寂しげな一軒家から北東に向かって15分ほど。 浜に行くと、そこに氷河が立っていた。 氷河の他には誰もいない、何もない、荒涼とした浜。 砂の代わりにあるのは、雪と氷。 空は灰色で、海も灰色。 海風も陸風も止む時刻なのか、風すらもない。 氷河は、そんな白色と灰色しかない世界の中央で、海を見詰めていた。 あるいは、彼が見詰めていたのは空だったのかもしれないが、ここでは その二つは分かち難く溶け合って 一つのものになっていた。 この海には氷河の母の亡骸が沈んでいると、瞬は聞いていた。 瞬は、氷の浜に佇んでいる氷河の姿を認めた時、彼は おそらく彼の亡き人を懐かしんでいるのだろうと思ったのである。 だが、それにしては氷河の周囲の空気が険しいことが、瞬に奇異の念を抱かせた。 もちろん、生きていてほしかった人の死に対して、残された人間が憤りを感じることはあるだろう。 だが、残された人の心は、やがては悲しみと孤独と懐かしさに流れていくものと、瞬は思っていた。 そして、氷河の憤りのための時間は、6年前には既に終わっていたのだと。 しかし、今 氷河の周囲にある空気には苛立ちが含まれていて、氷河はその苛立ちを必死に自分の内側に押し込めようとしているように、瞬には感じられたのである。 氷河の周囲の空気に動きがないのは、風が止んでいるからではないような気がした。 もしかしたら、氷河は、戦うことや人間が生きていることの無常に対する自身の感情に 懸命に耐えているのかもしれない。 灰色の海を――あるいは、灰色の空を――見詰めている氷河の姿は、瞬の胸中にそういう考えを運んできた。 城戸邸にいた頃、瞬は氷河を、星矢ほど天真爛漫ではなく、紫龍ほど慎重派ではなく、兄ほど厳格ではないが、兄よりは明るく、星矢ほど軽率ではなく、紫龍ほど寛大ではない子供だと思っていた。とにかく綺麗で、他人の意見に左右されない子供。 それが、幼い頃の氷河の城戸邸での立ち位置。 そんな子供だった氷河が、6年の時を経て どういう大人になったのか――。 あれこれ思い巡らせて当然のことを考えもせず、氷河に会えるという期待と喜びだけで ここまでやってきた己れの迂闊に、瞬は今 少なからず驚愕していた。 「氷河」 何者かが近付いていることに気付いていないはずがないのに振り返ろうともしない氷河の名を、恐る恐る口の端にのぼらせる。 ゆっくりと振り返った氷河を見て、瞬が最初に思ったことは、氷河はこんなに冷たい目をしていただろうか――ということだった。 青い瞳が、シベリアの海の灰色に染まってしまったように、氷河の瞳は冷えきっていた。 金色の髪は、瞬の記憶に残っている通りに、この灰色の世界の中でも眩しく輝いているというのに。 「あ……あの……」 6年も会っていない泣き虫の子供のことなど、氷河は忘れてしまっているかもしれない――という不安に、今になって囚われる。 何といっても、幼い頃の瞬は、強い兄がいなければ、誰からも黙殺されていたはずの貧弱な子供だったのだ。 瞬は、びくびくしながら、氷河の前に立つことになった。 「瞬、か」 「あ……」 人に名を呼んでもらえることが、これほど嬉しいことだったとは。 初めて聞く氷河の低い声に 少し戸惑いながら、それでも、重く沈みかけていた瞬の心と身体は、氷河の声を聞くなり はっきりと軽くなった。 「うん! ありがとう! 憶えててくれたんだね!」 氷河の側に駆け寄って、その顔を見上げる。 氷河が変わってしまったのは背丈や 声の高低だけではなかったが、そこには確かに幼い頃の氷河の面影が残っていた。 氷河にまた会えたのだという感激が、瞬の心を浮き立たせる。 「嬉しい。