歳の頃は、15、6。 一目で外国人観光客とわかる、綺麗な子供だった。 いい服を着ていて――といっても、さすがにひらひらのワンピースやスーツなんかじゃなかったが――、いかにも ちゃんとした家のちゃんとした両親に、『人に嘘をついてはいけません』『人のものを盗んではいけません』『困っている人は助けてあげなさい』と言い聞かされて育ったような子供。 そんな表情と眼差し――素直そうで、善良な人間は神に守られていると信じきっているような澄んだ瞳――の持ち主。 見るからに 何かの手違いで迷い込んできた、危機意識と緊張感のない子供。 その子供に対する俺の第一印象はそんなものだった。 他の連中も、俺と似たり寄ったりの印象を抱いたに違いない。 外からの観光客に手を出すのはご法度だ。この島では。 とはいえ、それは『暴力沙汰に巻き込むな』程度のルール。 女に粉をかけるくらいのことは大目に見られていた。 実際、温暖で風光明媚なこの島に、行きずりの恋のアバンチュールを求めてやってくる女は皆無ではなく、その手の出来事を期待している輩は多い。 そして、観光客が求めているサービスを提供するのは、観光で生計を立てている人間の重要な義務というわけだ。 その子供は やたら綺麗な顔をしていて、しかも、見るからに他人への警戒心が稀薄。 その上、自分を食ってくれと言わんばかりに、向こうから狼の巣窟に飛び込んできたんだ。 狼たちにすれば、まさに格好の獲物だった。 だが、色気は皆無。 いったい あんな子供のどこがいいのかと、店の奥のテーブルで 俺は思っていたんだが、店にいた若い連中は 砂糖に群がる蟻のように、その綺麗な異邦人に群がっていった。 ――が。 らしくもない猫撫で声で、 「どこから来たの?」 「歳は幾つ?」 「名前は何ていうの?」 ――は、まだ いいとして、 「パパとママはどこ?」 というのは、女を引っ掛けようとする男が口にしていい質問だろうか。 俺は頭を抱えたくなった。 「EU圏じゃないな。アメリカでもない」 「かといって、アジアでもない」 「アフリカじゃないことも確実だ」 『じゃあ、どこだ』と言いたいところだが、連中の判断(あるいは、迷い)を、俺はあまり気妙なこととは思わなかった。 その子供は、まさに国籍不肖、それどころか 人種も不肖の――特異な雰囲気と容姿の持ち主だったから。 身長はアジア系の標準。 顔立ちはコーカソイドとモンゴロイドの中間。 髪は栗色――いや、黒と金の中間。 体型は、華奢な子供。 立ち居振舞いは、作法を知っている大人。 話しているのは標準的なギリシャ語。 謎めいた子供――美しい姿と印象を持った不思議な少女。 女として見る気にはなれなかったが、興味は湧く。 いったい彼女は何者なのかと、俺は、島の若い連中と小さな異邦人のやりとりに 耳をそばだてていた。 「住んでいるのはアテネですが、日本人です」 「日本人!」 連中が歓声をあげたのは、日本人が珍しいからではなかっただろう――そうではなかったようだった。 奴等が歓声をあげたのは、奴等が初めて“日本の女”のイメージ通りの日本人に出会ったから――だったらしい。 獲物が日本人と知ると、奴等は、日本には縁もゆかりもない俺でさえ耳をふさぎたくなるようなことを、その少女の前で嬉々として わめきたて始めた。 「じゃあ、ゲイシャなんだ。道理で、大人しそうな――」 「日本のゲイシャは男に従順で、奇跡のようなテクニックを持っているそうだが、それは本当か?」 「日本のゲイシャは、フェラチオしながら唇と舌で男の物にコンドームをつけることができるという話を聞いたことがあるぞ」 「それ、本当か? まさに、オリエンタルマジック!」 俺は呆れた。 フジヤマ・ゲイシャ・スキヤキで止まっているのか、こいつらの時計は。 せめて、トヨタ、ソニー、ニンテンドーくらいの認識で話をしてほしいと思った俺は、高望みが過ぎるんだろうか。 幸い、子供は自分が何を言われたのか わからなかったらしく、連中の下世話な質問に きょとんとして何も答えなかった。 つまり、この綺麗な子供は素人娘だということだ。 そんなことは最初からわかっていたことだが。 「どうして、ここに日本人が」 ここは観光地だ。一応。 昨今、アジアからやってくるのは中国人が多いが、日本人はそれに次ぐ良客。 当然、連中が訊いたのは、『日本人の素人娘(むしろ、子供)が、なぜこんな観光客が足を踏み入れない区域にある(言うなれば場末の)酒場にやってきたのか』ということだったろう。 つまりは、この店の雰囲気が恐くはないのかということだ。 異国人の素人娘が 連中の質問の意図を正しく理解したのかどうかは、俺にはわからない。 