そうして、翌日、瞬王子の離宮にやってきたのが氷河だったのです。 氷河は、瞬王子より幾つか年上で、瞬王子の兄君よりは幾つか年下のようでした。 彼は、太陽の光を吸い取ったような金色の髪と、夏の空の色を吸い取ったような青い瞳を持つ、大層美しい青年でした。 もっとも、初めて瞬王子の前にやってきた時、彼は とても不機嫌そうな顔をしていましたけれどね。 綺麗な人が むすっとしていると、恐さも百倍。 瞬王子は笑顔でない人に滅多に会ったことがなかったので、初めて氷河に会った時には、声をかけるのも恐くて躊躇してしまいました。 ですが、100人もいた召使いのうちで医者や教師以外の文字を読めない召使い80人分の仕事を、これから氷河が一人ですることになったのですから、彼が険しい顔をしていたとしても、それは仕方のないことと、瞬王子はすぐに思い直しました。 そして、瞬王子は、なるべく彼の手を煩わせないように、これからは自分の身のまわりのことは何でも自分でするようにしようと決意しました。 そうできることは、実は、瞬王子にはとても嬉しいことでもありました。 ですから、瞬王子は にっこり笑って、むすっとしている氷河を王弟付き侍従長として 彼の離宮に迎え入れたのです。 そんなふうに、瞬王子にとっては、氷河との出会いはとても嬉しいものだったのですが、氷河には、王弟付き侍従長という役職は、全く 全然 少しも嬉しいものではありませんでした。 実は、氷河は、つい2年前までは、瞬王子の国の北方にある小さな公国の公子だったのです。 お父様とお母様が相次いで病で亡くなった年、北の公国は大変な飢饉に襲われ、氷河は、国民の命を守るために、瞬王子の国に援助を求めなければならなくなりました。 瞬王子の兄君は、もちろん すぐに北の公国からの援助要請に応じましたよ。 それは多くの人間の命がかかった、言ってみれば人道的援助でもありましたからね。 ただ、瞬王子の兄君は、北の公国への援助を約束してから、氷河に、 『北の公国は、我が国の援助への代償として何を差し出すのだ?』 と尋ねたのです。 多くの人の命がかかっていることなのに見返りを求めるなんて! と、兄君を責めてはいけませんよ。 瞬王子の兄君が他国の援助に用いるのは、自国の民が治めた税。 国王という仕事は、慈善事業とは違うのです。 国王は、自国の民に対して重い責任を負っていて、国の損、民の損になることはできないものなのですから。 お父様のあとを継いで北の国の大公になるはずだった氷河は、その時、自国の民のために苦渋の選択をしました。 国は存続自体が危うい状態。 飢饉を乗り切るために ほとんどすべての財を放出して、北の公国の国庫は空っぽ。 その時、氷河が持っているものは、飢えに苦しむ国民と公国の名、そして、大公となって北の公国の統治者になる資格と権利だけでした。 今は何より国民の命を守ることこそが最優先事項。 そう考えた氷河は、帝国からの援助の代償として、自国を一輝国王の国の属国とし、その主権を瞬王子の兄君に委ねることを決意したのです――せざるを得なかったのです。 瞬王子の兄君は、氷河の決意を聞くと、すぐさま大量の穀物や家畜用の飼料を北の国に送りました。 そうして、帝国から贈られた大量の救援物資のおかけで、北の公国の民の命は救われたのです。 一輝国王は、北の公国への人道的援助をする一方で、公国の属国化も着実に進めました。 一輝国王は、まず その支配を確固としたものにするために、北の公国に自分の意を受けた役人を派遣しました。 そして、入れ替わりに、公国の君主になるはずだった者は 帝国の家臣の一人として帝国の王宮にくるようにと、氷河に命じたのです。 氷河は、瞬王子の兄君の命令に逆らうことはできませんでした。 そうして、氷河は、瞬王子の兄君の 領地を持たない家臣の一人になったのです。 それで大人しくしていればよかったのかもしれませんけれど。 小国とはいえ 一国の君主となるべく育てられた氷河は、他人の下で“大人しく”していることのできない青年だったのです。 