ほら、城戸邸に僕がいたことは憶えてたとしても、僕、大きくなったから、すぐにはわからないかなって思ってたんだ」 「わからないはずがないだろう。その女顔」 「……」 氷河は、城戸邸にいた時も、決して愛想のいい子供ではなかった。 だが、こんな意地の悪さは――瞬が聞きたくない事実をはっきり突きつけてくる残酷さは――なかったような気がする。 それとも自分は 自分に都合の悪いことだけを綺麗に忘れてしまっていたのだろうかと、瞬は、氷河の抑揚のない声に少々困惑することになった。 「僕が女顔なのが事実だったとしても、こう、『たくましくなったな』とか『聖闘士になれて立派だぞ』とか、もっと違う言葉をかけてくれてもいいでしょう」 「たくましく?」 瞬が告げた言葉を繰り返して、氷河は瞬を鼻で笑った。 否、彼は笑いもしなかった。 表情らしい表情もなく、温かみのない声で尋ねてくる。 「何しに来た」 まさか、そんなことを責めるように尋ねられるとは思っていなかった瞬は、一瞬 答えに窮してしまったのである。 『氷河に会いたかったから』という真実の答えは、アンドロメダ座の聖闘士のシベリア来訪の正当な目的として、氷河に受け入れてもらえないような気がした。 「それは……あの……氷河を迎えに」 「俺は日本へは帰らん」 「どうして !? 」 ほとんど反射的な反問だったのだが、それは自然で当然で必然でもある問いかけだったろう。 その自然で当然で必然な質問に、氷河は答えてくれなかった。 無言で踵を返し、彼の家のある方向に向かって歩き出す。 「どうして !? 星矢も紫龍も兄さんも、氷河に会いたがってるのに」 「――」 「それとも、氷河がここに残らなきゃならないような、何か特別な事情があるの?」 「――」 「氷河はみんなに会いたくないの !? 」 「――」 答えを聞きたいからというより、氷河に振り向いてほしくて、瞬は矢継ぎ早に氷河に言葉を投げかけていった。 が、それらに対する答えを、氷河は瞬に全く与えてくれなかった。 それどころか、氷河は、彼のあとを追って 一緒に家の中に入ろうとした瞬を、入口で押し留めるようなことをしてくれたのである。 「勝手に入るな」 古い仲間を懐かしむ気配のかけらも見せてくれない氷河の冷たさに傷付きながら、それでも、瞬は氷河に食い下がった。 「でも、この辺りにはホテルはないでしょう? 氷河が絶対に僕を中に入れたくないっていうのなら、僕は野宿してもいいんだけど、明日の朝、家の前で凍死している僕を見付けたら、氷河だって いい気持ちにはならないでしょう?」 「……」 こんな我儘を言える気丈が自分にあったことに驚きつつ、瞬は氷河にすがっていった。 幸い氷河には 凍死者を見付けて喜ぶ趣味はなかったらしい。 いかにも渋々といった 「氷河……どうして帰らないなんて言うの」 瞬を家の中に招じ入れることが いかにも不本意と言いたげな氷河の冷たい態度に 挫けそうになりながら、瞬はもう一度 氷河に尋ねてみたのである。 氷河が、問われたことには答えずに、逆に瞬を問い質してくる。 「おまえ、ガキの頃から こんなに口数が多かったか」 「ううん」 瞬は、氷河の質問に すぐに首を横に振った。 「どうして こんなにお喋りになったんだ」 「子供の頃は、喋る前に泣いてただけ。でも、聖闘士になったら、泣く必要がなくなったの」 「……なるほど」 その答えで納得したのか しなかったのか――氷河は瞬の返答を聞くと、大きく一度 吐息して、 「静かにしろ。俺は騒がしいのは嫌いだ」 と、瞬のお喋りに釘を刺してきた。 この家の主人は氷河で、瞬はあくまでも 彼の家の中に入ることを許されただけの客人にすぎない。 主人の意向に逆らうわけにもいかず、瞬は、身体を小さく丸めて 氷河に頷くしかなかったのである。 |