昔、この国は神が支配する国だった。 今より何千年も昔のことだ。 ある日、神は一人の美しい人間の娘に出会い、恋に落ちた。 神は、その娘に自分の妻になってくれと頼んだんだが、娘は神に『はい』と答えなかった。 それまで自分の願いを退ける人間に会ったことのなかった神は、娘の拒絶に驚いて、『なぜ神である私を拒むのか』と娘に尋ねたんだ。 娘は、神の前で顔を伏せ、震える声で答えた。 『私は何の力も持たない、小さな みすぼらしい孤児にすぎません。神であり王であるあなたの妻になることなど、あまりに畏れ多くて、とてもできることではありません』と。 どうしても その娘を妻にしたかった神は、娘の言葉を聞いて、言った。 『では、この国の半分をそなたに与えよう。それで、そなたは、すべての人間の中で最も強大な力を持つ者になる。その上で、私の妻になってくれ』 娘は神の言葉に驚き、そんなものはいらないと、首を横に振った。 『その代わりに、あなたの宮殿に咲いている一輪の花を永遠に見詰めていられる権利を、私にください。そうしたら、私はあなたの妻になりましょう』 神はもちろん、すぐに娘の願いを聞き入れ、娘を妻にした。 そして、神は愛する妻のために、永遠に枯れない花を一輪だけ作った。 それが この国の紋章である百合の花で、だから、この国は今でも一つの国なんだ。 両親を早くに亡くした瞬王子に、祖国の成り立ちの伝説を語ってくれたのは、瞬王子の兄君でした。 その時、瞬王子は、7歳になっていたでしょうか。 「じゃあ、その娘さんが神の最初の提案を受け入れていたら、この国は、人間の娘さんが治める国と神の治める国の二つに別れてしまっていたかもしれないの?」 「かもしれないな。だが、伝説や神話を物語る言葉は、多くの場合、事実や現実に起こった出来事や かくあるべき理想を象徴的に言い表わすための道具にすぎないんだ。この伝説が語っているのは、要するに、神にとって、その娘は自分の半身となるべき人、自分の半分を与えても後悔しないと確信できる人、それくらい大切な人、自分の命と同じくらい大切な人だったということだ。だから、二人とこの国は一つであり続けるべきで、一つであり続けてきたということなんだ」 「ん……ん……」 まだ幼かった瞬王子には、兄君の説明は少し難しくて、ですから よく理解できませんでした。 理解できないことに困ったように眉根を寄せた瞬王子の顔を見て、兄君が その目許に微笑を浮かべます。 そうして、瞬王子の兄君は、小さな瞬王子の身体を抱き上げて、お父様のように、あるいは お母様のように優しい目をして瞬王子の顔を覗き込み、言いました。 「おまえにはまだ早いが、この国の男たちは結婚を望む娘に、『私の半分をあなたに捧げます』と言って求婚するんだぞ」 『おまえにはまだ早い』と瞬王子に言った兄君も、その時はまだ10代の青年でした。 ですが、10歳の時には既に 国の王になっていた兄君は、実際の年齢より大人びた様子をしていて、瞬王子の目には、どんな大人よりも強くて、絶対に間違いを犯さない人と映っていました。 両親のない自分を守ってくれる ただ一人の人が兄君だということも わかっていましたので、瞬王子には、瞬王子の兄君こそが神のような存在だったのです。 『恋』だの『結婚』だの『求婚』だのの意味はわかりませんでしたが、神にも等しい兄君の語ることですから、それはとても素敵なことなのだろうと、幼い瞬王子は思ったのでした。 もちろん、伝説は伝説でしかないこと、瞬王子の兄君が治める強大なこの国は、ほんの二百年前までは小さな王国にすぎなかったこと、その小国を 歴代の王が武力と知略で近隣の国々を支配下に収め 強大な大帝国にしたのだということを、瞬王子は、やがて歴史の授業で知ることになったのですけれど。 本当は、この国は一つの王国ではなく、数多くの属国を従える帝国で、瞬王子も本当は皇太子、兄君の一輝国王も 本当はただの一国の王ではなく皇帝なのだということも、瞬王子は ずっとずっとあとになってから知ったのでした。 |