ただ、彼女が物怖じした様子もなく、 「人に会いに来たんです」 と答えたのは事実だった。 「恋人?」 「いいえ、僕は――」 そう言いかけて、アテネ在住の日本人は、ひと渡り 店の中を見回した。 酒瓶の並んだ棚とカウンター。 フロアには、立ち飲み用の、せいぜいグラスと肘を置けるだけの小さな円卓が幾つか。 店の奥には、こそこそと秘密の話をするためのテーブルがある。一つだけ。 彼女は、最後の最後に、そのテーブルのソファに ふんぞりかえっていた俺に気付いて――そして、俺と素人娘の目が合った。 俺は目を逸らさなかった。 その必要がないことを知っているから。 俺と目が合えば、大抵の人間は、向こうから目を逸らす。 しかし、その子供は、俺と視線が合っても平然としたものだった。 平気で俺を見詰め続けていた。 些細なことだが、俺には それは驚嘆すべきことだった。 俺と視線を合わせて目を逸らさずにいられるのは、この島の顔役の中でも60を過ぎた、煮ても焼いても食えないようなジジイ共2、3人だけだ。 20歳を少し過ぎたくらいの俺に、40、50程度の むしろ、10代の身の程知らずの若い連中の方が、俺に対しては気安いくらいだ。 俺は、15の時に、この島の顔役の一人だった男を素手で殴り殺して、陰の社会で一目置かれるようになった狂犬だからな。 よほどのことがない限り 拳銃を使うのがご法度のこの島では、俺は、決して刺激を与えてはならない爆発物のようなものだ。 若い三下共は 俺を英雄視し、それなりの立場にある奴等は危険視する。 それが、この島の常識。 日本人の素人娘は、そんな俺の側に ゆっくりと歩み寄ってきた。 少し緊張した面持ちで。 だが、その緊張は俺を恐れているからではない。 人として真っ当な感性の持ち主で、ちゃんと俺を恐がっているのなら、彼女は、俺のテーブルに指を3本置いて、 「こちらに座ってもよろしいですか」 なんてことを訊いてきたりはしなかっただろう。 「ちぇっ。やっぱり、女ってのは強い男を見分けて、 本音なのか、俺への おべんちゃらなのか、少女を取り囲んでいた奴等の一人が、そんな言葉をぼやいてみせる。 女は確かに強い男・金を持っている男を探り当てる目を持ち、そういう男に擦り寄る生き物なのかもしれない。 だが、そんな女は――いや、生きている人間は誰でも――危険を感じ、我が身を危険にさらすまいとする防衛能力も有しているはず。 それは、異邦人も この島の住人も同じだろう。 むしろ、危険を回避しようとする判断力は、自分に益のある人間を探り当てようとする能力に優先するはずだ。 俺に守るべきものがないこと、それゆえの自棄、それゆえの無感動――自分の死も他人の死もどうでもいいと思っていること――を、理屈ではなく生物の本能で感じ取って 俺を恐れるのが、普通の人間なんだ。 にもかかわらず、その少女はそうではなかった。 こんなことができるのは、よほどの馬鹿か、あるいは、自分の力に相当の自信を持っている人間だけだ。 この少女が、俺を恐れることが不要なほどの力を備えているとは思い難い。 だが、『では彼女は ただの馬鹿なのか』と問われると、それも違うように思える。 彼女の瞳は、聡明の光を有していた。 澄んではいるが、無知や愚鈍が作る鈍さはない。 切なそうな目――子供のそれのように大きく澄んだ瞳が、俺を切なげに見詰めている。 俺が実際の歳相応の若造だったなら、自分は彼女に恋されているのだと誤解してしまっていただろう。 そんな瞳、そんな眼差しだった。 彼女が俺に向けてきたものは。 誰かに似ていると思った。 その目に、俺は以前どこかで会ったことがある――と。 だから――その目を正面から見てみたかったから、俺は 恐いもの知らずの異邦人の少女に、 「好きにしろ」 と答えたんだ。 「ありがとうございます」 と言って、彼女は俺の向かいの席に腰をおろした。 男共が素人娘のあとを追って、俺のテーブルの周りに移動してきたのは、俺には意外だった。 普段は、普通は男たちでさえ俺を恐がって、名指しで呼ばれたのでなければ、俺の側に近寄ってこようとはしないのに。 その恐さを忘れさせてしまうほど――それだけ、この子が綺麗で魅力的だということか。 いや、むしろ、磁力があると言った方がいいかもしれない。 人の目と心を惹きつける磁力。 しかし、間違いなく子供だし、綺麗なことは確かだが、近くで見るとなお一層 幼い。 いわゆる清純派。 色気不足も否めない。 人種の違いなのか、生活環境の違いなのかは知らないが、この島では、この子の半分の歳の子供の方が、この子より よほど男に媚びる目や仕草を持っている。 