翌朝、いつもより1時間以上遅い朝食を済ませてから ラウンジに入っていった氷河と瞬を迎えてくれたものは、
「随分短い100年だったようだな」
という、紫龍の皮肉――皮肉だろう――だった。
瞬の頬が熟したトマトのように赤くなる様を認めた紫龍が、その唇の端に、やはり少々皮肉めいた笑みを刻む。
「まあ、恋をしている者は、一人でいる時間は 実際より長く感じ、二人でいる時間は 実際より早く過ぎていくと感じるものだそうだがな」
「それにしても早すぎだろ。100年が1日、つまり、36525分の1だぜ。さんまんろくせんごひゃくにじゅうごぶんのいち!」

いつもの朝と さほど変わらぬ様子の紫龍とは対照的に、今朝の星矢は、その声も表情も身振りも、いつもの5倍増しで大仰かつ大袈裟である。
『気付くのが遅すぎた』と、瞬が星矢の前で涙に暮れていたのは、ほんの半日前。
星矢が呆れ果てるのも当然のことと、瞬は思っていた。
視線だけでなく、心や身体まで強く深く複雑に絡み合ってしまった二人を 元の二人に戻すために、つい先程まで自分たちがどれほど苦心していたか、その困難な作業をなんとか やり遂げて、自分たちは今こうして仲間たちの前に立っているのだ――などという苦労話を語っても、星矢の同情を勝ち得ることはできないだろう。
それがわかっているから、瞬は、ひたすら無言で、仲間たちの前で真っ赤に染まった頬を隠すように顔を伏せていたのである。
そんな瞬を庇うように、氷河が彼の恋人の肩に手をまわしてくることさえ、瞬は恥ずかしくてならなかった。
が、氷河は、そんな仲間たちの揶揄に全く悪びれた様子を見せない。

「おまえらに何を言われても、全く こたえんな」
澄ました顔で そう言ってのけた氷河に、星矢がむくれ呆れた表情を作る。
「そりゃそうだろうよ。ったく、おまえのツラの皮の厚さには、心底 恐れ入るぜ。童貞がどーのこーの、100年でも200年でも待つだの何だのって、散々 大騒ぎしておいて、結末がこれなんだもんな」
「ふん。何とでも言え」
実現の時まで100年待つつもりだった大願が成就したばかりの氷河は、あくまでも強気だった。
そんな強気の氷河に、紫龍が ちらりと一瞥をくれ、尋ねてくる。
「何を言ってもいいのか?」
「なに?」
氷河にそう確認を入れておきながら、紫龍は氷河の返答を待たなかった。
待たずに、彼は彼の言いたいことを口にした。
氷河に向かってではなく、氷河の隣りで恥ずかしそうに身体を縮こまらせている瞬に向かって。

「瞬。おまえ、本当に氷河が夕べまで童貞だったと思っているのか?」
「え?」
思いがけない質問に驚いたように、瞬が伏せていた顔を上げる。
紫龍の そのとんでもない質問で、より大きな驚きに支配されることになったのは、だが、瞬ではなく氷河の方だったろう。
『何を言われても こたえない』とは言ったが、それは非難や揶揄、からかいや皮肉に類することに対してのことであり、かつ、それが瞬の恋人に対して言われたものであった場合、という条件つきのこと。
氷河は、『瞬に・・何を言ってもいい』と言った覚えは、全くなかった。
だが、紫龍は、あくまでもどこまでも瞬に・・尋ねていく。

「氷河が本当におまえに童貞を捧げたと思うか?」
「ど……どういうこと……」
「紫龍! 貴様、余計なことを言うな! せっかく瞬が――」
「素朴な疑問を素朴に訊いてみただけじゃん」
氷河の物言いを、星矢が遮る。
だが、おそらく、星矢が氷河の怒声を遮らなくても、瞬は氷河に尋ねることをやめることはなかっただろう。
「氷河、どういうこと? 紫龍は何を言ってるの」
瞬に そう尋ねられてしまった氷河は、つい数分前までの余裕はどこへやら、軽いパニック状態に陥ってしまっていた。

