それは『人類滅亡の時まで、あと2年』という、不安を煽るコピーを冠したテレビ番組だった。 いわゆる マヤ文明の2012年人類滅亡説を検証する番組である。 城戸邸ラウンジにある大型プロジェクターは、長いテーブルに着いた、メソアメリカ文明専攻の有名大学教授や、アメリカの古代史関係の著作を多数持つ研究者たちのしかつめらしい顔を映し出していた。 もっとも、彼等の意見をまとめるホスト役は、おそらく歴史やメソアメリカに関して深い造詣を持ち合わせているとは思えない お笑いタレントだったが。 「紫龍、こういうの信じてるの?」 紫龍は、その番組に真剣に見入っているようには見えなかった。 が、興味のないコンテンツは いつも積極的に遮断することを旨としている紫龍がリモコンに手を伸ばす気配を見せないところを見ると、彼がその番組に それなりの関心を抱いているのは事実のようである。 瞬には、それは意外なことに思われた。 紫龍が終末論を信じていることを意外に感じた――というより、それは紫龍が――アテナの聖闘士である紫龍が――関心を持ってはならないことなのではないかと、瞬は思ったのである。 人類の滅亡が あらかじめ運命づけられているという考えは、地上の平和と人類の存続のために戦うアテナの聖闘士の戦いを無意味と言っているも同然の主張なのだから。 「信じてはいないが、興味深いとは思うな。マヤに限らず、世界の終末や人類滅亡等の未来は、多くの宗教に必ず設定されている事柄だ。キリスト教の千年王国と最後の審判、仏教の末法思想、北欧神話のラグナロク――。人間はなぜそんな終末論や滅亡論を好むのか。興味深いじゃないか」 紫龍の返答を聞いて、瞬は更に意外の念を強くすることになったのである。 意外なことを語る龍座の聖闘士の前で、瞬は微かに首をかしげた。 「紫龍なら、『滅びの予言なんてものは、終末の時に救われるために神を信じよ という宗教的プロパガンダにすぎない』とでも言って切り捨てるのかと思ってた。ちょっと意外。ううん、すごく意外」 瞬の推察を聞いた紫龍が、僅かに皮肉の色を伴った笑みを その口許に浮かべる。 そうしてから、彼は ごく浅く頷いた。 「多分そんなところだろうと思ってはいるが……一概にそうと言い切ることのできないところもあるだろう。現実問題として、俺たちの太陽はいずれ白色矮星になるわけだし、その時には地球も冷えて死んでいくしかない。各宗教の終末論は、それを見越した地学的予言ということも考えられるからな」 「それは何十億年も先のことでしょう。その時、人間が地上に存在しているかどうかは疑わしいよ。今 現在だって地球は死にかけているようなものだもの。何十億年どころか百年後には、太陽より先に地球の方が滅びてしまっているかもしれない。どっちが先に滅びるかは――人間次第かな」 「いずれにしても、終末論を創造し唱え始めたのは人間だ。なぜ 世界中 至るところで人間たちがそんなことを考え喧伝したのかというのは面白い問題だろう」 「戦争みたいに、人智によって起こり、人智によって避けられるものでない分、気軽に語りやすかったんじゃないの? 人間は、自分に直接 被害が及ばないことや自分に責任が生じないことを、軽率に噂し合うのが好きな生き物みたいだから」 そう言いながら、瞬が、紫龍の掛けている三人掛けのソファの隣りに腰をおろす。 プロジェクターが映し出しているものに、瞬は全く興味がなかったのだが、この場合は そこに着席するのが最も自然だった。 「ほう」 紫龍が、彼の隣りに陣取った仲間の横顔を まじまじと見詰めてくる。 彼は、マヤ2012年人類滅亡説より興味深い話を聞いた――というような顔をしていた。 「おまえが人間というものを そんなふうに捉えているということの方が、俺にはよほど意外な事実だ」 「そうかな?」 問い返した瞬に、紫龍が顎を引く。 彼は、そして、瞬に――というより、独り言を口にするように、 「おまえは無条件で、人間は善なる存在と信じているものだと思っていた」 と、静かな声で呟いた。 「そういえば、アインシュタインの予言というのもあるぞ」 「アインシュタインが予言なんかしてたの」 「予言というより警句かな。