そうして、時が、やっと、瞬の一度目の生に追いついた時。
瞬の二度目の人生が始まったジュデッカで、ハーデスに身体を乗っ取られた瞬の前に立ったのは、瞬が画策した通りに、瞬の兄ではなく、瞬が生き延びさせた黄金聖闘士たちだった。
瞬は、自身の身体がハーデスの支配を受けるという運命を変えることはできなかったが、兄が弟への情に負け ハーデスに倒されるという事態だけは回避することができたのである。

人間が自分を無力な存在だと思うのは、自分を自分の思い通りに動かせない時ではなく、自分以外の人間を思い通りに動かすことができない時なのかもしれない。
自分自身はハーデスの力に屈し、その支配を受けているというのに、瞬は自分を無力な存在だとは思っていなかった。
“二度目の瞬”は、その人生を生き始めた時に計画した通りに、“二度目の瞬”の生きる目的を達した――達しかけていたから。
兄が、彼の弟の姿をした者のために命を失うという最悪の事態を、瞬は予定通りに回避することができたのだ。

あとは、兄に代わって黄金聖闘士たちが ハーデスに縛られたアンドロメダの聖闘士を倒してくれれば、瞬は、与えられた二度目の人生を完璧に生き抜いたことになる。
ハーデスの姿をした瞬は、死を恐れる気持ちを ほとんど感じず、むしろ 自らの勝利に歓喜して、黄金聖闘士たちに 彼の勝利の実現を求めたのだった。
「僕を倒して」
――と。

だが、何ということか。
黄金聖闘士たちは、瞬の思い通りに動いてくれなかった――彼等は、瞬の命令に従うことをためらったのである。
これまで自分の人生で、自分以外の人間を ほぼ思い通りに動かしてきた瞬は、想定外の黄金聖闘士たちの造反に驚き、たじろぐことになった。
「な……なぜ……? あなた方は、アテナのため、アテナの愛する世界を守るために戦う者たちでしょう。今は僕を倒すことが、アテナとあなたたちが生きる世界を守ることなのに……!」
瞬の悲痛な叫びを、首を横に振ることで拒んだのは、あろうことか 乙女座の黄金聖闘士だった。

「君は――もしかしたらアテナへの反逆者という汚名を着せられて死んでいたかもしれない私の多くの仲間の命を救ってくれた。私自身も、君がいなかったら、そんな不名誉な聖闘士の一人になっていたかもしれない。私と私たちの仲間の名誉と命を救ってくれた君を倒したら、私は義も信も恩も知らぬ者ということになってしまうだろう」
「あ……あなたは何を言っているの……」
“最も神に近い男”のその言葉に、瞬は驚き、そして狼狽した。
これでは“最も神に近い男”どころか、どこにでもいる ただの普通の人間ではないか――と。
そんな瞬の前で、シャカが目を開ける。
その瞳に出会った途端、瞬は、彼が何者であるのかに気付いた。

彼は人間なのだ。
『自分は慈悲の心など持たぬ』とうそぶきながら、人間以上のものであろうとする ただの人間――哀しいほど、ただの人間なのだということに。
その“ただの人間”が、鳳凰座の聖闘士との死闘で得るはずだったもの。
それを、瞬は、彼から奪ってしまったのだ。
兄との戦いで変化成長するはずだった彼から その機会を奪ってしまったのは、他の誰でもない瞬自身だった。

「で……でも、今 ためらっていたら、世界が滅びてしまうの。わかるでしょう……!」
「しかし、君はハーデス自身ではない。何か他に――君の命を消し去ることなく、君をハーデスの支配から解放する術があるはず」
そんな悠長なことを言っている場合ではないのに、この人間は何を言っているのか。
瞬の焦慮は、ほとんど怒りに変わりかけていた。
ここで死ぬために、ここで死ぬためだけに、これまでの長い時間を生きてきたアンドロメダ座の聖闘士の命を、あなたは無にする気なのかと。
今の瞬は、これまで思い通りに操ってきた人形たちに突然反逆された人形使いのようなものだった。
人形だと思っていた者たちが それぞれに心を持った人間だったことを、瞬は忘れ、思い上がっていたのだ。

『お願い! 誰でもいい。僕を殺して!』
瞬の悲鳴が、ハーデスの意思に打ち消される。
次の瞬間、ジュデッカの薄闇の中に響いたのは、死を願う瞬の叫びではなく、冥府の王の高らかな嘲笑だった。
「長い時を費やして、やっとこの場面にまで持ち込んだというのに、そなたのしたことは無意味だったな。そなたのしたことは、今 すべて水泡に帰すのだ」
『あ……』
「そなたの兄も、ここではない他の場所で死ぬ。おそらく、アイアコスあたりが倒すことになるだろう。以前のフェニックスならアイアコスを倒すこともできたかもしれぬが、そなたが甘やかした今のフェニックスにはその力がない。兄を弱くしたのは そなただぞ、瞬」
『そ……んな……』
「そして、この者たちも ここで余に倒される。そなたの二度目の生は完全に無駄であったな」

真の勝利者、真の人形使いは 人間ではなく神なのだと、ハーデスが言う。
ハーデスの自信は根拠のない思いあがりではなく――彼は 彼の言葉を速やかに現実のものとした。
二度目の瞬の画策のせいで 強さを手に入れ損なった黄金聖闘士たちが 手もなくハーデスに倒される様を、瞬は、ハーデスの中から自分の目で見ることになった。
『ああ……!』
「人間と言うものは不便なものだ。心などというものがあるばかりに自分を弱くする。そなたも、黄金聖闘士たちも。哀れなことだ」

言葉では そう言いながら、ハーデスは実は誰も哀れんでいない。
神であるハーデスの無慈悲が、今の瞬には慈悲に思えた。
ハーデスに哀れまれてしまったら、瞬は、その瞬間に、瞬という人間としての すべての力を失ってしまっていただろう。
ハーデスが無慈悲だったから、瞬は叫ぶことができたのである。
ハーデスの力に支配された身体の中で、
『じゃあ、僕はどうすればよかったの! どうすれば、兄さんを救い、世界を守ることができたの! ここで死ぬために、僕は氷河の心すら切り捨てたのに! 僕は、だったら、どうすれば……どうすればよかったの!』
――と。






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