世界はまだ すっかり闇に呑み込まれてはいない。
世界には、まだ光がある。
自分は自分として、闇とは違うものとして、ここに在るのだ。
だから、人に名を呼んでもらうこともできる。
少し心を安んじて、瞬は声のした方を振り返ったのである。

一日の最後の陽射しを受けて輝く金色の髪。
瞬は、最初、その人を、師アルビオレだと思った。
だが、そうではなかった。
彼は、今日 瞬が初めて出会った師とは違う面差しの持ち主だった。
体格にさほどの違いはないのだが、似ているのは、彼が(背の高い)大人だということと、髪の色と瞳の色だけ。
今 瞬の目の前にいる人物は(子供ではないという意味で。瞬より歳を重ねているという意味で)確かに“大人”だったが、アルビオレより幾つか歳の若い大人に見えた。
瞬よりは10歳ほど年上に見える。
温かい印象の強い瞳の持ち主のアルビオレとは違って、彼は悲嘆で凍りついているような目をしていた。

先程紹介された 修行仲間の中には、この年頃の者はいなかった。
瞬の修行仲間たちを紹介する時、アルビオレは、「これがこの島の住人のすべてだ」と言っていた。
では、この人はいったい誰なのだろうと、瞬は訝ることになったのである。
この島の住人ではない――たとえば、この島に暮らしているわけではないが、時々この島に立ち寄るような人がいるのだろうか――と考える。
島には月に一度、生活物資を届けに来る船があることは、瞬も知っていた。
瞬自身が、その船によって、この島に運ばれてきたのだから。
だが、それは今日の朝のこと。
その船の船長は、瞬と他の荷物を島に降ろすと、ひと月後にまた来ると言って、島を去っていったばかり。
この島に“住人”以外の人間がいるはずはなかった。

「だ……誰?」
瞬が尋ねても、彼は、自分が何者なのかを瞬に知らせてはくれなかった。
代わりに、彼は、
「おまえは聖闘士になるな」
と、瞬に命じてきた。
声も聞いたことのない声。
少なくとも、瞬の記憶の中には存在しない声である。
彼は、どう考えても初めて会う人だった。

「で……でも、僕、聖闘士にならなきゃ、生きて日本に帰れないの」
見知らぬ人――しかも大人の人に口答えをするのは恐い。
だが、瞬は、そう答えないわけにはいかなかった。
聖闘士になること――それだけが、瞬に ただ一つだけ許された“生きるための方法”だったから。
その方法を放棄することは、今の瞬には そのまま死を意味するのだ。
彼は、瞬に『死ね』と言っているわけではないようだった。
彼は、大人に口答えをした子供を叱りつけることも、殴りつけることもしなかった。

空と海はまだ明るい。
島はまだ、夜の闇に染まりきってはいない。
世界には まだ光があった。
その光を受けて輝く金色の髪。
その大人は、次には、懇願するように・・・・・・・苦しげに、瞬に命じて・・・きた。
「なら、よく聞け。氷河はろくな男じゃない。おまえが命をかけるだけの価値もない、ただの馬鹿だ。そのことを忘れるな」
「氷河……?」

それは、瞬の仲間の名だった。
瞬がアンドロメダ島にやってくるまで暮らしていた城戸光政という老人の邸。
その家に集められた多くの子供たちの中でも、際立った容姿と 他の子供たちとは異質な言動で 特に目立っていた仲間の名。
外国で暮らしていた時間が長かったから普通の日本の子供とは違うのだろうと、皆が その一風変わった言動を認め、許していた仲間の名。
それが『氷河』だった。

城戸邸にいた頃の瞬は、大人に平気で反抗的な態度を示す氷河を見るたび、胸をどきどきさせていたものだった。
自分には到底できないことを 気安くしてしまう氷河に驚嘆し、また、大人たちがいつ彼に大人の持つ力で報復に出るのかと、それを自分が氷河自身であるかのように恐れながら。
氷河の大人たちへの反抗は、星矢のそれとは違っていた。
にぎやかに騒がしく大人たちに食ってかかる星矢とは違って、氷河の反抗の仕方はひどく静かだった。
大人たちの姿が見えていないように振舞い、その暴言や侮蔑の言葉が聞こえていないように振舞い、彼等を その意識の内に認めないことで、氷河は大人たちに逆らうのだ。
ほぼ無言、ほぼ無表情で。
氷河は“大人”たちが恐くないのかと、瞬は いつも それが不思議でならなかった。

その氷河の名が、なぜ急に見知らぬ大人の口から出てくるのか。
瞬には、その理由がわからなかった。
「あの、どうして氷河が……あなたは誰」
大人の前では なるべく顔を伏せていた方がいい――というのが、これまでの人生で瞬が身につけた処世の術だった。
長く真正面から大人の顔を見詰めることをすると、瞬が何も言わなくても、大人たちは大抵 腹を立てて、瞬に手を挙げてきた。
そんなことにはなりませんようにと祈りながら、瞬は思い切って、その大人の顔を覗き込んでみたのである。

そこにいるのは、やはり瞬には見知らぬ人だった。
だが、彼は、氷河と同じ瞳の色と氷河と同じ髪の色を持っていた。
その面影も、どこか氷河に似ている。
彼は、氷河の兄弟なのだろうかと、瞬はまず思った。
しかし、氷河に兄弟がいるという話を、瞬は聞いたことがなかった。
氷河は、たった一人の肉親だった母親を亡くし 天涯孤独の身の上になったところを、ろくな事情説明も受けぬまま、一人で日本に連れてこられた――と言っていた。
氷河の肉親ではないのに、氷河に似た人。
それはどういう人だろう――と、瞬は考えてみたのである。
瞬は その答えを見付けることはできなかったが、瞬に 答えは与えられた。

「俺は氷河だ」
と、彼は言ったのだ。
残念ながら、それは瞬の理解の範疇を超えた答えだったが。
「え……?」
瞬が反射的に洩らした声に、
「俺が氷河なんだ」
と、彼はもう一度 その答えを繰り返してきた。
瞬には到底信じ難い答えを。






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