『第三次世界大戦がどんな戦いになるのかは わからないが、第四次世界大戦は石と棍棒での戦いになるだろう』と、彼は言っている」 「第三次世界大戦が起こったら、現在の文明はすべて滅びるってことだね」 「そうだ。そして、すべてを失った人間は、また一からやり直しというわけだな」 「そうして起こる新しい文明も、戦いから始まるって考えざるを得ないところが 切ないね」 本当に切ない気持ちで呟くようにそう言ってから、瞬は寂しく笑った。 「戦いは平和より、人間の脳を活性化させるから――なのかな。戦いに勝ち、生き延びるためにはどうすればいいのかを、人間は必死になって考えて、そして文明を創り発展させるんだ」 「――」 今日は意外なことばかりが起こり、意外な言葉ばかりを聞く――。 そんなことを考えているような表情を、紫龍は瞬に向けてきた。 「おまえは、戦いを必要悪と考えているのか」 「そんなふうには思っていないよ。けど、ただ……人間は、すぐに成果を求める せっかちな生き物だとは思ってる」 「せっかち?」 それは、一人の個人に与えられる形容句で、人間全般に冠するような形容句ではない――と、紫龍は思っているようだった。 それはそうだろう。 『せっかちな人間』『性急な人間』というものは、彼の他に『のんびりした人間』や『悠長な人間』がいて初めて存在し得るものなのだから。 しかし、瞬は、自分の発言に疑念を抱くことができないまま、紫龍に頷いた。 「そう。自分一人が戦いに勝って生き延びる方法なんて、考えれば誰にでも すぐにわかることでしょう。目の前にいる敵を倒す方法か敵の攻撃を無効にする方法を考えればいい。逆に、平和を築いて、その平和を維持する方法は、考えても なかなか答えに行き着けない。それは、自分一人が戦いを放棄するだけではどうにもならないことだから。人間は、あんまり難しいことは考えたがらないんじゃないかな。卑近な問題は、考えて答えを出すのは簡単。でも、あまりに遠大な問題は、自分が考えてもどうにもならないって、最初から諦めちゃうの。そして、とりあえず自分一人が生き延びる方法を考える。平和の構築と維持なんていう遠大な問題は、自分以外の誰か奇特な人が解決してくれるだろうって考えて、すぐに成果を得られなさそうな問題の解決のためには 時間も労力も費やさないの」 「ああ、人間がせっかちというのは、おまえに比べて――という意味か。おまえはじっくり考えているわけだ。平和を実現するにはどうすればいいのかということを」 「考えてはいるけど……確かにそれは難しいことだとは思うよ。結局は、平和も、人間ひとりひとりの心の中で解決しなければならないことなんだろうとは思う。一人の人間が戦いを放棄しても平和は実現しないけど、戦いを放棄する一人の人間が70億人出現したら、それは実現する。みんなが一斉に戦いを嫌いになればいいんだよ」 「……」 戦争と平和の共存共栄を認めようとはしない。 それは潔癖な理想家のアンドロメダ座の聖闘士らしい考え方だと、紫龍は得心したようだった。 瞬は決して彼らしくないこと――意外なこと――を言い募っていたわけではなかったのだ――と。 紫龍が薄い微笑を浮かべ、しかし、すぐに消し去る。 「そのためには、すべての人間が戦いを嫌いになるほど大規模で悲惨な戦いが必要――ということになる。平和主義者が陥りやすい罠だ。気をつけろよ。第三次世界大戦が起こって、その結果 極少の人間しか生き延びることができなくても、生き残った人間たちは戦うことをやめないんだ。悲しいことに」 「うん。わかってる」 紫龍の忠告に、瞬は素直に首肯した。 紫龍は、瞬を そういう罠に陥りやすい人間と侮って そんなことを言っているのではなく――それは至極 自然な懸念なのだ。 平和論者と戦争論者、正直者と嘘つき、善良な人間と邪悪な人間――そんなふうに対極の位置にある者たちが 過激に走ったあげく、いつのまにか真逆の位置に立っているということは、ままあることだろう。 もちろん、瞬は、自分をそこまで過激な平和論者もしくは理想家だとは思っていなかったが。 二人がそんなことを話し合っているうちに、教養番組なのか娯楽番組なのかわからない人類滅亡論検証番組は終わってしまっていた。 