恋愛は情熱よりもマナーに従って行なうべきもの――という思想を この国に持ち込んだ者が誰なのかを、俺は知らない。 思いの丈をこめて人を愛し、ただ一人の恋人に固執することは愚かで滑稽な行為。 真面目に ただ一人の人を愛し、その人に同じように愛し返されることを望むのは、野暮で無粋。 そんな考えを この国の貴族の間に蔓延させたのは、いったい誰なのか。 その人物が、もし今 俺の目の前に現われたなら、俺は迷いもせず 即座に その人物を八つ裂きにするだろう。 その人物は、俺の母を不幸にした人間なのだから。 俺の父親は その男が、西欧化改革を強力に押し進めていたピョートル1世治世下のロシアに渡り、その宮廷で、一人の若く清純な娘に目をつけた。 『目をつけた』んだ。愛したわけでも恋したわけでもない。 当時のロシア宮廷がフランス宮廷より清潔な倫理観があった場所だったとは、俺も言わない。 そうではなかったことを、俺は知っている。 ロシア皇帝ピョートル1世は、敬虔な妻を修道院に追い払い、幾人もの愛人を作り、あげく、元は農民の娘にすぎなかった召使いの娘と秘密結婚をしたような王だ。 しかし、そんな暴挙は 権力を有する皇帝だから許されることで、特殊なこと。 彼の宮廷にいた母は、優しい青年と結ばれ 温かい家庭を築くことを夢見る、貞節な――ごく普通の――少女だった。 その少女に目をつけた父は、彼女を我が物にするために、フランス宮廷風の(優雅で粋な?)手練手管を駆使し、彼女の心を手に入れた。 父が母と結婚したのは、母が正式な結婚をした夫にでなければ身を任せることは許されないという倫理観を備えた娘だったからにすぎない。 母が信じたように、情熱的に誠実に恋人を愛したからなんかじゃない。 母は、実際には手練手管にすぎない父の愛を信じ、父と結ばれるためにロシア正教からカソリックへの改宗までしたというのに。 正式に結婚することで母を手に入れた父は、その瞬間に、自分の苦労(!)が報われたことに満足し、母への情熱を失った。 それでも、二人は正式な婚姻を為した夫婦である。 帰国する父に従って、母はこのフランスにやってきた。 母は広大な領地を持つロシアの大貴族の娘だったから、母を妻としておくことに、父も不都合を感じなかったんだろう。 まして、父が帰国したフランス宮廷は、既婚者であることが恋愛遊戯の妨げになるようなところではなかったのだから。 フランスに帰ると、父は、大っぴらに フランス宮廷風の優雅な恋愛遊戯とやらに興じ始めた。 母にも、夫以外の恋人を持つことを勧めた。 それがフランス貴族の常識で、フランス宮廷における粋な振舞いなのだから――と言って。 だが、母にそんなことができるわけがない。 母は、父を、神の定めた ただ一人の恋人、ただ一人の夫と信じて、遠い異国の地にまでやってきた、誠実な恋人、貞淑な妻だったのだから。 当然、母は、父との結婚で幸福になることはできなかった。 豪奢で壮麗な館の中で、俺を育てながら、帰ってくるはずのない夫を待ち続け、その愛と忍耐が報われることのないまま、憔悴し死んでいった。 その時 俺はまだ10代の少年――そろそろ青年と呼ばれる歳になっていただろう。 母は、父に殺されたようなものだ。 父のように軽薄で軟弱で誠意のない男を信じ愛したことが、彼女を不幸にしたんだ。 俺は母を愛していた。 今も心から彼女を愛している。 父の愛を失った母は、俺を深く愛し慈しんでくれた。 母だけが、俺を本当に愛してくれた ただ一人の人だった。 俺も母だけを愛し慕っていた。 その母が俺に教えてくれたんだ。 彼女の不幸な人生が。 人を本気で愛することは危険なことだと。 美しく優しく情愛深い母。 母を失った衝撃は大きかった。 俺は母を――母だけを――愛していたから。 彼女が側にいてくれさえすれば 他に何も望まないと思うほどに、彼女を愛していたから。 彼女が俺に教えてくれたのは、一人の人を一途に愛し続け待ち続けることだけで――だから、俺はおそらく俺の母同様、人にのめり込むタイプの人間なのだろうと思う。 それがわかっているから、俺は人に対して慎重になった。 母を失ってから、俺は、慎重に注意深く――“軽薄に振舞うこと”を心掛けた。 つまり、一人の恋人に執着しない、宮廷のマナーにのっとった生き方を始めたんだ。 心から愛する人を失う衝撃と喪失感を、俺は二度と経験したくなかったから。 その場その時に ふさわしい恋人を持ち、執着心を持たず、優雅に別れる。 妬心や独占欲を持つことなく、万一 競合者が現われたなら、その男と恋人を共有するほどの寛容を持つこと。 恋の快楽だけを楽しむには、本気になることを極力避け、マナーを守ることが肝要。 母を失ってからの俺は、性的紊乱を極めたフランス宮廷の貴族として、さほど常軌を逸していない者として生きてきた。 俺は、母を愛していた。 今も愛している。 彼女の生き方を否定するようなことはしたくない。 だが――だが、だからこそ俺は、母のように本気で人を愛し、その人に人生を支配されるような生き方はすまいと決意したんだ。 母が亡くなって2年後。 母を殺した父が愛人宅で死んだ時、俺は全く悲しむことができなかった。 神の御前で母の夫となることを誓った父。 その父が神の国に行ったなら、今度こそあの無慈悲な男は 母のものになるしかないだろうと、父の死を喜びさえした。 父の死によって、すべての秩序が戻り、父と母は 神の国で 彼等が在るべき場所に在ることになるんだ。 生涯をかけて愛し待ち続けた人を、母はついに自分のものにする。 俺は、彼女はやっと幸福になれるのだと信じ、そうなるように祈った。 あとは、俺が、人生を支配されるような愛に出会うことなく一生を終えれば、俺は二度と 愛の生む苦痛や悲しみに出会うことはない――。 俺は、そう考え、安堵していた。 まさか、父が死んだあとにまで、父の優雅な宮廷風恋愛の尻拭いをさせられることになるなんて、俺は考えてもいなかった。 |