瞬が庭で育てているのは、薬草として用いられることの多い香味野菜がほとんどで、中には この村の土でないと よく育たないものが幾種類かあるらしく、瞬は、定期的に町からやってくる仲買人に彼が育てた野菜を売って生計を立てているのだそうだった。 瞬の手入れが細やかで行き届いているせいか、瞬の庭の畑では特に上質のものが採れるらしい。 アテナの聖闘士としての決断を先延ばしにしたまま、氷河は瞬の仕事の手伝いをして日々を過ごしていたのである。 『聖域は、貧しくとも心清らかな者を守り、力を貸すことを是としているんだ』などという、もっともらしい理由を作って。 そうして共に日々を過ごすうちに、瞬は、見知らぬ地からやってた異邦人に少しずつ打ち解け、立ち入ったことや、その心に関することも話してくれるようになった。 「僕、ずっと一人だったから、氷河がいてくれて、とっても嬉しい。これまでは、何をするのも一人で寂しかったの。水を汲むのも、畑を見てまわるのも、食事をするのも――」 「親はいないようだが、亡くなったのか」 「うん……」 「いつ」 「いつ……?」 瞬が ふいに言葉を途切らせたのは、聖域から来た男に 心無いことを訊かれたから――ではなかったようだった。 それは、忘れられない記憶であるはずのものが、まるで誰かに隠されていたかのように、靄で覆われた場所に押しやられていたことに気付いたから――だったらしい。 瞬は、どこか頼りない口調で、靄のカーテンの向こうから引っ張り出してきた記憶を語り始めた。 「そう……不思議なこと、10年前にならあったよ。昼間なのに、太陽が消えてしまったように、突然 世界が暗くなって、その日、父さんと母さんが死んでしまったの。でも、誰も、そんなことは起きなかったって言った。父さんと母さんを亡くしたショックで、急に目の前が暗くなったように感じたんだろう――って。でも、そんなはずないんだ。だって、僕、急に世界が真っ暗になったから恐くなって家の中に駆け戻って、そこで初めて倒れている父さんと母さんを見付けたんだから。僕……なんで、忘れてたんだろう……」 「……」 ハーデスの仕業だと、すぐに氷河には わかったのである。 おそらく、冥府の王は、両親がいない方が、いずれ瞬を支配する時に事が容易になると考えたのだろう。 ハーデスは、ハーデスだけに その心を向け、従順に冥府の王に従う美しい器を欲している。 他に愛する者がいたのでは、その情に囚われて、瞬は彼の主になる者だけを見ようとはしないだろう――そう ハーデスは考えたに違いなかった。 「そうか……」 瞬以外の誰かであるはずがないと確信しながら、そうでなければいいと、氷河は願ってもいたのだが、やはりハーデスが選んだ人間は この瞬であるらしい。 苦い気持ちで――氷河は、その事実を認めざるを得なくなったのである。 瞬が、そんな氷河に尋ねてくる。 「氷河は?」 「俺?」 「氷河のお父さんとお母さんは?」 「あ、ああ。俺も一人だ。母が死んで、守るものがなくなったから、俺は聖域に行ったんだ。聖域は、守るべきものと、そのために戦うべき敵を、俺に与えてくれた」 瞬に そう答えてから、氷河は、ハーデスの干渉など受けていないはずの自分が そんな大事なことを忘れていた事実に、少しばかり呆れ驚くことになった。 4年前、だから、氷河は、生まれ故郷を離れ、聖域に向かったのだった。 “守るべきもの”を求めて――“守るべきもの”がほしかったから――。 「氷河は、氷河のお母さんを好きだった?」 「ああ」 「僕も」 その短い一言に、どれだけの思いがこめられているのか――。 瞬の頬を細く伝う涙に指で触れ、氷河は切なく思ったのである。 自分が欲していたものは、実は聖域ではなく、聖域から遠く離れた小さな村にあったのではないか――と。 瞬は可愛いらしく、優しい声と仕草を持っている。 その心は温かく、瞬の側にいる時間は ひどく心地良い。 見ているだけで、戦いを生業とする聖闘士の胸は 温かい気持ちでいっぱいになる。 この瞬と いつまでも一緒にいられたら どんなにいいだろうと、氷河は思った――思い願った。 「僕、あの時から、闇が恐くなったの。氷河は お陽様みたいに明るく輝いているから、見てると嬉しくて、側にいると安心する」 『わかっているだろうな。ハーデスの降臨を不可能にするのが、おまえの務めだ』 瞬の優しい声を、教皇の冷たい声が追いかけてくる。 追いついて、瞬の声を消さないでくれと、氷河は胸中で懸命に懇願していた。 教皇にというよりは、アテナの聖闘士である自分自身に。 |