結局 氷河は、味噌汁の話を一方的に打ち切り、
「おまえらの くだらない戯れ言を聞かされているのは時間の無駄だ。何の益にもならない」
という失礼千万な言葉を残してラウンジを出ていってしまったのだが、あとに残された星矢は、氷河の無礼に腹を立てるどころではなかった。
なにしろ、これは異常事態――世界が180度 引っくり返り、更に180度の回転をしてのけたような異常事態なのだから。

氷河の姿がラウンジから消えてから 星矢が最初に起こした行動は、氷河の同性の恋人に、
「瞬。おまえら大丈夫なのか?」
と尋ねることだった。
「え? 大丈夫って?」
氷河の氷河らしからぬ言動に驚きはしても、それが『おまえら』に関わることだとは思っていなかったらしい瞬が、星矢に彼の質問の意図を尋ね返す。
「だってよー」
瞬に尋ね返された星矢は、その顔をくしゃりと歪めた。

「いつもの氷河なら、こういう時は、味噌汁を作れない自分を正当化するために、自分の特技や長所を並べ立ててみせるはずだろ。氷河が他人に誇れる長所なんて、せいぜい顔の造作や体力くらいのもんだろうけどさ。それが何だよ、男の価値は心根で決まるだあ? それって、いちばん氷河らしくない答えだろ」
だから二人の仲を心配するというのも、論理が飛躍しすぎている。
が、その論理の飛躍を友情から出たものと解釈したらしい瞬は、星矢の驚異的跳躍力の不自然を指摘することはしなかった。

「で……でも、僕は、氷河が お味噌汁を作れなくても、氷河のこと好きだし、それは氷河もわかってくれてるはずだから、別に星矢が心配するようなことは何もないと――」
「にしてもさ。あの氷河が、男の価値は心根で決まるって言ってるんだぜ。ちょっと考えられないことだろ。氷河には いちばん欠けている美徳だぞ、性格の良さってのは」
「うむ。忌憚のないところを言わせてもらえば、氷河は精神面でも感情面でも おまえほど強くはないし、おまえのように親切の美徳も備えていない。その氷河が優しさや強さ等の要素で男の価値が決まると断言するのは、一種の自虐行為だ。人間が自虐に走るのは、自分に自信を持てていない時だろう」

ちょっと正論を口にしただけで、仲間に“自虐”と評される白鳥座の聖闘士。
仲間にそういう評価を受けていることは、彼にとって不幸なことだろうか。
あるいは、そこまで深く(?)彼を理解してくれている仲間がいることは、氷河にとって幸福なことなのか。
それは腰を据えて討議するに値する重大な問題だったろうが、氷河の恋人であると同時に彼の仲間でもある瞬は、氷河に対する星矢たちの評価に反論を唱えることはしなかった。
代わりに、少し不安そうな口調で、
「自信を持ててないなんて、そんな……氷河に限って」
と呟く。

「わかんねーぞ。自信満々な奴ってさ、何かにつまずいたことがないから自信満々でいるんだろ。要するに、氷河は つまずき方を知らないんだよ。いざ つまずいちまったら どうなるかは、多分 氷河自身にもわかってない。つまずいたことのない男は当然、起き上がり方も知らないだろうし、そういう奴って、やっぱ色々危ないだろ」
「おまえ、氷河に何か不用意なことを言ってしまったのではないのか? 優しさや思い遣りの心がない奴は生きている価値がないとか、そういうようなことを」
「あー、そりゃ、氷河全面否定だな。氷河でも落ち込むかも」

星矢と紫龍の勝手な言い草には、さすがの瞬も反論しないわけにはいかなくなったのである。
このまま彼等に言いたい放題を許していたら、彼等は それこそ味噌汁のために世を儚む氷河の物語を創作しかねなかった。
「僕が氷河にそんなこと言うはずないでしょう! ううん。生きてる価値がないなんて、そんなこと、氷河にでなくても、誰にだって言っちゃいけないことだよ。それに、氷河には ちゃんと優しいとこだってあるんだから!」
「へー、初耳。たとえばどんな?」
星矢が、まるで本当に氷河に優しいところがあることを知らぬげな顔で尋ねてくるのに、瞬は少しばかり たじろぐことになったのである。
まさか本当に 氷河の仲間たちが氷河に優しさがないと信じているはずはないと思いはするのだが、それでも瞬の口調は少々 頼りないものになった。

