氷河が無人になる家にかかわる雑務を済ませ、向後のことをヤコフの祖父に託し、日本に帰国することになったのは それから3日後。
村の外れの雪原で沙織が手配してくれたジェットヘリが来るのを待ってる間ずっと――というより、氷河が帰国を決めてからずっと――瞬は氷河とほとんど口をきかずにいた。

「瞬、いい加減に機嫌を直せ」
「氷河なんか知りません!」
機嫌を直せと言われても、機嫌というものは意思の力で直せるものではない。
そして、瞬の機嫌を“直さなければならない状態”にしたのは、今 瞬に『機嫌を直せ』と言っている氷河その人。
氷河の希望に添うことは、今の瞬には非常に困難なことだった。

氷河は、アテナの聖闘士として戦いの中で生きることに ためらいを覚え、そのために帰国を渋っているのだろうと、瞬は思っていた。
瞬自身も、仲間の人生について真剣に思い悩みもした。
氷河のためを思えば、彼に帰国を強いることはすべきではないと、一時は諦める決意さえした。
だというのに、彼が帰国を渋っていた原因は、彼自身の人生のあり方などではなく、白鳥座の聖衣の奇天烈なデザインのせいだったのである。
その上、帰国を決意した理由が『他の仲間たちの聖衣のデザインも、かなり笑えるものらしいから』というのでは、瞬に仲間の帰国を素直に喜べという方が無理な話。
瞬は、すっかり臍を曲げてしまっていた。
悔しく思っているというのではなく、立腹しているというのでもない。
たとえて言うなら、崇高な哲学書として読んでいた本が 実は下品な艶笑譚だったことに、ラストページで気付いてしまった恥ずかしさ――に似た思いに 瞬は支配されていた。

「そんな冷たいことを言うな。俺たちは仲間だろう?」
晴れた冬空の下、氷河が瞬の髪に撫でるように触ってくる。
瞬は、顔を横に向けることで、氷河の手を振り払おうとした。
「仲間だけど! どうせ、僕の聖衣はピンクだし!」
そう言って、唇を きゅっと引き結ぶ。
氷河はそれでも、瞬の髪に触れるのをやめようとはしなかったが。

帰国を決めてから、氷河は瞬に妙に馴れ馴れしくなっていた。
やたらと仲間とのスキンシップを図るようになり、そのこと自体は不快ではないのだが、白鳥座の聖闘士がアンドロメダ座の聖闘士に打ち解けてくれるようになった理由が『聖衣の色がピンクだから』なのだと思うと、瞬はどうしても素直に氷河の気安さを喜ぶことができなかったのである。
しかも、氷河は、仲間の機嫌をとろうとして、瞬の神経を逆撫でするようなことを平気で言ってくれるのだ。
「あれは、女でも なかなか着こなせないぞ。おまえくらい可愛くないと、聖衣に負けてしまう」
「馬鹿にしてっ!」
そんなことを言われて、快く氷河を許してやれるほど、瞬は寛大な人間でも甘い人間でもなかった――瞬は そのつもりだった。

懐かしい空の色の瞳で氷河に切なげに見詰められさえしなかったら、瞬は厳格でからい人間のままでいられたのだ。
だが、氷河は、卑怯にも、あの懐かしい空の色の瞳で、瞬をまっすぐに見詰めてきた。
「馬鹿だったとは思うが……迎えにきてくれて嬉しかった」
「氷河……」
「ありがとう。おまえは怒るかもしれないが、俺はずっとおまえのことを心配していたんだ。二度と会えなかったらどうしようと。おまえのことを思わぬ日は一日もなかった。……仲間が欠けるのは寂しいからな」
「あ……」

氷河の唇は嘘をつくことがあるかもしれない。
皮肉を言うこともあるかもしれない。
だが、氷河の瞳は嘘をつかない――瞳は嘘をつけないはずだと、瞬は思った。
だから、瞬は、氷河の青い瞳の前で、彼を許さずにいることができなかったのである。
「ぼ……僕だって……! 僕は氷河に会いたくて、どうしても氷河に会いたくて、だから、僕はシベリアまで氷河を迎えに来たんだもの……!」
瞬が、涙をにじませた瞳で、氷河の青い瞳を見上げる。
氷河は泣き虫の仲間に微笑して、その右の手を瞬の頬に当て、そして、そのまま瞬を抱きしめてきた。
髪に押し当てられる氷河の唇に、瞬の心臓は大きく跳ね上がったのである。

「そ……そうだよね。仲間が欠けるのは寂しいよね……」
これは 仲間同士の友情の抱擁なのだと、氷河の胸の中で、瞬は懸命に自分に言いきかせた。
だが、氷河の唇や不思議に熱っぽい氷河の指の感触は、一向に瞬の心臓の高鳴りを静めてくれない。
己が身に重大な危害を及ぼす危険物を 自らの手で引き寄せてしまったことに、瞬は その時にはまだ気付いていなかった。






Fin.






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