自由主義を極めた知恵と戦いの女神がギリシャから帰国したのは、その2日後の夕刻。
屋敷の主の帰還に気付いた瞬は、教会での交渉の不首尾を報告するために、重い足取りで彼女の部屋に向かったのである。
そこには既に氷河が来ていた。
氷河だけでなく 星矢と紫龍までがそこにいて、彼等は、遅れてやってきたアンドロメダ座の聖闘士に、いわく言い難い視線を投げてきた。
そんな仲間たちの様子に、瞬は、来てはならないところに来てしまった異邦人のような気後れを覚えることになったのである。

その気後れに数秒 遅れて、この状況を奇異に感じる心が 瞬の中には生まれてきた。
アテナの聖闘士たちが、沙織に、どう考えても聖闘士の仕事とは思えない用事を頼まれることは よくあることだった。
そして、そういう時、氷河は、沙織に言いつけられた用事を片付けるための行動はするが、結果報告のような事務連絡は瞬に任せるのが常だった。
『報告・連絡・相談』というサラリーマン必携の言葉は 氷河の辞書には載っていないのだと、瞬は勝手に思い込んでいたのである。

「氷河……星矢たちまでどうしたの?」
「ああ、今、あのオルガンは諦めろと、沙織さんを説得していたところだ」
「星矢たちも?」
「氷河が、自分一人だけじゃ沙織さんに勝てる気がしないっていうから、加勢に来たんだ」
「……」
一人が三人でも、三人が四人になっても、アテナの聖闘士がアテナに勝てるわけがない。むしろ、それは逆効果――と、本音を言えば、瞬は思ったのである。
案の定、沙織は、氷河たちの説得に、かえってオルガン奪取の意欲を増してしまったようだった。

「あなたたちの目も当てられない不首尾の経緯は、今 氷河から聞きました。でも、そんなことで引き下がっちゃ駄目じゃないの。子供の使いじゃないんだから、もっと しっかり食い下がってくれなくちゃ。諦めることを知らないのがアテナの聖闘士でしょう。明日、もう一度行ってきてちょうだい。アポイントメントは私がとっておくわ」
「沙織さん。僕たちが諦めることをしないのは、地上の平和と安寧にかかわる戦いの時だけで、こういうことまでは――」
瞬の力ない反論を、沙織は一蹴した。
「戦いの時に諦めずにいられるのなら、他の時にも その諦めの悪さを発揮してちょうだい。私の聖闘士は もう少し応用力を備えているはずよ」

沙織はあくまでも あの教会のオルガンに固執し続けるつもりでいるらしい。
仲間たちと共に沙織の部屋を出た瞬は、城戸邸の長い廊下で、廊下よりも長い溜め息をついたのである。
「沙織さん、あの教会のオルガンにこだわる訳でもあるのかな。沙織さんは、遠慮深いとは言わないけど、人に迷惑をかけるような我儘を言うような人じゃないのに」
この地上に他にオルガンが存在しないというのならともかく、いつもの沙織であれば、こういう時にはすぐに代わりのオルガンを入手する方向に方針を転換するはずである。
どうしても あの教会にあるものと同じオルガンが欲しいというのなら、それこそ あのオルガンが作られたイタリアに捜索の範囲を広げるという手もあるのだ。

「天啓でもあったんじゃねーのか。あのオルガンを手に入れれば、地上は安泰だとか何とか」
「ギリシャの神であるアテナに、キリスト教の神様から?」
星矢の荒唐無稽な推察に、瞬が両肩をすぼめる。
もし本当にそんなことがあったとしたら、それは、ギリシャの神であるアテナが、たかだか二千年前に人間が作った宗教の神の下位に置かれることと同義。
アテナは、そんな天啓など鼻で笑って撥ねつけるはずだった。
そもそも、星矢の推察には宗教的に矛盾がある――ありすぎる。
してみると、これは、どう考えても、グラード財団総帥である城戸沙織という一人の人間の個人的執着。
瞬には、そうとしか思えなかった。






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