「それは……たとえば、僕が重いものを持ってると、代わりに持ってくれるとか……」
「意味ねーじゃん。おまえ、力持ちなんだから」
「うむ。それはただの助平心だ。おまえに優しくしておけば、あとでもっといい目を見られることを、氷河は知っているんだ」
「高いところにあるものを取ってくれたりもするよ」
「意味ねーじゃん。おまえ、チェーン使えば、東京スカイツリーのてっぺんに引っかかってる葉っぱだって取ってこれるんだから」
「うむ。それもただの助平心だ。おまえに優しくしておけば、あとで もっといい目を見られることを、氷河は知っているんだ」
「……」

氷河に対する星矢と紫龍の認識は かなり手厳しい――容赦のないものだった。
どうやら彼等は、『氷河の情けは、人のためならず』だと決めつけているようだった。
「真の優しさとは、見返りを期待せず、自分に益がなくても、我が身を削って人のために力を尽くすことだ。氷河がおまえのために何かしたとしても、それは優しさとは言えないだろう。優しさとは別のものだ」
「それは、いくらなんでも乱暴すぎる意見だと思うけど……」
瞬の異論を、紫龍は華麗に無視した。
無視して、彼の意見を述べ続ける。

「氷河がおまえに対して優しいと言い張るなら、おまえはせめて――そうだな。おまえの興が乗らなくて 夜の生活を拒否した時、氷河がおまえのために我慢したとか、そういう事例を提示できなくては」
「あ、確かに、それなら氷河が我が身の益を考えず、瞬のために優しさを示したってことになるかもな。そういうことって、あるのか?」
奇跡のような跳躍力に恵まれているのは、どうやら星矢だけではないようだった。
味噌汁の話を夜の生活にまで飛躍させるあたり、紫龍の論理飛躍の技も なかなか尋常の人間のそれではない。

いずれにしても、跳躍力に優れた星矢と紫龍が 瞬に問い質してきたのは、極めてセンシティブな個人情報であり、それはまた 普段の瞬なら絶対に口外しないような事柄だった。
普段の瞬なら答えなかっただろうことに、今日の瞬が答えたのは、自分の利益しか考えていない男と決めつけられている氷河の名誉を回復しようとしてのことだった――かもしれない。
あるいは、知らぬ間に星矢と紫龍のペースに乗せられてしまっていただけだったかもしれない。
いずれにしても、普段なら語らないことを語る瞬の口調は、あまり自信に満ちたものではなく――むしろ、不安の響きをたたえていた。

「十二宮の戦いが終わって日本に帰ってきた時、一度だけ、今日はやめようって言ってみたことはあるけど……。氷河、十二宮ではいろいろあったから、傷付いて……そんなことする気分じゃないんじゃないかと思って」
「それで、氷河は何て?」
「……僕の気遣いは嬉しいけど、そんなのは無用の心配だ……って。むしろ、そんな気遣いをされる方が苦しいって、言ってた。俺の心身は万全の状態にある……って言って、それで結局――」
「それで結局、やらせてやったのかよ!」
「だって、氷河、なんだか すごく切羽詰まってるような顔して、ほんとに苦しそうに迫ってくるんだもの!」

まるで、それが取り返しのつかない過ちであるかのように 仲間を責めてくる星矢に、瞬は思わず大きな声で言い返してしまったのである。
それが仲間に責められるような悪事だとは、瞬にはどうしても思うことができなかったから。
が、星矢には星矢なりの――瞬のそれとは異なる――判断基準というものがあったらしい。
そして、その判断基準にのっとって考えれば、瞬のしたことは悪事――とまではいかなくとも、“あまり よろしくないこと”ではあるようだった。

