アテナの降臨の仕方は、時代によって様々だった。 生まれた時からアテナとして認められ、聖域で神殿の巫女たちによって育てられることもあれば、成人してもアテナと知られることなく――アテナとしての自覚にも至らぬまま――聖域ではなく市井で一人の人間として成長することもある。 時に アテナを アテナは神であるが、アテナに仕える聖闘士たちは誤謬多き人間であったので、その判断を誤ることは 極めて稀有なことではなかったのだ。 聖域に二人のアテナが起ち、聖闘士たちが二つの陣営に別れて対立し合ったこともある。 もちろん、その人が真実のアテナとわかれば、聖闘士たちは一枚岩となり、命を賭して、彼等のアテナと地上の平和のために戦うのである。 だが、いつの時代も、人間の肉体を得て人間界に降臨したアテナは、自らを真実のアテナであると聖闘士たちに認めさせ、聖闘士たちの心を一つにまとめあげるまでに、大きな波乱を経験するのが常だった。 その時代の双子座の黄金聖闘士が、結果としてアテナに反旗を翻していたことも、言ってみれば よくあること。 アテナ自身は、双子座の黄金聖闘士の過ちを特に気に留めてもいなかった。 だが、彼が神に(意図せずとはいえ)反逆したことは紛れもない事実。 それは、アテナではなく、アテナ以外の神々に不敬不遜と捉えられていた。 「他の神々は、神をないがしろにした彼を罰するようにと言うのだけど、それって どう考えても、私の勢力を削ぐためのいちゃもんとしか思えないのよね」 十代中頃まで、女神としてではなく、ごく普通の少女として人間たちの中で成長してきた当代のアテナは、どこか庶民的なところがあった。 神にしては砕けすぎたアテナの言葉使いに、瞬は苦笑を洩らすことになったのである。 大理石の寝台が硬くて耐えられないと言って、アテナ神殿に藁布団を運び込んだアテナというのは、代々のアテナの中でも特に庶民的――というより、史上初――なのではないかと、瞬は思っていた。 言葉使いも日常の生活振りも 17歳の人間の少女のそれ。 にもかかわらず、いざという時に見せる彼女の聡明、判断力、圧倒的な威厳は、さすがに神としか言いようがない。 彼女がアテナとして聖域に迎えられる以前、人間としての彼女を知っていた瞬は、彼女のそういうアンバランスなところが好きだった。 テッサリアの野を駆ける野生的な少女だった頃の彼女と、アテナとして聖域に迎えられ 神としての強大な力を発揮する彼女。 人の心と神の心を併せ持つ彼女こそは、人間界を統べる最高の神と、瞬は確信していたのである。 彼女が一介の青銅聖闘士にすぎない瞬を、特に側近くに置くのは、瞬が彼女の幼馴染みで、神としての彼女だけでなく、人間だった頃の彼女を知る者であったからだったかもしれない。 「特に冥界のハーデスが強硬で、人間の分際で神に逆らうなど言語道断、即刻処刑して冥界に送ってよこせと要求しているの」 「ですが、アテナはそうするつもりはないのですね」 「もちろんよ。私がアテナとして 聖域に降臨してから1年。この聖域には、12人の黄金聖闘士はおろか、白銀聖闘士も青銅聖闘士も全員揃っていないのよ。手を尽くして世界中を懸命に探させているところなのに、どうして私の聖闘士を他の神に渡すなんてことができるの」 アテナの意見は至極尤も。 ハーデスの要求は、神殿を建設するために 工人が懸命に大理石を運び込んでいる工事現場にやってきて、既に建っている支柱を一本倒せと言っているようなものなのだ。 アテナには到底 「で、私が彼の要求を撥ねつけたら、ハーデスは、双子座の黄金聖闘士を冥界に差し出すのがいやなら、代わりの者に彼の罪を贖わせろと言い出したのよ。つまり、黄金聖闘士の代わりに青銅聖闘士を一人 差し出せと。ご丁寧にご指名つき。ハーデスはアンドロメダ座の青銅聖闘士がご所望だそうよ」 「僕を、ですか?」 瞬は 幸い これまで一度も死んだことがない。 当然、冥府の王との面識もない。 なぜ冥府の王が自分を“ご所望”するのか、瞬には、そのあたりの事情が全く理解できなかった。 子供の頃からの癖で小首をかしげた瞬を、アテナ神殿の謁見の間の一段高いところにある玉座から見下ろして、アテナがひとつ溜め息をつく。 「ハーデスはあなたにご執心なのよ。私がテッサリアのお転婆娘だった頃、一生懸命 私のあとを追いかけて、私の乱暴狼藉の後始末をしていた あなたの健気が、彼は いたく お気に召したらしくて」 「はあ」 「私は、黄金聖闘士を失うのは もちろん嫌だけど、あなたをハーデスに渡すのも絶対に嫌よ。ほんと、ハーブスも冗談は顔だけにしておいてくれればいいのに」 冥府の王との面識はなかったが、彼が“美しい自分”をこよなく愛するナルシストだという噂は、瞬も聞いていた。 その噂を瞬の耳に吹き込んでくれたアテナが、ハーデスの顔を冗談にしてしまうのに、瞬は少々戸惑うことになったのである。 いったい冥府の王ハーデスは どういう容貌の持ち主なのかと。 すぐに、今はそんなことを考えている場合ではないのだということを思い出し、瞬は、あれこれと想像していたハーデスの顔を、意識の上から取り除くことになったのだが。 「もし、他に道がないのでしたら――アテナのためには、青銅聖闘士の僕より 黄金聖闘士をお側に残した方がいいのではないかと――」 卑下卑屈というのではなく、合理的判断に 合理的判断など 見たことも食べたこともないと言わんばかりの口調で、アテナが瞬の提案を一蹴する。 「だめだめ。