国土も民も地位も富も持っていないという事実は、かえって氷河を自由にしました。 つまり、失うものが何もないので、氷河は大帝国の帝王の機嫌を損ねることも恐れず、彼に ずけずけと意見することもできたのです。 それで、一輝国王は、そんな氷河を ちょっと煙たく思っていたのです。 氷河の意見は、小国の支配者の意見・考え方としてなら至極尤もなものでした。 けれど、それは、まず広大な帝国全体のことを考えて、国の進退や統治方針を決めなければならない一輝国王の意見とは 真っ向から対立することの多い意見でもあったのです。 自分の村の利益だけを考えればいい小さな村の村長と、国全体の利益を考えなければならない国王とでは、そもそも“利益”の内容からして違っているものですからね。 それで、瞬王子の兄君は、氷河に、今はまだ年若い少年で政治に口出しできない瞬王子の世話をさせることを思いついたのでした。 王族の侍従長というのは大変名誉な仕事。 地位も富も身分も何もない一人の青年が その名誉な役職に任じられるということは、考えようによっては大変な厚遇、大変な出世でした。 けれど、飢饉さえなければ一国を治める大公になっていたはずの青年が、現在の主君の肉親の身のまわりの世話を命じられて、その“出世”を素直に喜べるものでしょうか。 一輝国王には、それは 現在の氷河の立場を彼に思い知らせるための ちょっとした嫌がらせだったのですけれど、氷河には、それは 彼のプライドを打ち砕く痛烈な一撃でした。 プライドは、治めるべき国と民を失い、他人の家臣として生きるしかない境遇に身を落とした現在の氷河を支える唯一のものだったというのに。 そんな経緯での瞬王子付き侍従長就任でしたので、氷河は侍従長の仕事の内容もよくわかっていませんでした。 もちろん公子でいた時には、氷河にも幾人もの侍従や召使いがついていたのですが、氷河は あくまでも仕えられる側の人間でしたから、その仕事の内容を意識したことはなかったのです。 当然、氷河は、自発的に侍従長の仕事をすることはできません。 瞬王子は瞬王子で、自分のことを自分でできることが嬉しいので、氷河に仕事を命じません。 仕事を命じられないので、氷河は、彼の新しい主人への名乗りを終えると、与えられた部屋にこもって、彼から祖国を奪って更に国土を拡大した大帝国の歴史を記した本を むかむかしながら眺めて時間を潰していたのです。 神の恋の伝説から始まる帝国の歴史を二千年分ほど読み終えた頃、一人の女官が氷河の部屋に灯りをともしにやってきて、それで氷河は日暮れの訪れに気付きました。 そして、さすがに、自分は このまま何もせずに一日を終えていいのかと考えたのです。 やはりまずいだろうと思った氷河は、あまり気乗りはしなかったのですけれど、瞬王子の様子を見にいくことにしました。 ところが、瞬王子の部屋に瞬王子の姿がありません。 それで、氷河は少々――否、大いに――慌ててしまったのです。 自分が侍従長に就任した その日に 瞬王子の身に何かあったら、あの一輝国王がどういう責任の問い方をするか わかったものではありません。 我が身ひとつのことで済めば問題はありませんが、一輝国王の怒りの矛先が、今は帝国の属国になっている北の公国の民に向けられでもしたら、氷河は自身の怠慢を悔やんでも悔やみきれないと思ったのです。 にわかに険しい顔になった氷河に、 「王子はどこだ !? 」 と尋ねられた護衛兵が、 「さきほど、お一人で浴場の方に行かれましたよ」 と笑いながら答えてきたので、瞬王子が自室にいないことは、特段 慌てるようなことでも心配するようなことでもないらしいと、氷河は安堵の胸を撫でおろすことになったのですが。 同時に、氷河は、 「貴様を我が最愛の弟の侍従長に任じてやる。光栄に思え」 と偉そうに命じたあとに、一輝国王が、 「特に瞬の入浴の世話は心して務めるように」 と、訳のわからないことを言っていたのを思い出しました。 