彼女は、“子供”というより――こんな比喩は使いたくないが――何千年何万年の時を生きても 汚れることを知らない“天使”のようだった。 半端に擦れた悪党共が惹かれるのも わかるような気がする。 その天使が、まっすぐに俺を見詰め、天使にしてはありえないほど詰まらないことを、俺に訊いてきた。 「はじめまして。お名前は何ておっしゃるの」 「イッキ」 変な名だと思ったに違いない。 彼女は、俺の名を聞いて、それでなくても大きな瞳を更に大きくした。 だが、俺にとって この名は、確実に俺のものだと信じられる唯一の財産だ。 どんなに呼びにくいと文句を言われても、変えるつもりはない。 「一輝。それは、僕の祖国では、『いちばん輝いている人』という意味の名前です」 俺が彼女を追い払わなかったのは、唯一 俺のものである名に、意味を与えてもらったからじゃない。 俺がそうしなかったのは、人を惹きつける磁力を持った この少女を 更に惹きつける力が俺に備わっていることを、若い連中に示すため。 ただ、それだけだった。――多分。 「ふさわしい お名前ですね。僕は瞬といいます。『またたく』という意味なの。転じて、とても短く儚いこと――」 「永遠も一瞬の積み重ねだろう。用は何だ」 なにが『とても短く儚いこと』だ。 そんな人間が、この俺に平気で名前を訊いたりできるものか。 弱い立場の人間や小心者は、事前に当人以外の誰かに“敵”の名を確かめて、敬称つきで媚びへつらってくるもんだ。 もちろん、瞬は弱者でも小心者でもなかった。 本当の弱者は、俺に対して、 「お話してほしいの。僕、今朝 ひとりでこの島に来たばかりなので、知り合いもいなくて。話相手になってくれる人を探していたの」 なんて、馬鹿げた要求を突きつけてくるようなことはしないだろう。 よほどの暗愚迂愚なら、あるいはそんな馬鹿げたことを言い出すこともあるかもしれないが。 「それなら、俺が」 と、若い連中の一人が――よほどの暗愚迂愚だ――俺と瞬の間に割り込んでこようとした。 そして、仲間に足を踏まれ、すぐに身の程を思い出したらしい。 完全な暗愚ではなく 身の程を知る能力を有していたことに免じて、俺は、そいつの声が聞こえなかった振りをしてやった。 「 「何でもいいから、あなたのことを話して。ご家族のこと、お仕事や趣味のこと。毎日何を考えて、どんなふうに過ごしているか。好きな花や、好きな食べ物――」 「俺には家族はない。趣味もない。仕事は、この島の若い奴等のマネージメント。花の名は知らない。食い物は何でも食う。――そんな“お話”を聞いて、どうするんだ」 「普通は、そういうことを訊かれたら、同じことを僕に訊いて、そして 僕に興味を持ってくれるものでしょう?」 『興味を持ってくれるものでしょう』だ? この子供は、俺に興味を持ってもらって、それでどうしようというんだ。 死の女王の島で恐いオトモダチを作ってきたと、アテネにいる真っ当なオトモダチに自慢でもするつもりか。 馬鹿らしい。 「俺は普通じゃない」 「そうなんですか」 「礼儀知らずには無礼に振舞ってもいいというのが、俺の持論だ。俺の貴重な個人情報提供料として、酒を奢るくらいのことはしてもいいと思うんだが、その程度の礼儀は心得ているか」 「僕、お酒は飲めないから わからないの。何がお好きですか」 「ドンペリのロゼ」 試しに、おそらくこの店で最も高価なシャンパンの名を口にすると、瞬はこくりと頷いて、カウンターにいた店主の方に視線を向けた。 「じゃあ、それをこちらに」 「新しいボトルを開けることになるよ」 「構いません」 店の主人に尋ね返された瞬が、再度頷く。 途端に、大して広くない店内には、驚愕と不審の念が入り混じったようなどよめきがあがった。 「ええーっ !? 」 叫んだのは俺じゃない。 店内にいた若い連中だ。 奴等が叫びたくなる気持ちは、俺にも わからないでもないが。 酒がわからないというのは本当らしい。 ウーゾやラキを奢るような気安さで、瞬はドンペリのボトルを開けることを店主に指示してのけた。 店の主人が、本当に開けていいのかと、視線で俺に尋ねてくる。 俺が開けろと言えば、タダでも開けるしかないんだから、店主が心配しているのは、酒代のことではなかったろう。 奴は、瞬のオツムと非常識を案じているんだ。 ドンペリの代金を払えなかった時、自分が この綺麗な子供をどう扱わなければならないのかということを。 世間知らずの子供というものは、かくも傍迷惑な存在だ。 店主に同情しつつ、俺は、奴に頷いた。 その時だった。 島のごろつき ご用達のこの店に、またしてもそぐわない客が入ってきたのは。 |