「ところで、唐突に話は変わるが、実は俺は童貞なんだ」 その宣言通り、あまりにも唐突だった氷河の告白(?)に、星矢は口に含んでいたスポーツドリンクを、センターテーブルの上に ぶはっと盛大に吹き散らすことになった。 「汚いな」 突然とんでもない告白をして、星矢に“汚い”真似をさせてくれた張本人が、思い切り嫌そうに顔をしかめる。 「誰のせいだよ! 誰の!」 この“汚い”事態を招くことになった責任は絶対に自分の上にはないと確信する星矢は、当然のことながら『ごめんなさい』も言わずに、諸悪の根源を大声で怒鳴りつけたのである。 この場で誰よりも『ごめんなさい』を言う権利を有している諸悪の根源は、星矢の怒声にも至極 涼しい顔をしていたが。 彼は『ごめんなさい』を言うどころか、ペーパータオルでテーブルの上を拭き始めた瞬に、 「本人に始末させろ」 と、偉そうに指図することさえ してのけたのだった。 関東は、先日から梅雨の季節に入っていた。 晴天であればこそ実行する気になる『城戸邸から30キロ離れたところにある某菖蒲園にジョギングを兼ねて花見に行く』という予定の消えた、雨の日の昼下がり。 城戸邸のラウンジで、青銅聖闘士たちは、しとしとと雨を降らせている雲を時折窓越しに横目で見やりながら、消えた予定が作り出した退屈な時間を なんとか埋めようとしていたところだった。 「いったいなぜ、おまえは そんなことを今 言い出したんだ」 退屈しのぎになるのなら話題は何でもいいと考えているらしい紫龍が、星矢とは対照的に 極めて落ち着いた口調で、衝撃の(?)告白をしてくれた白鳥座の聖闘士に尋ねていく。 彼の質問に答える氷河も、その態度は至極落ち着いたものだった。 照れもなければ、自身の言動を不名誉なことと感じている様子もない。 「いや、そろそろ俺も脱童貞した方がいいんじゃないかと思ってな」 「それにしても唐突すぎるだろ! 俺たちはさっきまで、明日は晴れるかな〜 なんて、平和に天気の話をしていたんだぞ!」 背もたれにぶつかるようにしてソファに身体を沈み込ませた星矢が、気の立ったサルのように両頬を膨らませているのは、どう考えても、彼が スポーツドリンクを一口分 失ってしまったからではない。 その理由を、まだ脱童貞できていない青少年のフクザツなオトコゴコロと察して、紫龍は 仲間の目にとまらないほどの微苦笑を口許に刻んだ。 「だから思い出したんだ。俺の人生に晴れる日はいつ来るのかと思って」 「氷河は、その……ど……ど……ど……うていでなくなりたいの」 星矢と同じ立場にありながら、フクザツなオトコゴコロというよりはむしろ 花も恥じらうオトメゴコロに より強い支配を受けているのではないかと思える様子の瞬が、消え入るような声で、氷河に尋ねていく。 氷河は、そんな瞬に、僅かな逡巡も見せずに、 「当然だ」 と、即答した。 そんな二人のやりとりに、紫龍が何やら考え込む素振りを見せる。 約30秒後、彼は何事かを得心した顔になり、おもむろに口を開いた。 「しかし、まあ、それはそう 焦ることでもあるまい。確か、某東京大学では、性体験のない男子が全体の45パーセントを占めているはずだ。約半数だな。日本人の最初の性体験の平均年齢は19.4歳。母親との関係が良くなかった男子は、初体験年齢が16歳と早まる傾向があるそうだから、マザコンのおまえは20歳を過ぎて童貞でいても全く無問題、標準の内だ」 「そんなデータ、どうでもいいんだよ!」 アテナの聖闘士がそんな情報を持っていて何になるのかと、星矢は憤っているらしい。 彼は、いよいよ 気の立った若いオスザルのような顔つきで、詰まらないデータを披露してくれた龍座の聖闘士を怒鳴りつけることになったのである。 星矢の叱責に合った紫龍が、澄ました顔で、話の方向性を微妙に変えていく。 「キリスト教では、童貞は ある種の美徳とされているだろう。プロテスタントの教会にでも行って、自分は母の胎内から生まれた時のままの童貞だと告げれば、大変ご立派な心掛けと大絶賛してもらえるんじゃないか」 「あのなーっ!」 どうあっても童貞の話題から離れるつもりがないらしい紫龍に、星矢はすっかりふてくさってしまったようだった。 そんな星矢とは対照的に、氷河が、紫龍の持ち出した話題に真顔で応じていく。 「しかし、それは俺が女にもてないということだろう。だいいち、俺はプロテスタントじゃない。ロシア正教徒だ」 「おまえは女にもてたいのか」 「そういうわけではないが、女にもてない男だと、第三者に思われるのは不愉快だ」 「氷河が女の人にもてないなんて思う人はいないと思うけど……」 紫龍と氷河のやりとりに 瞬が口を挟むことになったのは おそらく、瞬が この話題をできるだけ早く切り上げ終わらせてしまいたいと考えていたからだったろう。 遠慮がちに意見を述べた瞬を下目使いに見やり、氷河が尋ねる。 「その根拠は?」 「だ……だって、氷河は容姿に恵まれてるから、氷河がど……ど……ど……あの、氷河に恋人がいなくても、それは氷河が選り好みしているだけなんだって、誰だって思うと思うよ」 「しかし、現に俺は童貞なわけで、俺が童貞だという事実は覆すことのできない事実だ」 瞬が口にするのを避けた言葉を、氷河が平然とした態度で繰り返す。 