それで、氷河は、いったい あの偉そうな王の弟の入浴に、心しなければならないような どんな問題があるのかということが気になって、瞬王子がいる浴場に行ってみることにしたのです。 その浴場は、瞬王子の離宮から続く廊下の先に、別棟として建っている建物の中にありました。 大理石で造られた建物自体も大きなものでしたが、満々とお湯のたたえられた浴槽も馬鹿げた広さ大きさ。 これが、今はまだ政治的に何の力も持っていない年若い一人の少年のためだけに造られた施設なのだとしたら、この国は大いなる富の使い方を間違えていると、氷河は腹立たしく思わずにはいられませんでした。 実際には、瞬王子の離宮も大浴場も、一輝国王が生まれる百年以上も前に建てられたものだったのですけどね。 その広い浴槽の真ん中に、瞬王子はいました。 その浴槽は、中央に向かうにつれ深くなるように設計されているらしく、瞬王子は あろうことか、そこで(もちろん裸で)楽しそうに すいすいと泳いで 遊んでいたんです。 その姿を認めた途端、ほんの少し前、瞬王子が姿が部屋にないことを知って慌てた自分が とんでもない大馬鹿者に思えて、氷河は思い切り顔をしかめてしまったのでした。 とはいえ、瞬王子の姿が見えないことに あたふたと慌ててしまったのは、氷河が一人で勝手にしたことで、瞬王子に責任のあることではありません。 当然、氷河は瞬王子を叱ることはできません。 瞬王子に八つ当たりすることもできません。 かといって、楽しそうに広い浴槽を泳ぎまわっている瞬王子の様子を、微笑ましく思うことは なおさらできず――氷河は浴槽の脇に立って、眉をつりあげ、広い浴場を独り占めしている瞬王子を睨みつけることになったのでした。 はじめての一人での入浴に浮かれ、誰も見ていないと信じて お風呂で泳いでいた瞬王子が、浴槽の脇に仁王立ちに立っている氷河に気付いたのは、それからまもなく。 「あ……いつから……」 まるで いたずらを母親に見付けられてしまった小さな子どものように慌てて、瞬王子は ちゃぷんとお湯の中に身体を隠しました。 そして、目だけで しばらく氷河の様子を窺い、やがて叱られるのを覚悟した子供のように 恐る恐る氷河の方にお湯の中をちゃぷちゃぷ移動したのです。 「俺は、おまえの入浴の世話をしろと言われてやってきた。何をすればいいんだ」 不機嫌そうな顔と声で尋ねてくる氷河の足元で、瞬王子は身体を小さく縮こまらせました。 「あの……特には……。僕は、本当は一人で服を脱げるし、自分で身体や髪を洗うこともできるし、身体を拭くことも、夜着に着替えることも――」 「では、俺は、おまえが風呂で泳いでいるのを、ここでずっと見張っていればいいのか」 「そ……その必要もない……かな? いくら広くても、僕がお風呂で迷子になることもないと思うし……」 お風呂で泳ぐなんて あまり行儀のいいことではありませんが、それは誰かに迷惑をかける行為でもありませんから、そんなに悪いことでもないはず。 瞬王子が恐かったのは、自分の犯した罪(?)ではなく、氷河の不機嫌そうな顔でした。 瞬王子は、ですから、むっとしている氷河を笑わせるつもりで、そんなことを言ったのです。 氷河はにこりともしませんでしたけれど。 もともと瞬王子は お風呂で女官たちに笑われるのが恥ずかしくて、『一人でお風呂に入れるようにしてください』と兄君にお願いしたのです。 氷河が入浴中の自分を見ても笑わないでいてくれることは、瞬王子の希望が叶ったということでした。 けれど、瞬王子は、むすっとした顔で瞬王子を睨みつけている氷河の前で、少しも嬉しい気持ちになれませんでした。 氷河は、瞬王子を睨みつけながら世界の全部を睨みつけているようで、お風呂のお湯に映っている自分自身をも睨みつけているようで、その様子は、瞬王子をとても居心地の悪い気分にするものだったのです。 自分がお風呂の中にいると、自分を睨んでいることを仕事と勘違いした氷河がいつまでもそこに立っているかもしれないと考えて、瞬王子は浴槽の外に出ました。 