「俺は来てほしくないがな」
店のドアを開け放したまま、午前の光を逆光にして、例の金髪男が そこに立っていた。
昨日の黒のスーツから一転、今日の出で立ちは綿のノースリーブ1枚。
極端から極端に走る男だな、しかし。

「素人のおまえが聖域に来たりしたら、瞬が おまえ べったりになることがわかっている」
聖域? それは何だ。
着ているものは変わっても、訳のわからないことを一人で勝手に喋りまくるのは昨日と同じか。
この男は、自分が口にしている言葉を他人に理解させようという気がないらしい。

「寝るしか能のない どこぞの優男よりは役に立つだろうからな。マフィアごっこはやめたのか。昨日の扮装は、この島では さぞかし悪目立ちしただろう」
この男には、何か妙な力を感じる。
殺気とまではいかないが、殺気に似た奇妙な緊張感だ。
挑発するのは危険な相手だとわかっていたんだが、俺の唇と舌は この男を馬鹿にする言葉を吐き出したくて仕方のない状態にあったらしく――気が付いた時には、俺は その言葉を言い終えてしまっていた。

氷河は むっとした顔になり、ぴくぴくとこめかみを引きつらせて俺を睨みつけてきた。
「俺は瞬の兄に会うつもりでいたんだ。知性的で理性的で礼儀正しい白皙の美青年であるはずの瞬の兄にだ。当然、砕けた格好では良くない印象を持たれるだろうと、俺なりに気を配って――ああ、まったく意味のない気配りだった! 俺が馬鹿だったんだ。その点は潔く認める!」

自分の滑稽を素直に認め反省する姿勢は結構だが、なぜ こいつは その反省の弁を俺を睨みながらわめきたてるんだ。
恋人が他の男に目移りするのは、寝取られる側の男に 努力と魅力が不足しているからだろう。
たまたま その場に居合わせただけの俺に腹を立てるのは、自分の非を認めようとしない責任転嫁というものだ。
まあ、この男に限れば、夜のお勤めには励んでいるようだから、問題は努力不足ではなく魅力不足なんだろうが。
でなければ、瞬は、性交過多の好き者に命の危険を覚えているんだ。

「瞬が浮気の口実に兄を持ち出そうが妹を持ち出そうが 俺の知ったことじゃないが、瞬が浮気に走る原因は貴様自身にあると考えて、自らを省みた方がいいぞ。でないと、そのうち、エーゲ海のあっちの島にも こっちの島にも 瞬のオニイサンが出現する事態になりかねない」
俺は、どちらかといえば親切心で、氷河に忠告をしてやったつもりだった。
だが、俺の親切な忠告の何が気に障ったのか、氷河は 俺に ほとんど殺気といっていいような憎悪のこもった目を向けてきた。
「貴様、よくも……よくも、瞬の前でそんなことを、貴様が……!」
「氷河、だめ! 乱暴はだめだよ。お願い。こんなところで騒ぎを起こすのはやめて!」
氷河が 尋常でなく感情を昂ぶらせていることを感じとったのは、俺だけではなかったらしい。
瞬が、掛けていた椅子から立ち上がり、氷河の許に駆けていく。
そして、瞬は、涙を必死に こらえているような声で、氷河にすがっていった。

俺は、そんな瞬の頼りなく細い肩を見やって、瞬はエスメラルダの近親なんじゃないかという考えを再び抱くことになったんだ。
いや、ほとんど確信した。
瞬が氷河を押しとどめようとする姿は、エスメラルダの父への怒りを爆発させかけている俺を押しとどめようとするエスメラルダの姿に酷似していた。
どんなにひどい父親でも、ただ一人の父親――。
エスメラルダがそう思っているから、いつかは父も変わる日がくるとエスメラルダが信じていたから、俺は、あの男への殺意を懸命に抑えていたんだ。
本当はいつだって、エスメラルダを苦しめている男など、それが父だろうが兄だろうが 1日でも1秒でも早く殺してやりたいと思っていたのに。

あの父親なら、自分の娘を――たとえばエスメラルダの妹を――捨てるくらいのことは平気でやりかねない。
瞬はそう・・なんじゃないだろうか。
瞬は、健気で優しく不幸だったエスメラルダの妹なんじゃないだろうか。
それなら、二人の印象や面影が重なることにも 合点がいく。

エスメラルダ――。
誰より守りたかったのに、抱きしめてやることさえできなかった、悲しく哀れな少女。
たった一人で見知らぬ島に放り出された俺を最初に見付け、渇いていた俺の喉にグラス一杯の水を与えてくれた救いの天使。
乱暴な父親に逆らうことも、過酷な運命から逃げることもできなかったエスメラルダ。
臆病で、傷付きやすく、それでも優しい心を失うことなく、必死に自分の命を生きていた、俺の大切な良心――失われた俺の良心。

この島にいても ろくなことにならないことはわかっていた。
家族もなく、エスメラルダも もういない。
しかし、この島の外に出れば――いったい そこに何があるというんだ?
瞬がエスメラルダの代わりに、俺の良心になってくれるというのか?
瞬がそうしようとしたところで、この短気で嫉妬深い金髪男が、それを許すまい。
だが、考えてみれば――なぜこの俺が、瞬のことで こんな助平野郎に遠慮しなければならないんだ?

「あ……あの、一輝さん、ごめんなさい。氷河は、ちょっと激しやすいところがあって――でも、悪気はないの。氷河は、僕の気持ちや……いろんな人の気持ちを考えすぎて、それで怒ってしまうだけなの」
『なぜこの俺が、瞬のことで 氷河に遠慮しなければならないのか』
そんなことを考えている自分自身に気付き、俺は驚いた。
俺は瞬に対してどんな権利も持っていない。
俺は瞬の兄でもなければ父親でもない。
瞬が選んだ男に腹を立てる権利も持っていない。
瞬がどれほど氷河を買いかぶり氷河を庇っても、二人がどうなっても、俺の知ったことじゃない。
なのに、瞬が氷河を庇うのが気に入らない。
瞬が氷河の肩を持つのが気に入らない。
瞬が氷河の無礼を身内の不始末として、他人の俺に謝罪してくることが――それは至極当然のことだと思うのに――腹立たしい。
自分の中に生じてくる苛立ちや憤りに混乱して、俺は二人を店から追い払った。






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