瞬は困ったように顔を伏せてしまった。 「まあ、そういうことなら、瞬の担当だな」 そろそろ 含み笑いを完全に隠しきれなくなり始めていた紫龍が、氷河の童貞宣言以上の唐突さで、瞬を氷河の担当医に任命したのは その時だった。 「どうして僕 !? 」 紫龍の ご指名は、瞬には思ってもいなかったものだったらしい。 それまで、壊れかけたピアノのように頼りなく『ド』の音ばかりを発していた瞬の声が、突然明瞭な『 応じる紫龍の声は、強くもなければ弱くもなく、速くもなければ遅くもなく、正しく『 「明日の天気について平和に語らっている時に、突然 脱童貞を果たしたいなどという話を始めるような馬鹿な男の世話をやくのは、俺も星矢も嫌だからだ。そんな馬鹿の面倒を見てやれる寛容さを持っているのは、ここではおまえくらいのものだろう」 「これは、寛容非寛容の問題じゃないでしょう!」 「じゃあ、どういう問題なんだ?」 「どういう問題って……」 一見したところでは他意はなさそうな様子で単刀直入に問い返してくる紫龍の前で、瞬が口ごもる。 ここで、『どうして童貞の僕が、氷河の脱童貞の世話をやかなければならないのだ!』と堂々と反論することのできる瞬ではなかった。 瞬にとっては不幸なことに。 いつのまにか紫龍の側に寝返っていたらしい星矢が、言葉に詰まった瞬に追い討ちをかけてくる。 「おまえは、苦悩する仲間を放っておけるような冷たい奴じゃないだろ。おまえは、地上で最も清らかで、心優しい聖闘士なんだよな?」 「そ……そんなこと、誰が決めたの!」 「世間一般の常識的見解だと、そういうことになってるみたいだぜ」 「だからって、どうして僕がそんな、氷河のど……ど……ど……」 瞬が、壊れかけのピアノに逆戻りする。 いっそ このまま完全に壊れてしまい、自分に課せられた任務から逃げ出したい――というのが、瞬の本音だったろう。 瞬が その窮地からの逃亡を図ることができなかったのは、彼の心優しさのゆえというより、彼が感じている義務感のせいだったかもしれない。 星矢や紫龍に見捨てられかけている氷河を、自分まで 放り出してしまうような気の毒なことはできないという義務感――またの名を、クールに徹することできない“甘さ”。 その甘さに衝き動かされて、瞬は、氷河の上にちらりと視線を投げたのである。 そして、瞬は、今にも泣き出しそうな子供のように情けない様子で、自分のクライアントに声をかけてみた。 「あの……氷河……」 「なんだ」 「あの……だから……その……あのね。そういうのって、僕、よくないことだと思うんだ。へ……平均年齢がどうだとか、他人に もてないと思われるのが嫌だとか、そういう理由で、あの、そういうことを焦るのは。そういうことは、氷河が……その……そういうことをしたいと思える人に会えるまで待った方がいいと――」 「そうは言うが、そういうことをしたいと思える人に会って、いざコトに及ぼうとした時、経験がなくて失敗したら、うまくいくはずの恋もうまくいかなくなるかもしれないじゃないか。俺は、そういう事態は避けたい」 「その人も氷河を好きでいてくれるのなら、氷河が し……失敗しても、きっとわかって、許してくれるよ」 「その優しい人の身体を、俺に心得がなかったばかりに傷付けてしまったらどうするんだ。それでなくても俺は聖闘士で力が有り余っているし、身体の傷は心にも様々な影響を及ぼすと思うが」 「……」 ああ言えば、こう言う。 問診の内容が妙に具体的な現場のそれに至るに及んで、瞬は氷河説得の言葉を見付け出すことができなくなってしまったのである。 そんな瞬に向かって、紫龍が、助け船なのか追討船なのかの判別の難しい船を差し向けていく。 「ああ、優しくする方法なら、やはり瞬に指導してもらうのがいちばんだろうな」 「そうだよなー。優しくするのって、瞬の得意技だもんな。俺や紫龍じゃ、少々 力不足だぜ。氷河、おまえ、優しくする方法とかいうやつを、瞬にじっくり教えてもらえ」 「星矢、勝手なこと言わないでよ!」 「勝手も何も、俺と紫龍は、人に優しくする方法なんて知らねーし。アテナの聖闘士の中で、『優しい』なんて枕詞を持ってんのって おまえだけだろ。氷河が困って悩んでるんだぜ。力を貸してやれよ」 「でも、僕は……」 「でも、おまえは?」 「だから、僕は……」 『僕は童貞だから、脱童貞の方法なんて知らない!』と、開き直ってしまえないことが、瞬の不幸だった。 自分が脱童貞できていない事実を仲間に知られることを不名誉と思っているわけではなく、『童貞』なる単語を声に出して言ってしまえないだけだということが、瞬の不幸の微妙なところ。 瞬は、本当に泣いてしまいそうだった。 「じゃ、そういうことで。俺、ジムの方に行ってサーキットトレーニング50周くらい やらかしてくるわ」 「氷河を頼んだぞ、瞬。俺は週に一度の枝毛の処理をしなければならん」 「星矢! 紫龍!」 あまりにも理不尽な理由で 氷河の世話を押しつけられた瞬の抗議の声は、瞬の仲間たちが閉じたドアにぶつかって、空しく瞬の許に返ってきただけだった。 |