昨日までの無愛想は いったい何だったのかと氷河に問い質したいほど、その日その時から、瞬に対する氷河の態度は一変した。 昨日までは、夕食が済むと、招いたわけでもない客の相手などしていられるかと言わんばかりの態度で さっさと自室に退散していた氷河が、その夜は夕食のあとも席を立とうとしなかった。 それどころか、氷河は、彼の方から自発的かつ積極的に瞬に話しかけてきてくれたのである。 それも、初めて本物の剣に触ることを許された少年のように瞳を輝かせて。 「その姿からは想像できない強さだ。敏捷で持続力があって、何より目と勘がいい。俺の動きを正確に見極め、俺の次の動きを的確に察知して――おまえは いったい何者なんだ。綺麗なだけの ただの使い走りではなさそうだな」 小宇宙など感じたこともないのだろう 瞬は、彼の賞讃にどういう態度で応えたものかを、大いに悩むことになったのである。 聖域は 聖闘士という特別な力を備えた戦士の存在を外界に向けて喧伝してはいなかったので、氷河が聖闘士のことを知らなくても、それは当然のことだった。 とはいえ、瞬は、最初から“女神アテナの使い”として、この北の国にやってきていたのである。 『あなたはいったい僕を何だと思っていたのか』と氷河に訊きたいのは、瞬の方だった。 実際には瞬は その質問を口にしなかったのだが、氷河は、瞬が言葉にしなかった質問にちゃんと答えを返してきてくれた。 「戦いの女神の使いにしては 雰囲気が特殊で、あまりに綺麗で華奢な男の子がやってきたから、てっきり俺は、俺をそっちの趣味の持ち主と決めつけたアテナが、色仕掛けで俺をアテナの配下に組み入れようと画策しているのだと思っていた」 「……」 アテナの使いを そういうものと思い込んでいたのなら、氷河が自分を避けていたのも当然のことと、瞬は合点したのである。 自分の人生を自主独立の精神で生きたい人間なら、それがたとえ神であっても、他者の配下に我が身を置くのは避けたいことだろう――と。 いくら強くても所詮はただの一般人と 氷河を侮っていたのは 瞬も同じだったので、氷河がアテナの使者を色仕掛けの技の使い手と見損なっていたことについては、瞬は不問に処すことにした。 今の瞬には、そんなことよりも氷河に確かめたいことが別にあったのだ。 つまり、 「あの……僕と戦って、氷河は興奮しました?」 ということを。 「なに?」 氷河は、自分がアテナの使者に何を問われたのかが わからなかったらしい。 それは、瞬と戦っても氷河の心身は高揚し興奮しなかったということで、氷河の答えともいえない答えに、瞬は少なからず落胆することになったのである。 「僕は、氷河を興奮させられるほど強くなかったということ?」 そこまで言われて、氷河は瞬が確かめたいことが何であるのかを、初めて理解したらしい。 一瞬 虚を衝かれたような顔になり、それから氷河は少々口許を引きつらせて――おそらく、必死に笑いを噛み殺そうとしているせいで――瞬に反問してきた。 「……おまえ、あんな冗談を真に受けていたのか?」 「え……?」 「これは傑作だ。今日の手合わせが命がけの色仕掛けだったとは! 俺としたことが、全く気付かずにいた」 「そ……そんなんじゃありません!」 声をあげて笑う氷河に、瞬が向きになって言い募ったのは、もちろん、瞬が 氷河の冗談を冗談と思っていなかったからだった。 強ければ氷河の心身を興奮させられるのだと信じ期待していた自分を、瞬が自覚していたから。 それは、とりも直さず、氷河が愛する相手はアンドロメダ座の聖闘士でもいいのではないかと、瞬が心のどこかで思っていたということだった。 その事実を、アテナの使者として、瞬は絶対に(公に)認めるわけにはいかなかったが。 「な……何がおかしいの! 僕は、氷河に 永遠に愛することのできる戦い以外の何かをあげたくて……僕に負けたら、氷河が考えを変えてくれるかもしれないと思って……戦い以外の何かを愛せるようになったら、氷河の心が安らぐと思って――何がおかしいの……!」 その気持ちも嘘ではない。 嘘ではないから、瞬は、自分の気持ちと 思い通りにいかない自分の任務に混乱させられ、我知らず涙ぐんでしまっていた。 永遠――。 戦いなら、永遠になくならないから、それは愛するに値するものだと氷河は言う。 だが、瞬は、戦いを永遠にするものが何であるのかを、アテナの聖闘士として知っていた。 それは権力欲や支配欲ではない。 戦いを永遠にするものは、人の心の中にある疑心暗鬼、憎しみ、復讐心、他者に殺されたくない滅ぼされたくないと望む心。つまりは保身。 そういったものが戦いを永遠のものにするのだ。 しかし、氷河の中に そういった思いは存在しない。 氷河の戦いは永遠のものではないのだ。 彼はただ、永遠に失われてしまったものの代わりを求めているだけで。 瞬の涙を認めて 笑うのをやめた氷河が 真顔になって――寂しそうな真顔になって、瞬に尋ねてくる。 「おまえは、戦い以外に永遠のものがあると思うのか」 「わからない。でも、氷河がそれを求めているのなら、僕はそれを氷河にあげたい」 「おまえとの手合わせは楽しかった。俺は、永遠に おまえだけと戦っていたいと思った」 「僕がもっとずっと――本当に 永遠に氷河と勝負がつかないくらい強かったら、氷河は僕と戦うだけで満足してくれる?」 「おまえは人間だ。いつかは死ぬ。そんなものを愛して何になる」 人は、たとえそれがアテナの聖闘士であっても、永遠に生き続けることはできない。 いつかは失われる。 それが人間というもの。 自分が有限の命をしか持たない人間であることを、その夜 瞬は初めて『哀しい』と思った。 |