Be Real






「そなたは アテナの聖闘士でありながら、人間を深く憎悪しているように感じられたからだ」
『なぜ、アテナと対立している神が アテナの聖闘士の前に こんなふうに静かに姿を現わすのか』と白鳥座の聖闘士に問われたハーデスの答えがそれだった。
「それとも、そなたが憎んでいるのは、人間が作った この世界そのものか?」
重ねた言葉が、氷河への質問に変化する。

どちらかといえば後者だろう――と 氷河は思い、だが、彼はその思いを言葉にすることはしなかった。
深夜といっていい時刻、アポイントメントもとらずに他人の部屋にやってきて、遠慮会釈なく 物思いの邪魔をしてくれた者の質問になど、答える義務も義理もない。
まして、この無作法者は 実体のない幻影にすぎず、その上、アテナと対立し、人類に仇なす“敵”なのだ。
それ以前に、彼は、最初に氷河が問うたことに 適切な答えを返していなかった。

氷河が知りたかったのは『なぜ、アテナと対立している神が、アテナに従う聖闘士の前に、こんなふうに静かに――つまりは、攻撃的にではなく――姿を現わしたのか』ということだった。
要するに、冥府の王にはアテナの聖闘士に具体的な攻撃を仕掛ける気があるのか ないのか――ということだったのだ。
とはいえ、氷河は、もう一度ハーデスに彼の真意を尋ね直すことはしなかった。
どうやら冥府の王は、少なくとも今は、ただの酔狂でアテナの聖闘士の前に姿を現わしただけらしい。
アテナと敵対する者が、アテナにくみする者に(今は)害意を持っていないのなら、わざわざ確認を入れて、自分たちが倒すべき敵同士であることをハーデスに思い出させることもないだろう。
氷河は、そう思った。

「そなたの心は、アテナの下僕にしては複雑で、アテナを心底から信じてはいないように感じられるが」
ハーデスが酔狂を起こしたのは、彼が、白鳥座の聖闘士をアテナの聖闘士らしくない心の持ち主だと感じたから――のようだった。
立場上、氷河は、やんわりと彼の言を否定することになる。
「信じていないわけじゃない。俺はただ、アテナほど 人間の良心や寛容に希望を持つことができないだけだ」
「アテナの聖闘士にしては真っ当な判断力を持っているな。アテナの聖闘士は皆、アテナの掲げる理想を盲目的に信じている狂信者かと思っていたが」
「……」

ハーデスの認識は必ずしも間違っているわけではないが、それは氷河の仲間たちを嘲り貶めるもので、だから、氷河はハーデスの言葉を不快に感じた。
そんなことを言うために来たのなら、さっさと消えてしまえと、目でハーデスに告げる。
氷河は、明日には瞬と共に、ハーデスとの聖戦に身を投じるべく日本を発ちギリシャに向かうことになっていた。
実体ではないにしても、“敵”に日本にいられては困る・・のだ。
が、人間と違って 空間による物理的制限を受けないらしい神は、氷河の都合に配慮する気配を かけらほどにも見せなかった。

「そなたは、今ある人間の世界は粛清されるべきだと考えているのではないか」
ふいにハーデスの声の調子が変わる。
それまではアテナの聖闘士の力を侮り、路傍の石に酔狂で話しかけているようだったハーデスの声と態度。
それが、ふいに、無力な敵の心の底を探ろうとしている策謀家のようなものに変わった――と、氷河は感じた。
無力だった“敵”が寝返った時、彼が必ずしも 無力な味方にしかなりえない――ということはないだろう。
ハーデスがアテナの陣営中に裏切り者を生むことを企てたとしても、それは さほど不思議なことでも無益なことでもないのかもしれなかった。
だが、アテナの狂信者ではないにしても、アテナの聖闘士が敵にまるめこまれるなどありえないことである。
それが可能だと、この無礼な神は本気で思っているのだろうか――と、氷河は冥府の王の真意を疑った。

