シュンの兄は――さすがにシュンの兄だけあって、田舎の小領主で終わる器ではなかったらしい。 俺がロシアに発った直後、スペイン継承戦争で緊張関係にあったオーストリアの一軍がフランスとの国境を侵そうとし、シュンの兄はごく少数の手勢で敵軍を撃退してしまった。 その際、シュンの兄は敵将を捕虜にしたんだが、それがハプスブルク家の王族の一人だったらしい。 病床にあって、自分の死後の国の行く末を案じていた前国王は、シュンの兄が収めた見事な勝利に ことのほか感激し、勇気づけられ、シュンの兄に、従前の5倍の領地と、宮廷に伺候する権利を与えた。 シュンの兄は、ベルサイユに伺候する際の逗留用にパリの一画に館を建て、その管理を弟に任せた――という話だった。 シュンの説明を聞いて、俺はおそらく憑き物が落ちたような顔になったんだろう。 シュンは、聞くべきかどうか迷っているような顔と声で、 「もしかして、ヒョウガ、いもしない誰かに妬いていたの?」 と、俺に訊いてきた。 俺は、答えに窮して、ぷいと横を向いた。 『違う』と嘘をついても、その嘘はシュンにばれるだろうし、『そうだ』と事実を告げたら、シュンは俺を笑うだろう。 俺は――シュンに笑われても仕方のない愚か者だが、どうせ笑われるなら、俺の中にある本当の愚かさで笑われてしまいたかった。 「俺は――俺は ただ、おまえを好きになりすぎて、おまえを失ったら俺は生きていけなくなると思ったから、それが恐くて――俺が俺でいるために、俺はおまえから逃げるしかないと思ったんだ」 「え……」 今度は、シュンが俺の言葉に あっけにとられる番だった。 それはシュンには想像もできない“別離の理由”だったんだろう。 シュンが俺を待ち続けていることが、俺には想像を絶することだったように。 「ヒョウガ……」 正真正銘の馬鹿のくせに、シュンに『馬鹿』と言われるのが恐くて、俺はシュンに口をきかせなかった。 「おまえは本当に――他に恋人を作らず、俺を待っていたのか。俺が帰らなかったら、どうするつもりだったんだ」 「待ち続けるつもりだったよ」 シュンが、何でもないことのように あっさりと答える。 だが、その答えに至るためにシュンがどれほどの苦しみと悲しみに耐え、どれだけ深く迷ったのかが、今の俺にはわかる――わかってしまった。 俺は馬鹿だ。 本当に馬鹿だ。 シュンから逃げて、逃げたつもりで、結局 ますますシュンに惹かれている。 俺は3年という年月を、全く無駄に費やしただけだった。 「それは、自分から不幸を選ぶ愚行だ」 「僕は幸福だったよ。いつも ヒョウガに会える時を夢見てた」 「俺の母は、帰らぬ人を愛し 待ち続けて、不幸になった。愛に報いてもらえず、不幸なまま死んでいった。俺の母は、不実な男と不実な男の息子のせいで不幸になった。一人の人を深く愛することは不幸を生むことだと、俺は母に教えられたんだ」 そうだ。 俺の母は、俺の父を愛したせいで不幸になった。 そして、俺は、母を不幸にした男の息子だ。 母は、俺をどれほど憎んだことだろう。 母が望むなら、俺は、俺の身体を流れる血の半分を大地に吸わせることさえ厭わなかったのに。 俺は、どんな顔をして、シュンに、不幸だった女性の話をしたんだろう。 おそらく、俺は かなり情けない顔をしていたに違いない。 シュンが、泣きべそをかいている子供をあやすように、俺の髪を撫でてくれたところを見ると。 「ヒョウガのお母さんが、自分は不幸だったって、ヒョウガに言ったの」 「……言わなかった」 彼女はそんなことは言わなかった。 俺を責めることもしなかった。 ただ いつも寂しげに微笑んでいただけで。 「ヒョウガのお母さんは、待ちたいから待ち続けたんだよ。待たずにいられないから、待ち続けたの」 「俺の父親は、待つ価値のない男だった」 『俺と同じに』と、俺は思った。 「ヒョウガのお母さんには、そうじゃなかったんでしょう」 おまえにとって、俺がそうだったように? 不実を絵に描いたような あの男にも、何か――少しでも、一つでも、いいところがあったのか? 「おまえは……おまえの人生を俺に支配されて、左右されて、不安にならないのか。恐くはないのか。……不幸じゃないのか」 「どうして? それほど好きな人に会えるって、幸せなことでしょう?」 俺のマーマも? マーマも そう思っていたんだろうか。 言葉にはせずに尋ねると、シュンは微笑んで頷いた。 まるで 不実な夫を待ち続けていた あの女性のように。 シュンの優しい眼差しがマーマのそれに酷似していたから、俺は泣きたくなった。 俺は、そう言ってほしかったんだ。 誰かに、そう言ってもらいたかった。 俺と俺の父のせいで、マーマは不幸になったわけじゃないと。 マーマは不幸な人じゃなかったと。 でなければ、俺は、永遠に――いつまでも、幸せになってはならない男でいなければならない。 「ヒョウガのお母さんは幸せだったと思うよ。僕が幸せなのと同じくらい。ううん。ヒョウガのお母さんにはヒョウガがいたんだから、彼女は僕よりもっと幸せな人だったかもしれない」 俺は馬鹿だ。 シュンから逃げて、逃げたつもりになって、結局こんなにシュンに惹かれている。 かえってシュンの中に取り込まれている。 そして、こんな俺を待っていてくれたシュンは、俺より もっとずっと馬鹿だ。 「だから、ヒョウガも幸せになっていいんだよ。幸せになろう」 馬鹿で優しいシュンは、囁くように そう言って、俺を抱きしめてくれた。 俺は、頷くことしかできなかった。 俺は、もう二度と シュンから離れたくなかったから。 シュンの側にいて、幸せになりたかったから。 だから、俺は頷いたんだ。 シュンは優しくて、綺麗で、辛抱強くて――そんなシュンの体温の中で、俺は世界でいちばん幸せな男になっていった。 Fin.
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