ハーデスは清廉潔白な堅物を装っているけど、実際はただの面食いの ど助平なんだから。あなたを冥界に迎えて、彼が そこで あなたにどういう罪の償いをさせるつもりでいるのかは見え見えよ。私は、私の大切な聖闘士が あんな好色神に汚されることには我慢できません。そんなのは絶対にだめ!」 「アテナ……」 合理性より感情を優先させるアテナの言葉はいつも、彼女の聖闘士たちの彼女への忠誠心をいや増しにするものだった。 時折、アテナは本当に何の計算もせずに、その言葉を紡ぎ出しているのだろうかと疑いそうになるほど。 もちろん、アテナは人の心を操るための計算などしていない。 彼女の発言の根底にあるものは、合理性を超越した超合理性。 つまり、愛もしくは好意、あるいは誠意と呼ばれるもの。 彼女の聖闘士たちが彼女のために命を 彼等が自らの命の代償としてアテナから得ているものは、神の愛なのだから。 瞬も、もちろん、そんな聖闘士の一人だった。 「そこで、神々の間で協議がもたれたの。神々は、私の地上での勢力を今以上に大きなものにしたくはないと思っている。でも、ハーデスの勝手な要求を快く思ってもいない。ハーデスの要求が通って得をするのはハーデスだけなんだから、それは当然のことでしょう。――で、神々は、双子座の黄金聖闘士の罪を不問に処す代償として、聖域に一つの難業を課すことにしたの」 「難業?」 「ええ。妻子を殺したヘラクレスがその罪を贖うために12の難業を科せられたのと同じようなものね。その難業というのが、うまくすれば私にとって一石二鳥三鳥にもなりそうな難業で……。だから、ぜひあなたに挑んでほしいのよ。挑んで、やり遂げてほしい」 「その難業とは、どのような」 女神ヘラに狂気を吹き込まれ妻子を殺してしまったヘラクレスは、その罪を贖うために、レルネ沼のヒドラ退治やネメアの獅子退治、ヘスペリスの苑のリンゴの奪取、冥界のケルベロスの捕獲等、並の英雄には成し得ない難業を次から次に命じられたと聞いている。 神に操られて人間の妻子の命を奪った罪の代償より、神への不敬の罪の代償が容易なものであるはずがない。 瞬は全身を緊張させて、アテナの答えを待った。 アテナが、瞬とは対照的に、落ち着き つくろいだ様子で、瞬が為すべき難業の内容を語り始める。 「北の国にね、戦いしか愛せないという、随分と偏屈な人間がいるそうなの。神々に供物を捧げることもなく、神殿で祈ることもせず、ひたすら戦いに夢中。その人物を戦い以外のものを愛する人間に変えるという難業よ。ハーデス絡みのことだというのもあるけど、そういうのって、あなた向きの仕事でもあると思うし、ぜひあなたに行ってもらいたいの」 「それは……戦い以外のものなら何でもいいんですか」 「ええ。戦いでさえなかったら何でもいいそうよ。権力でも名誉でも黄金でも酒でも女性でも月でも花でも。それは とりもなおさず、力を司る神、富を司る神、酒を司る神、愛を司る神、月を司る神、花を司る神を崇めることにつながるから。とにかく、彼に、『戦い以外の、この世に存在する何かを愛することを誓わせる』が条件なの。戦い以外の何かを愛していると、彼に言わせることができれば、私は双子座の黄金聖闘士もあなたも失わずに済むのよ」 もし その難業を成し遂げることができなかったら、双子座の黄金聖闘士や自分はどうなるのか――ということを、瞬は考えなかった。 瞬には、なにしろ、神々が聖域に科したという その“難業”を、成し難い難業と思うことができなかったのだ。 「それは難しい試みなんでしょうか。人が戦いだけを愛していることの方が ずっと難しいことだと、僕は思うんですけど」 「そうね。その難しいことを、息をするように自然に やり遂げているところが、神々の癇に障ったのかもしれないわね。人間というものは個性や独特の価値観を持つことなく、ごく普通に、従順な神の下僕であるべきだと、オリュンポスの神々は考えているようだから」 「アテナのご命令なら、もちろん僕は力を尽くさせていただきますが――」 「お願いね。相手は、北の国に ささやかな所領を持つ領主よ。本当に ささやかな」 普通の人間には難しいことを 息をするように自然に成し遂げている(瞬にとっては稀有な)人物に加えられたアテナの説明が、瞬が思い描く その人物のイメージを更に奇矯なものにする。 瞬は、アテナの前で、眉根を寄せることになった。 「その人は、戦いを愛していても、強いわけではないんですか?」 ある人物が、戦いを求め、その戦いに勝利しているのなら、 神々の癇に障るほど戦いだけに夢中になっている人物の領地が“ささやか”というのは、瞬には解せないことだった。 アテナも 瞬の疑念は当然のことと思っているらしく、彼女は苦笑を――瞬に対してではなく、問題の“稀有な人物”に向けた苦笑を――その口許に刻んだ。 「彼は戦いだけを愛しているの。勝利することを愛しているわけではないのよ。戦っていられるなら、それで満足という変わり者。どんな大国の王を倒しても、その領地や財宝を奪うことはなく、どんな高名な英雄を倒しても、その事実を吹聴して名誉を求めることもしない人物なの」 「訳がわかりません。その人は、いったい何のために戦っているの」 「おそらく、戦うために戦っているのでしょうね。彼は戦いの他には何も求めていない。考えようによっては、非常に無欲で廉潔な人物ということもできるかもしれないわ」 「……」 好戦的でありながら無欲。 瞬には、その人物の価値観が全くわからなかった。 |