「――それも一つの選択肢だと思ってはいるな」
氷河がハーデスの質問に正直な答えを返したのは、嘘を言っても何の益もないと考えたからで、決してハーデスの誘引を にべもなく拒絶することによって引き起こされる結果を恐れたわけではなかった。
まして、ハーデスに迎合して、彼を悦に入らせるためではない。
氷河は、どんな作為もなく、ただ正直に、普段から彼が考えていたことを言葉にしたにすぎなかった。
ハーデスが、氷河の正直な答えに満足したように頷く。
そして、彼は、彼の驚くべき計画を、氷河に語り始めた。

「そなたたちは、いずれ、余のしもべである冥闘士たちと戦うことになるだろう。その時、余は、余の魂の器として、そなたの仲間でありアテナの聖闘士でもある瞬を、余のものにするつもりだ」
「瞬を?」
神が 彼(あるいは彼女)の戦いを戦うために、人間の身体を利用することは、氷河も知っていた。
アテナは、城戸沙織の身体に降臨して 人間界を守ろうとしており、ポセイドンはジュリアン・ソロの身体を利用して 人間界を支配しようとした。
その事実は知っていたし、神に身体を奪われることになる人物の人権を無視したような神々の そのやり方を、『それは間違った行為だ』と糾弾する気持ちは、氷河にはなかった。
神々にはその力があり、神に抗う力を持たない人間たちは従容として その力を受け入れることしかできないのだから。

だが、なぜ瞬なのか――が、氷河にはわからなかった。
人間界で 強者として振舞いたかったら、彼は、アテナやポセイドンのように、人間界の力――権力なり財力なり――を持つ者を、その依り代に選ぶべきである――その方が効率的だろう。
しかし、瞬は、そういう俗世的な力は 全く有していない人間である。
もちろん、氷河は、だから瞬が人間界では無力な存在なのだという考えは持っていなかったが。
ハーデスが自分の依り代として俗世的な力を持たない瞬を選ぶという事実は、彼が、アテナとハーデスの戦い――聖戦と呼ばれてきた戦い――を、人間界ではないところで行なうつもりでいることを示していた。
つまりは、彼のホームグラウンドである冥界で。

してみると、彼の選択基準は、彼個人の趣味――ということになる。
氷河には、それは納得できる選択だった。
が、受け入れられる選択ではない。
「それはやめてほしいな。俺は人間というものは信じていないが、瞬は、その中ではほとんど唯一といっていいくらい、その善良さを無条件で俺に信じさせてくれる稀有な人間だ」
「であればこそ、瞬は余の器として選ばれたのだ。瞬は地上で最も清らかな魂の持ち主だ」
「その認識は否定しない……が、瞬でなければ駄目なのか」
「そうだ」
「――」

氷河は、目の前の空間にホログラフのように浮かんでいる漆黒の神の姿を、無言で見やった。
彼が この空間に姿を現わしたのは酔狂でも、彼の言葉は軽々しい冗談ではないようだった。
実体ではないにしても、今 自分の目の前にあるハーデスの姿と表情を信じるなら、彼の目は全く 笑っていなかった。
彼は、真顔で冗談を言う才能に恵まれているようにも見えない。
氷河は、しばし考え込み、そうしてから低く呟いた。

「瞬なら、自分が犠牲になることで世界が救われるというのなら、喜んで その命を差し出すこともするだろうが……」
だが、瞬の考える“世界の救済”とハーデスの考える“世界の救済”は、おそらくは ほぼ真逆。
当然、瞬は、その身体を喜んでハーデスに提供することはしないだろう。
身体だけでなく、その心も、その命も。
それはハーデスも知っている――少なくとも察してはいる――らしい。
彼は、氷河に、皮肉めいた薄い微笑を投げてきた。

