瞬が その子猫を見付けたのは城戸邸の門前だった。 右後ろ足に、どう見ても先天的なものではない――人間の手によって負わされたとしか思えない――怪我をしていて、その体は悲惨なまでに痩せ細っている。 瞬が抱き上げようとすると、また危害を加えられると思ったのか、全身の毛を逆立て 爪を出して、その猫は“人間”の手から逃れようとした。 外出先から戻ったところだった瞬は その場で即座にUターンをして、気の立った猫を獣医科病院に連れていったのである。 「こいつに怪我させた奴が責任感じて、金持ちそうな家の前に捨ててったのかなーと思ってたんだけど、怪我が4、5日前のものだったってんなら、こいつ、正しく行き倒れだったってことか。まだ ちっこいのに」 「人間という奴は、時々 信じられないほど残酷なことをする。こんな小さな猫を傷付けて、どんな益があるというんだ。まったくひどい話だ」 星矢と紫龍は、最初から その猫に同情的だった。 二人を味方につけてから、瞬は、沙織に、アジア随一の財力を誇るグラード財団総帥の私邸に どこから何をどう見ても みすぼらしい野良猫を引き取る許可を求めに行ったのである。 その猫が心無い人間の手によって怪我を負わされており、そのまま外に放り出されたなら到底生き延びることができそうにない状態にあったことは、この場合、その猫にとって 幸い――不幸中の幸い――だったかもしれない。 沙織は、人類の一人として、その猫の怪我に責任を感じ、グラード財団総帥宅に ふさわしい飼い猫とはいえない野良猫が 彼女の屋敷で暮らす許可を与えてくれたのだから。 沙織の許可さえもらえれば、他の誰の同意や許可も必要ではなかったのだが、もちろん、瞬は氷河にも その猫との同居への同意を求めることをした。 もっとも、瞬がその猫を拾った時にはギリシャに行っていた氷河が城戸邸に帰ってきた時、瞬に拾われた猫は既に城戸邸滞在3日目で、完全に城戸邸の一員としての既住権を獲得してしまっていたのだが。 「最初に見付けた時には、泥とこびりついた血で汚れて、ひどい姿をしていたの。こんなに白い猫だなんて、最初は全然わからなかったんだよ」 「……」 「多分 足を引きずるのは一生治らないだろうって、お医者様は言ってたけど、僕が見付けた時には、怪我は治りかけてたの。でも、ほんとなら まだミルクを飲んでるくらいの子猫だから、エサを手に入れる方法を知らなかったんだね。それで死にかけてたんだよ」 「……」 「この子、すごくナーバスなの。小さな物音に怯えてたかと思うと、急に攻撃的になったりして……。ほんとは まだお母さんに守ってもらってるくらいの子猫でしょう。なのに、こんな怪我を負わされて、不安で恐くて たまらないでいるんだと思うんだ」 仲間の同情を引こうとして、瞬は懸命に言葉を重ねたのだが、瞬のそんな説得は 氷河の耳を ほぼ素通りしていた。 氷河の意識は、瞬の言葉ではなく、おそらくは人間不信の野良猫の爪のせいで 傷だらけにされてしまっている瞬の手と腕に向かっていたのだ。 「おまえが こんな凶暴な野良猫の世話をする必要は――」 氷河の目が何を睨んでいるのかに気付いた瞬は、すぐに両手を 自分の背中とソファの背もたれの間に隠し、氷河の言葉を遮った。 「で……でも、この子がこんなふうになったのは、多分 人間のせいなんだよ。僕たちは、人間の一人として、この子に責任があると思うんだ。それに、少しずつ慣れてきてくれてるんだよ。お風呂はまだ嫌がるけど、夕べなんか、僕のベッドに潜り込んできてくれたの。昨日までは、自分から人に近寄っていくことなんか思いもよらないってふうだったのに。この子、人間は恐いけど、ひとりになることを もっと恐がってるんだと思うんだ。そんな子を放り出すなんてこと、氷河にもできないでしょう?」 「たった3日で、猜疑心でいっぱいの猫を懐かせるなんて、才能だよなー。人徳って、猫にも通じるものなのかもな」 かわいそうな猫にではなく、瞬の懸命の説得が まるで効を奏していないことに同情した星矢が、脇から瞬に加勢をする。 「猫にもわかる人徳を感じ取ることのできない人間が、ここには約一名いるようだ」 星矢だけでなく、紫龍も もちろん瞬の味方だった。 だが。 星矢の口添えも、紫龍の皮肉も、今の氷河には 馬の耳に念仏、馬耳東風。 どれほど有益な苦言も切言も、相手に聞く耳がなければ、それはただの雑音でしかない。 そして、今の氷河の聴覚と思考力と感情は、 「おまえのベッド?」 という点に、集中集約されていた。 氷河の片眉がぴくりと引きつり、(おそらく当人は意識していないのだろうが)目付きが極限まで冷え切った三白眼になる。 凶暴性というより残虐性が にじんでいるような氷河の視線は、当然のことながら、瞬に向けられてはいなかった。 それは、肉付きが極端に不足して、毛並みに艶もなく、お世辞にも綺麗とは言えない、瞬の膝の上にいる、白く小さな命の上に据えられていた。 その猫の背を、瞬が、傷だらけの手でそっと撫でている。 瞬は、氷河とは全く趣の異なった優しい眼差しで、みすぼらしい猫を見詰めていた。 「この子とお話できたらいいなあって思うの。