「お……おまえは、おまえだけに捧げた俺の純愛を疑うのかっ !? 」
「純愛と純潔は別物だよなー。苦しい言い逃れしてくれちゃって。アテナの聖闘士にあるまじき卑怯だぜ」
「星矢。そう責めてやるな。嘘を言わずに真実を隠蔽する技は、米国大統領になるなら習得必須と言われるほどの高等技術だ。ここは、瞬のために それほどの技を駆使してみせる氷河の健気を讃えるところだろう」
酸素不足に苦しんで口を激しく ぱくつかせる金魚の つらさが身にしみてわかる。
瞬の目の前で言いたいことを言いまくってくれる仲間たちに、氷河は今まさに酸素不足の金魚状態にさせられていた。

「氷河の奴、それらしい失敗をしたか? 早すぎたとか、力の加減を間違えて おまえを傷付けたとか、見当違いなところを 触りまくって無駄な時間を費やしたとか、フィニッシュを決め損なったとか」
「僕……ずっと気持ちいいだけだった……」
「それは恐悦の至り。随分 場慣れした童貞様だな。失敗を恐れていたわりに」
「『同性とするのは初めてだった』なんつーのは詭弁だぞ、氷河」
紫龍にならまだしも、よりにもよって星矢に鋭い釘を刺され、氷河は、オーロラ・エクスキューションを食らった振り子時計のように、その場で時を止めることになった。
想定外の展開に心身を硬直させる羽目に陥った氷河を、瞬が切なげな目で見上げ、見詰めてくる。

「僕は……氷河がその……初めてだったとかそうじゃなかったとか、そういうことにこだわるつもりはないよ。でも、もし、氷河が僕に嘘をついていたのだったら……」
「瞬……お……おまえまで、何を言い出したんだ。俺はおまえとは初めてで――いや、もちろん、全人類をひっくるめて、おまえが初めてで、夕べは 初めてのわりにうまくできたなー……と、じ……自分で自分に感心していたところで……」

おそらく、氷河は、そこで言い訳に及ぶべきではなかった。
今こそ 彼は、綽然たる余裕を示し、『紫龍たちの冗談を真に受けるな』と、敵の攻撃をさらりと かわしてみせるべきだったのだ。
真面目に(?)、しかも、どもりながら 弁解などしてみせるから、彼は瞬の心に不信の芽を芽吹かせてしまったのである。
氷河に嘘をつかれたと信じてしまった瞬が、氷河の手をすり抜け、その場から逃げ出してしまったとしても、氷河への瞬の信頼が脆弱なものだったと言うことはできないだろう。
なにしろ、氷河の対応がまずすぎたのだ。

「紫龍、星矢! 貴様等、俺の恋路を邪魔して何が楽しいんだ!」
100年待つ覚悟をして初めて、ついに やっと手に入れることのできた温もりが、こんなにも簡単に 己れの手をすり抜け落ちていくことに、氷河は軽い目眩いを覚えていた。
その目眩いに懸命に堪えながら、全く有難くない事態を招いてくれた仲間たちを怒鳴りつける。
「特に何が楽しいというわけでもないが……。ああ、そうだ。日本では、初体験の平均年齢は世界平均と さほど変わらないが、それ以降の性交回数は世界でもダントツの最下位で――」
「そんなデータはどうでもいいんだっ! 俺は、日本人の標準をなぞりたいとは思わんっ」
「それは実に尤もな意見だ。おまえの気持ちはよくわかるぞ、氷河」
「うー……」

100年越しの恋の危機に瀕している男の激昂に、白々しく同意してみせる龍座の聖闘士の態度に出会って、氷河は返す言葉を失ってしまったのである。
こんな奴等の相手をしていても事態が好転することはないという事実に気付いた氷河が、忌々しげに舌打ちをして、彼の恋人を追いかけていく。
その時、氷河の胸中にあったものは、瞬の信頼を取り戻すことができるようになるまで、自分はどれほどの時間を耐えなければならないのか――それは100年だけで済むのか――という、底知れぬ不安だけだったろう。

100年越しの恋を成就させた恋人たちの姿が消えたラウンジで、
「で? 氷河の奴、ほんとに童貞だったのか?」
「さあ。俺はそういうことには全く興味がない」
という、超無責任なやりとりが彼の仲間たちによって為されたことなど、氷河は100年経っても知ることはないに違いなかった。






Fin.






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