「余は、余の計画をすみやかに遂行したい。だが、瞬は、アテナの掲げる理想に共鳴している。容易に余の支配を受け入れるとは思い難い」
「正しい判断だ。瞬の強さの源は、アテナを信じる心と、仲間を信じる心。貴様が、アテナと対立している限り、瞬は貴様の力に屈することはすまい」
「アテナを信じる心と、仲間を信じる心――。その二つが除かれれば、余が瞬を支配することは可能か?」
「なに……?」
ハーデスは何を考えているのか――あるいは、何も考えていないのか――と、氷河は 冥府の王のを疑うことになったのである。
彼は、瞬の信じている二つのものを排除するために、瞬の身体を利用しようとしているはず。
瞬の身体を利用するために、その二つを排除するというのは、言ってみれば本末転倒なことなのだ。

「……まあ、支配しやすくはなるだろうな。その二つがなければ、瞬は、むしろ繊細すぎて弱い人間だ」
目的と手段を取り違えているようなハーデスに、その誤りを正すことなく、氷河は言った。
そうしてから、
「だが、その二つがある限り、瞬はこの地上で最も強い人間の一人だ」
と、言葉を付け足す。
ハーデスは、氷河の その言葉に、ゆっくりと頷いた――ように、氷河には見えた。

「清らかであることや 汚れのなさを 強さに転じる才に、あれほど恵まれている人間を、余は瞬の他に知らぬ。瞬以外の、ただ清らかなだけの人間は無知であることが多いのだが、瞬はそうではない。瞬は、人間の弱さも醜さも冷酷も争いを好む心まで すべてを知り、実際に触れ、それでも あの清らかさを保っている稀有な人間だ。これまでは 瞬はそういうものであることができた。だが、今のまま戦いを続けていれば、徐々に その強さも擦り切れ 弱まり、瞬は いずれは己れを滅ぼすことになるだろう。その清らかさも、その強さも、その命さえも失うことになるだろう。余は、瞬の清らかさを守るためにも、人間が作ったこの醜悪な世界を、完全に美しい世界に変えてやりたいのだ」

そして、そういう世界は冥府の王にも都合がいいということなのだろう。
自分の個人的趣味の責任を瞬に転嫁するハーデスの詭弁に、氷河は眉をひそめた。
心中で。
氷河は、実際には 彼の表情に どんな変化も与えなかった。
「そのために、人間を根絶やしにすることにしたのか」
「この世界、生かしておく価値のある人間は瞬くらいのものだ」
「完全に美しい世界を実現するためというのなら、それは当然の結論だな」
「……」
氷河がハーデスの考えを支持する。
ほとんど何の感動もない様子で。

ハーデスは、自分がアテナの聖闘士の賛同を得ることを奇異に思ったようだった。
彼は、氷河が目で見てとれるように眉をひそめ、
「そなたは、自分の命乞いはしないのか」
と、氷河に尋ねてきた。
「俺が生きていたら、完全に美しい世界は実現しないだろう」
氷河が抑揚のない声で答え、ハーデスが更に 眉根を寄せる。
「それはその通りだが……潔いことだ」

氷河の言葉、その表情、その冷静が解せない――。
ハーデスが、そういう目をして白鳥座の聖闘士を見詰めてくる。
冥府の王の漆黒の瞳は、そして、白鳥座の聖闘士の青い瞳の中に、静かな怒り、憎悪、もしくは虚無――を認めることになったのだろう。
だから、彼は、言ったに違いなかった。
アテナの聖闘士である男に、
「余に協力しろ。完全に美しい世界を実現するために」
――と。

白鳥座の聖闘士は、あまり迷った様子もなく、言葉で頷いた。
「完全に美しい世界を実現し、瞬を殺すことなく、俺を殺してくれるのなら、協力してやってもいい」
と。
「そなたは、世界を憎んではいても、自ら死を望む人間のように絶望してはいない。だというのに、自らの死を望むのか」
「もちろん、俺は絶望になど囚われてはいない。前向きに、自分の死の価値を認めている」
「そなたは実に面白い男だ」
「特段、面白いことはない。俺はただ、アテナの理想は実現しないということを知っているだけだ」
「そして、余の理想には実現の可能性があることを知っている――というわけか。よかろう。そなたの望みを叶えてやろう。事が成ったあかつきには、必ず余が そなたの命を奪ってやる」

ハーデスにそう言われ、氷河は初めて微かに その口許に笑みを浮かべた。






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