紫龍がリモコンを手に取り、プロジェクターとテレビの電源を切ると、ラウンジに初冬の静けさが満ちてくる。 ほんの数週間前までは、ラウンジの大きな窓の向こうには、落葉が舞い散り 折り重なって作り出す乾いた音のある光景が広がっていたのだが、今 そこにあるのは、死のような静寂。 まだ木枯らしが吹いていた方が 地球が生きていることを感じられるのではないかと思えるような静かな冬の午後の姿だった。 「冬が来るね」 そんな光景を視界に映しながら、瞬が抑揚のない声で呟いた途端、ラウンジのドアが開き、白鳥座の聖闘士が室内に入ってくる。 「派手な冬だ」 紫龍がそう告げたのは、氷河の髪の色や瞳の色が、白には映えるが、白ではないものだから――だったろう。 “派手な冬”は、三人掛けのソファに並んで腰掛けている瞬と紫龍の姿を認めると、怪訝そうに眉をひそめた。 テレビがついていないと、それは奇妙なポジションではあったのだ。 何か言いたげに口を開きかけた氷河は、だが、言おうとした言葉を あえて呑み込んだ――多分。 代わりに彼は、木で鼻をくくったような声音で、 「顔色が悪いぞ」 と、短く瞬に告げてきた。 部屋に入ってきた時には特に機嫌が悪いようでもなかったのに、氷河の態度は今は ぶっきらぼうそのもの。 これまで自分たちが交わしていた平和論戦争論がラウンジの中に悪い空気を作り出してしまっていたのだろうかと、瞬はありえないことを考えた。 そんなことはありえないのだと自身を説得しながら、瞬は、形だけの笑みを その口許に刻んだのである。 「頬を紅潮させて語らうような話をしてなかったから」 「何の話をしていたんだ」 「戦争と平和と――人類の粛清」 「……」 氷河は、それを詰まらないことだと思ったのか、深刻かつ重大な問題だと思ったのか――。 それは瞬にはわからなかったが、いずれにしても 氷河は、瞬のその言葉を聞いて、どういうわけか眼差しに漂わせていた険のようなものを あっさり消し去った。 まるで彼の仲間たちが彼のいないところで楽しいことを話しているのでないのなら、それでいいというかのように。 「それは確かに頬を紅潮させて語らうようなことではないだろうが、しかし、そこまで頬から血の気を引かせて話すような話題か?」 突き放すようだった声の調子を 気遣わしげなそれに変えて、氷河が瞬に尋ねてくる。 氷河の機嫌が しばしば秋の空のように急激に変化することには慣れていたのだが、慣れていることと理解できているということは全く別のものである。 氷河の機嫌を急に良くしたり悪くしたりする明確な原因は はたして存在するのか、それとも氷河は 明確な理由もなく気紛れで その機嫌を激変させているのだろうか。 そんなことを頭のどこかで考えながら、瞬は、今は周辺に優しい空気を漂わせている氷河に問い返した。 「僕、そんなに顔色 悪い?」 「悪い。真っ青――いや、真っ白だ。おまけに能面でもつけているように硬く強張っている」 「え……」 瞬は、ごく自然に――いつも通りにしているつもりだった。 地上は完全に平和ではないが、ハーデスの企みという具体的かつ切迫した脅威は、アテナとアテナの聖闘士たちの力によって取り除かれた。 言ってみれば小康状態を保っている現在の世界に ふさわしいレベルの緊張感と安堵の気持ちをもって、瞬は ここにいる――つもりでいた。 氷河にそこまで言われるほど心の底にある不安を表に出しているつもりはなかった――自分は それを巧みに隠せていると、瞬は思っていたのである。 気分屋に見えるのに、妙に鋭い氷河の目を避けるために、瞬は掛けていたソファから立ち上がった。 「じゃあ、ジョギングでもして、血の気を取り戻してくるよ」 そう告げて、瞬はそのままラウンジを出たのである。 労わるように優しいのに、睨むように険しい氷河の視線を背中に感じながら。 「確かに戦争の話はしていたが、俺は人類の粛清の話などしていた覚えはないぞ」 紫龍が、おそらくは氷河に向かって低く告げた言葉が、廊下に出た瞬の耳に届けられ、その段になって初めて、瞬は自分が口をすべらせてしまったことに気付いたのだった。 |