氷河は、あの医者の診療所にいた。 元気そうだった。 やつれている様子もないし、表情も決して暗くない。 それどころか、氷河は、診療所に来た患者の連れらしい子供と、診療所の庭でボール投げをして遊んでやっていた。 笑顔さえ浮かべて。 氷河は何も変わっていなかった。 元気そうだった。 ただ、松葉杖で その身体を支えているだけで。 ただ、左脚の膝から下がないだけで。 それで、俺たちは理解したんだ。 氷河が、俺たちの許に戻ってこなかった訳を。 アテナの聖闘士として戦えなくなったから、氷河は俺たちの許に戻ってこなかった――戻ってこれなかった――んだと。 そして、氷河に声を掛けるべきかどうかを、俺たちは迷った。 このまま、氷河の意思を尊重して、氷河の望み通り、俺たちは仲間を一人失ったことにしてしまった方がいいんじゃないか。 その方が氷河のプライドを守ることになり、氷河を傷付けずに済む――氷河を みじめな気持ちにせずに済むんじゃないか――って。 紫龍と俺は迷っていた。 迷う俺たちを その場に残し、以前の氷河からは想像もできないほど穏やかな――でも、覇気のない――表情で子供と遊んでいる氷河の方に歩いていったのは瞬だった。 迷う素振りも見せずに、まっすぐに、瞬は氷河の許に向かっていった。 「瞬……」 瞬の姿に気付くと、氷河は 一瞬、その表情と全身を強張らせた。 氷河とボールを投げ合っていた5、6歳の男の子が、急に手を止めてしまった氷河の顔を怪訝そうに見上げる。 「おじいさんの診療は そろそろ終わった頃だろう」 氷河は そう言って、診療所の建物の方に子供の背中を押した。 「なぜ……何しにきた」 瞬に尋ねる氷河の目が ちっとも嬉しそうじゃなかったから、俺は少し不安になった。 俺と紫龍はここで、氷河と瞬の修羅場を見せられることになるんじゃないかと。 瞬は、ちゃんと、氷河を俺たちの仲間に戻すことができるんだろうかと。 俺は、氷河と瞬の関係が、氷河と俺たちの関係が、なかったことにされる場面を見るために ここまで来たんじゃない。 「なぜ? 僕を自由にしてしまったのは氷河でしょう? だから僕は、僕のしたいことを僕のしたいようするために来たの。氷河をアテナの聖闘士に戻すため、僕たちの仲間に戻すため。氷河は、氷河が僕に誓わせたことを全部忘れていいって言ったそうだけど、僕にそう誓わせた時の気持ちまで忘れてしまったの」 瞬は、多分、一生懸命、冷静に話そうとしてた。 顔を合わせたらすぐに氷河は自分を抱きしめてくれるだろうって期待を裏切られて、氷河の別離の決意がそれほど固いものだってことを感じ取って、ほんとは失望と不安で泣いてしまいたかったんだろうけど、瞬は懸命に涙をこらえてた。 涙を零してしまわないために、瞬の口調は、氷河を責めるような響きを帯びてしまっていた。 瞬がほんとは泣いていることを、氷河は気付いていたと思う。 けど、氷河は、瞬の涙に流されずにいることができるくらい――この1年で分別と自制心を己が身に備えてしまっていたようだった。 「俺は――傲慢だったから、あんな誓いをおまえに強いることができていたんだ。俺はおまえを幸せにできると 思い上がっていたから……。だが、今の俺は、おまえに誓いを求めることはできない。今の俺には そんな権利はない。俺は――俺は馬鹿だったんだ。どうしようもなく馬鹿だった。おまえを好きだという気持ちがあれば どんなことでも許されると思い込んでいた。自分が何をしているのか、自分がしていることが おまえをどんな目に合わせるのか、あの頃の俺は少しも考えていなかった。……すまない」 氷河が、以前の奴からは想像できないほど真っ当で謙虚なことを言い、殊勝に瞬に頭を下げる。 瞬は、でも――瞬がほしいのは、氷河の反省でも謝罪でもなかったみたいだった。 瞬は、氷河の前で、幾度も首を横に振った。 「僕は 氷河に謝ってほしくなんかないの。氷河は 僕に謝る必要もないの。僕はただ――僕はただ、氷河に戻ってきてほしいだけなの。僕たちのところに……僕のところに……」 「瞬、それは――」 「そして、 「瞬……。俺だって、誓えるものなら誓いたい。そう誓って、おまえにすがりたい。だが、駄目だ。わかるだろう」 「わからないよ! 僕にわかるのは、僕が今 氷河を好きでいるってことだけだ!」 分別がついたのは結構なことだけど、その分、氷河は頑固で臆病になってしまっているようだった。 瞬が、氷河の頑なに焦れ身悶えするみたいに――らしくもなく、鋭い響きの声をあげる。 瞬は、そして、いつもの あの泣きそうな目で――でも、泣かずに――氷河に懇願した。 「氷河……。僕は氷河が好きだよ。大丈夫。僕は今、氷河を好きだから。たった今、氷河をとても好きだから――お願い、誓って」 これまで、瞬は、氷河に誓いや約束を求めたことはなかった。 ただの一度も。 氷河の強引に流されてばかりいて、俺は、瞬は本当に氷河を好きでいるんだろうかって、いつも疑っていた。 でも、今の瞬は まっすぐに氷河を見ていて、まっすぐに氷河を求めていて――瞬が氷河を好きなんだってことは、その手のことでは瞬より“清らか”な俺にも嫌でもわかった。 瞬は、氷河を好きでいる。 間違いない。 疑いを挟む余地もない。 瞬は今、氷河を好きだ。 瞬は、 多分――『おまえは自由だ』っていう氷河からの伝言を聞いた時、瞬は初めて本当に氷河を好きになったんだと思う。 だから、氷河を失った瞬の本当の悲しみや苦しみは、瞬が氷河に自由を与えられてしまった あの時に始まったんだ。 でも、それも、もう終わりだ。 氷河が、瞬の“お願い”に抵抗できるはずがない。 氷河は――氷河も、今は本当に瞬を好きなんだから。 瞬に誓いや約束を強いていた頃よりずっと、本当に、氷河は瞬を好きなんだから。 俺は そう思ったし、紫龍も そう思ってるようだった。 氷河が、奴のこれからを決定する瞬間。 その瞬間は、氷河と瞬だけじゃなく、アテナの聖闘士全員の運命を決定づける重要かつ深刻な時だったんだけど、俺と紫龍は、なんだかすごく安心して、俺たちの運命を決める二人の姿を見守っていられたんだ。 ほんとに好き合ってる二人って、こんなものなのかなー って、そんなことを呑気に考えながら。 俺たちの希望的観測は、もちろん、現実のものとなった。 |