沙織に迎えのヘリを頼むのは、電話一本ですぐにできる。 だというのに、瞬は、翌日、その容易な作業にずっと取りかかれずにいた。 携帯電話を握りしめて ぐずぐずしている自分が嫌でならないのに、他にできることがない。 氷河は、遠来の客の相手をする役目を とうの昔に放棄している。 起床後 1時間ほどを無為に過ごしてから、瞬はヤコフに会いにいくことを思いついた。 あの人懐こい少年に会って言葉を交わしたなら、自分は何事かを決意できるに違いないと考えて。 そうして瞬が氷河の家を出た時だった。 瞬が会いに行こうとしていた人物が、氷河の家の扉の前に橇をすべらせてきたのは。 昨日は自分で引いていた橇を、ヤコフは今日は二頭の犬に引かせていた。 そして、ひどく慌てていた。 「ヤコフ? どうかしたの?」 「クマが村に近付いてるんだ! 氷河は !? 」 橇から降りずに、ヤコフが大きな声で瞬に尋ねてくる。 瞬は、それでヤコフの狼狽の訳を理解した。 が、あいにく氷河は今日は、起床してすぐに浜の方に出て行ってしまっていたのだ。 もし村に近付いているクマが飢えて凶暴になっているのなら、事は一刻を争うのだろう。 氷河が守り、氷河を必要としてくれている村の人々に 危険が迫っているのだ。 その状況が、瞬を、仲間を失いかけて意気消沈している子供ではないものにした。 「氷河は海の方に行ってるの。ヤコフ、迎えに行ってくれる? クマは、それまで僕が村に入らないように引き止めておくから!」 「えっ、瞬が !? 」 ヤコフは瞬の力に不信を抱いているようだったが、今はヤコフの侮りを改めさせる時間も惜しい。 瞬は急いで聖衣を身につけ、氷河が守ってきた村に向かって駆け出したのである。 数日前に、氷河の家まで40分をかけて歩いてきた、道とも言えぬ道を、5分で駆け戻る。 村に近付いているというクマは、すぐに見付かった。 飢えて痩せ細ったクマは動きが鈍く、だが、目が血走り、気が立っていた。 チェーンで捕えるのは容易だったが、捕えられてから、そのクマは途轍もない力で暴れ もがき、狂気のような咆哮を周囲に響かせ始めた。 瞬は、クマの歩みを止めてから、このクマをどうすればいいのかを迷うことになったのである。 チェーンに命じれば、電流を流してクマの意識を奪うことはできるのだが、加減を間違えると、その衝撃は この痩せ細っているクマの命を奪いかねない。 人間の手による自然破壊の犠牲者であるクマの命を絶つことは、とてもではないが瞬にはできなかった。 だが、いつまでもチェーンで捕縛しておくこともできない。 「わーい、瞬。それ、瞬が捕まえたのー !? すごいやー!」 というヤコフの声が聞こえてきたのは、瞬が飢えたクマをチェーンで捕まえてから10分ほどの時間が過ぎてからだった。 ほとんど歓声といっていいヤコフの声を、 「瞬、無事かっ」 という、氷河の声が追いかけてくる。 よほど急いで駆けつけたのか、氷河は聖衣も身につけていなかった。 「氷河……!」 「無事だな。よし」 瞬の無事を確かめると、氷河は小脇に抱えていたヤコフを雪の上に下ろし、彼に、 「村の外に連れ出すのは無理だ。おじいさんに、麻酔銃を持ってくるように言え」 と命じた。 ヤコフが村に向かって走り出すのを待たずに、瞬のすぐ横に駆けてきて、瞬のチェーンとクマの状況を確認し、瞬に尋ねてくる。 「瞬、そのチェーンで、クマの前足を地面につけさせることができるか」 「うん」 短い返事を言い終える前に、瞬は、立ち上がっていたクマが前のめりになるようにチェーンを引き、その前足を地につかせていた。 そのタイミングを逃さずに、氷河が、クマの前足を凍気で地面ごと凍りつかせる。 逆立ちをして暴れる器用さは持っていなかったらしく、クマはそれで大人しくなった。 大人しくなったというより、そのクマは、我が身が今どういう状況にあるのかが理解できずにいただけだったのかもしれない。 