言葉が通じたら、ごめんなさいって言えるのに」 「――なぜ おまえが謝る必要があるんだ」 新しい同居人を歓迎する気持ちなど かけらほどにも抱いていない氷河が、それでも、瞬に『その猫を放り出せ』と言うことができないのは、瞬の膝の上に野良猫が載っている状況を この屋敷の主人が認めてしまっていたからだった。 貧相な野良猫が、一脚50万は下らないダ・ヴィンチの肘掛け椅子に、神に選ばれたこともある人間の膝をクッションにして、気持ちよさそうに くつろいでいる様子に、沙織が文句の一つも言おうとしないから。 沙織が既に野良猫に城戸邸居住の許可を与えているのなら、氷河に異を唱えることはできないし、異を唱えても、それはあっさり却下されてしまうだろう。 それがわかっているから、氷河は、分不相応な待遇に遠慮した気配も見せずにいる図々しい野良猫を、家の外につまみ出すことができなかったのである。 沙織は、瞬の同情心を是として認めてしまっているようだった。 彼女が その猫に注ぐ眼差しは、同情心より責任感の色の濃いものだったが。 「ああ、そのうち、そういうこともできるようになるかもしれなくてよ」 「え?」 沙織の言う『そういうこと』とは、猫と人間の会話であるらしい。 永遠に叶わない願いを口にしたつもりでいた瞬が、驚いたように瞳を見開く。 沙織は、彼女の心優しい聖闘士に、やわらかい笑顔を向けて頷き返した。 「今、グラードの理工学ラボの方のメインの研究テーマがBMIになってるの」 「なんだよ、それ。IBMの親戚か何かか?」 星矢の発言は頓珍漢を極めたものだったのだが、沙織はむしろ、星矢がIBMを知っていることの方に驚いてしまったらしい。 感心したような顔をして、彼女は星矢の見当違いな発言を訂正した。 「IBMじゃなくてBMI。brain machine interface 。要するに、人間の脳が発する情報を使って機械を動かす技術のことよ。脳波計や機能的MRIで 人間の脳内の情報を取り出して、その人間の意思通りに機械を動かす研究が始まっているの。脳波でコンピューターゲームのキャラクターを動かす装置なんかは既に市場に出回っているし、脳波で家電のスイッチを入れる装置や車椅子を動かす装置の試作品も製作済みなのよ」 「脳波で家電のスイッチ入れるって、もしかしてテレキネシスとかいうやつ?」 「そう考えてしまっていいかもしれないわね」 「SF世界でのことと思われていたことが現実のものになりつつあるというわけですね。ムウや貴鬼のテレキネシスやテレポート能力が超能力でなくなる時が近付いているというわけだ」 「ええ、そうね。もちろん、普通の人間には、脳波の受信機や増幅器が必要なのだけど。人間の身体の周りにある電界を利用して、人間同士が言葉を用いずに情報伝達を行なう装置も開発されているのよ」 「人間と機械、人間と人間の間で、脳の情報を伝え合うことができるなら、人間と動物の間でも――というわけですか」 「すげー。俺たち、そのうち、犬や猫と話ができるようになんのかよ!」 「まだまだずっと先のことよ。でも、それももう絶対に不可能なこととはいえなくなってきているわね」 「ナマズと意思の疎通ができるようになれば、正確な地震情報を手に入れられることになるかもしれないな」 「ブタを脳波で手懐ければ、トリュフ採り放題ってことじゃん!」 「そういう利用方法は考えたことがなかったわね……」 人類と動物と機械の明るい未来の話題で盛り上がる星矢たちの脇で、氷河ひとりが会話に加わることをせず、ふてくさっている。 トリュフと人間の明るい未来に心弾ませていた星矢は、そんな氷河の態度を見て、顔をしかめることになった。 「さっきから、一人で なにムスっとしてんだよ。おまえ、トリュフ、嫌いだったっけ?」 「これが上機嫌でいられるかっ。野良猫ごときが瞬のベッドに……!」 「へ?」 「いや……なんでもない」 瞬のベッドに野良猫が潜り込む事態に文句を言う権利を有するのは、瞬自身と、せいぜい瞬の恋人くらいのものである。 しかし、氷河は、まだその権利を手に入れてはいなかった。 『今日できることは今日のうちに』とは、よく言ったものである。 『今日できることは、明日でもできるだろう』と悠長に構えていたことが、氷河の“今日”をこんなふうにしてしまったのだ。 これは、まさに、『後悔先に立たず』状態。 氷河は、昨日までの自らの悠長に 尋常でなく立腹していたのである。 『シロ』と名付けられた野良猫は、体力が回復すると、足を引きずりながら瞬のあとを追いかけていくことが自分の仕事と信じているような生活を開始した。 それは 『気紛れ』が枕詞の猫の行動とは思えないほどの一途さ健気さで、その健気な様子が見る者の涙を誘い、シロは、城戸邸の住人たちに――アテナとアテナの聖闘士たち以外の者たちにも――多大な好意をもって迎え入れられていったのである。 「カルガモのヒナが親のあとをついてくのは 知ってるけど、猫のインプリンティング現象なんて聞いたこともないぜ」 「瞬以外の人間はまだ憎むべき敵のようだな。瞬だけが自分を守ってくれる人間だと思っているらしい」 鋭い洞察力で、シロは、特に氷河を敵視しているようだった。 |