そして、氷河に尋ねてみたのです。 「氷河は笑わないの?」 と。 「――?」 なぜそんなことを尋ねられるのか――氷河には、瞬王子の問いかけの意図するところがわかりませんでした。 ですから、氷河は、瞬王子に沈黙という答えを返すことになったのです。 そんな氷河の前で、瞬王子が僅かに瞼を伏せ、どもり途切れがちに言葉を重ねます。 「昨日まで僕の世話をしてくれていた女官たちは、僕がお風呂に入るたび、僕を見て くすくす笑っていたの。だから、僕、これまでは、お風呂に入った時は、いつも お風呂の端っこで なるべく身動きせずにいたの。あの、これまでお風呂で泳いだりしたことはなかったんだよ。ほんとだよ」 「……」 瞬王子は、女官に笑われることは恥ずかしくても、他人に裸体を見られること自体は 全く恥ずかしく思っていないようでした。 これが大帝国の皇太子の羞恥心というものかと思いながら、氷河は、浴場の出入り口の脇のベンチの上に置かれていた綿布を取るために、瞬王子に背を向けました。 氷河はそれを瞬王子に放るだけでよかったのですが――実際 彼はそうするつもりだったのですが、直前で彼は その布を瞬王子に放り投げるのをやめました。 代わりに、氷河は、その布を手にしたまま 殊更ゆっくりした足取りで、それを瞬王子に手渡せる場所まで歩いて戻ったのです。 その短い時間で、氷河は瞬王子の全身を素早く くまなく観察しました。 瞬王子の身体には、特に笑いを誘うようなところはありませんでした。 湯からあがったまま身体を拭いてもいないというのに、あまり肌が濡れているように見えないのは、若く張りのある肌が湯を水滴にして弾いてしまったからのようでした。 ある部分が少々 可愛らしすぎるような気もしましたが、それも取り立てて問題にするようなことではないでしょう。 おそらく入浴係の女官たちは、瞬王子の肌を見、その肌に触れることに、赤ん坊の肌を見、触れるような気持ちになって、微笑まずにはいられなかったのではないかと、氷河は思ったのです。 実際、瞬王子の肌は、この帝国と帝国の支配者を快く思っていない氷河にさえ、『この王子の肌に触れてみたい』と思わせる風情をたたえていました。 そんなことをしたら変質者だと、自身に言いきかせ、氷河はかろうじて その誘惑に耐えることができたのですが。 「女というものは、何でも面白がって笑うものだ」 放り投げるつもりだった綿布を、瞬王子の身体を覆うように 「そ……そうなの?」 氷河の言葉に驚いたように瞳を見開き、彼の侍従を見上げてくる瞬王子の顔を見た時、氷河は、瞬王子が その身体だけでなく顔立ちも尋常でなく美しいことに気付いたのです。 優しい印象が強すぎて、あまり“整っている”という感じを人に与えるものではないのですが、瞬王子の顔の造作は実に見事なものでした。 そして、その端正を“どうでもいいこと”にしてしまうほど、澄み輝いて印象的な その瞳。 女官たちが瞬王子を見て“くすくす笑って”いたというのは、どう考えても、彼女たちが、自分の仕える主人が可愛らしすぎて、微笑せずにはいられなかったから――です。 氷河は、そう思いました。 瞬が、氷河の祖国を奪った帝国の王子でさえなかったら、氷河もやはり瞬王子の前で我知らず微笑んでしまっていたことでしょう。 瞬王子が、まさに 氷河の祖国を奪った帝国の王子だったので、氷河は瞬王子に笑顔を向けるようなことはできなかったのですけれど。 「そうだ。知らないのか」 「知りませんでした」 「証拠を見せてやる。服を着けろ」 「は……はい……!」 自分がいつも女官たちに笑われていた理由がわかるかもしれないという期待に突き動かされて、瞬王子は急いで服を身に着けました。 もちろん自分ひとりの手で、ですよ。 瞬王子は、女官たちや氷河の手を借りなくても、一人でちゃんと着替えくらいできたのです。 そして、瞬王子の着衣の作業を睨んでいた氷河と(氷河はずっと瞬王子を睨んでいました)一緒に居室に戻りました。 |