる」 あの眩しかった時は、幸福な思い出として懐かしむためのものじゃない。 あの眩しかった時は、今も続いている。 今、俺の前には瞬がいるんだから(今、僕の目には氷河が映っているんだから)。 俺は もう一度 瞬の手をとった(僕は もう一度 氷河の手に自分の手を預けた)。 その時 俺たちが掴んだものは(その時 僕たちが握りしめたものは)、多分 希望というものだったと思う。 「つーか、おまえら、詰まんないことで大袈裟に騒ぎすぎなんだよ。老い先短い じーさんになってから再会したってんなら、今更 遅いってためらう気持ちが湧いてきても仕方ないとは思うけどさー」 星矢が呆れた顔で何か言ってたけど、僕は無視した(星矢が呆れたような声で何やら ぼやいていたが、俺は無視した)。 たとえ僕たちの再会が百歳を過ぎてから実現したものだったとしても、僕は必ず氷河の手の中にある希望を握りしめていたと思うから(たとえ俺たちの再会が百年を過ぎてから実現したものだったとしても、俺は必ず瞬の手の中にある希望を掴み取っていたと信じられるから)。 そうして、二人の時間は、光に包まれて再び動き出した。 Fin.
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