「おまえは 氷河を甘やかしすぎなんだよ。獅子は千尋の谷に我が子を突き落とし、這い上がってきたものだけを育てるんだぞ」
「そ……そんなことできないよ……! それに、それで言ったら、あの時の氷河は、それこそ千尋の谷に突き落とされて、傷だらけで這い上がってきた獅子のようなものだったと思うし……」
あまつさえ星矢は 手負いの獅子の心を気遣う瞬に、
「おまえの欲目だらけの見解なんて無意味だよ。客観性が全くないんだから」
と呆れることまでしてのけてくれたのだった。
その上で、きっぱりと断言する。

「結論。氷河は優しくない。あいつは、俺が重い荷物持ってたって、代わりに持ってやろうなんて言ってくれた ためしがねーもん」
「俺が棚の上にあるものを取ろうとしている時に、手を貸してくれたこともないな。結局、氷河は、助平心で、おまえにだけ優しいんだ。そして、それはもちろん、真の優しさではなく、ただの助平心だ」
「……」

正式に(?)測定比較したことはないが、星矢が氷河と同程度の握力・腕力・背筋力を有しているだろうことは容易に察することのできる事実であり、紫龍と氷河の身長・腕の長さにほとんど差異がないことは、測定するまでもなく 見ればわかることである。
星矢や紫龍に対して氷河がそういう親切を示すことは、それこそ“意味ねー”ことであり、もしそんな事態が現出したら、むしろ星矢たちは、氷河に馬鹿にされたと立腹することになるのではないか――と、瞬は思ったのである。
氷河は、その優しさを単純素直に喜ぶ相手に対してのみ優しくしているだけなのではないかと。
へたをしたら相手を立腹させるような優しさを行動に移さないこともまた、氷河なりの優しさなのではないだろうかと。

瞬がその考えを言葉にして星矢たちに訴えなかったのは、そんなことをしても、星矢に『おまえの見解は欲目だらけで客観性がない』と一蹴されて終わるだけのような気がしたからだった。
そんな瞬の気後れと遠慮に気付いているのか いないのか、星矢は星矢の判断基準に沿った言葉を吐き続ける。
「氷河の奴は、絶対 何かあって自信喪失して、落ち込んで、自虐に走ってるんだよ。放っとくと、あいつ、引きこもりになるぞ」
「ま……まさか」
「だってよ、氷河って、隣りの家まで何キロもあるようなシベリアの奥地で何年も修行してきたんだろ。人の好き嫌いも激しいし、社交的な奴でもないよな。ガキの頃は、自閉症なんじゃないかと思うくらい、自分が興味あることにしか反応示さないガキだったし、引きこもりの素質は滅茶苦茶あると思うぜ」
「うむ。今のまま放っておくと、奴はバトルに出るのも億劫がって、自分の部屋から出ず、自発的に何かするのは、おまえとの情交のみという事態にもなりかねない」

冗談なら構わないのである。
冗談なら――単なる悪乗りなら、そこまで言っても許される程度には、アテナの聖闘士たちは気の置けない仲間同士であると思う。
星矢たちが真顔で言うから、瞬は不安を覚えずにいられなかった。
「氷河に限って、そんなことは――」
「だからさ。その『ウチの子に限って』ってのは、客観性を欠いた ものすごく危険な考え方なんだって。わかんねーぞ。氷河も、あれで意外にデリケートで傷付きやすかったりするのかもしれねーぜ? 自信喪失して落ち込んでる時には、それこそ味噌汁が作れないなんてくだらねーことでも、更なる落ち込みの原因になるだろうし」

「でも、僕、ほんとに氷河がお味噌汁なんか作れなくても、氷河のこと好きだし、氷河に『毎日 お味噌汁を作らせてください』なんて言ってもらいたいとも思わないよ」
氷河は自信を失って自虐に走っているのだと決めつけている星矢たちに そう言ってはみたものの、仲間たちによって植えつけられた不安の種は、確実に瞬の胸に根を張りつつあった。






【next】