氷河が駆けつけてきてから、クマが大人しくなるまで僅か20秒。 ヤコフの祖父が銃を持って現場にやってきたのは、それから10分以上の時間が経ってからだった。 左右の前足を地面から引き離すことができずに呆然としているようなクマの姿を見て、老人は、ほっと安堵したように銃を握りしめていた手を下におろした。 そして、にこにこしながら、瞬たちの側に歩み寄ってくる。 「あいかわらず 見事だ。なに、この時季なら手がかじかむこともないし、まだ わしも銃は使えるんだが、銃を使わずに済むなら、それにこしたことはないからな」 「そういう問題じゃないでしょ。おじいちゃんが村の中から駆けてくるより、氷河が浜から駆けつける方が早くて確実なんだもの。問題は、おじいちゃんが銃を使えるかどうかじゃなくて、時間だよ」 「氷が張らなくなったせいで、餌場に行けなくなったクマたちは 縄張りも何もなくなっているようだな……」 孫のからかいに苦笑してから、自由を奪われたクマを見やり、老人が苦い顔になる。 「こいつは檻に入れて、あとで若い衆に北の浜に運ばせよう。あちらはまだ氷も多いから、うまくすれば こいつも獲物に出会えるかもしれない。すべては、このクマの運と生命力次第だな」 クマが人間のテリトリーを侵すようになったのは人間のせいだという自覚があるらしく、老人は、人間の村に入り込もうとしていたクマを、むしろ哀れんでいるようだった。 こんなことが頻繁に起こるというのなら、確かに氷河はこの村に必要な人間なのかもしれないと、瞬は思わざるを得なかったのである。 老人に礼を言われても、瞬の心は一向に晴れなかった。 そんな瞬の側に、ヤコフが頬を紅潮させて駆け寄ってくる。 「瞬ってすごく強いんだね! 凶暴になってるクマを簡単に捕まえちゃって、そのチェーン、すごいや! 氷河の足封じ技は、冬場はすぐにクマの動きを封じられるんだけど、夏場はかなり手間がかかるんだ。そのチェーン、ほんとにすごいよ」 「あ、ううん、そんなことは……。僕のチェーンは、結局、足止めしかできなかったし……」 興奮気味のヤコフの賞讃に、瞬は力なく首を横に振ったのである。 氷河が来てくれなければ、自分は、捕えたクマと向き合ったまま いつまでも立ち往生しているしかなかったということが、瞬には わかっていた。 が、ヤコフは それを瞬の謙遜と受け取ったらしく、彼の興奮気味の声と瞳は一向に静まる気配を見せなかった。 とはいえ、彼が興奮していたのは、瞬のチェーンの力への感嘆賞讃のせいだけではないようだった。 頬を上気させたまま、ヤコフは、聖闘士の力とは全く別のことに言及してきたのである。 「でも、それが瞬の聖衣なのか? チェーンよりすごいな。すごいピンク」 「え? ピンク?」 そんなことを指摘されるとは思っていなかった瞬は、ヤコフの言に少々戸惑うことになった。 瞬の困惑を無視して、ヤコフは瞬のピンクの聖衣をまじまじと鑑賞し続ける。 「その胸のあたりとかさ、その聖衣、女の子用なの?」 「そんなことないと思うけど」 「でも、どう見ても、これって女の子用だよ。だって、ピンクなんだもの」 「そ……そんなことないよ! 僕とこの聖衣を身につける権利を争ったのも男の子だったし」 「そうかなあ……。ねー、氷河。このピンクは絶対 女の子用だよね」 「そんなことないってば!」 向きになって もう一度否定してから、瞬は恐る恐る氷河の方に視線を巡らせた。 まさか氷河までヤコフの意見に同調するはずがないとは思ったのだが、素直で純真な子供の正直な意見の持つ力に、瞬は少々不安を覚えたのである。 瞬が視線を巡らせたそこには、実に奇妙な顔をした氷河が立っていた。 瞬がシベリアに来て初めて見る表情。 あえて形容するなら、それは、“想像を絶したものを見せられて、唖然とし呆然としている人間の顔”だった。 |