希望をしか知らない子供のそれのように 健やかな眠り。 そんな眠りに就くのは久し振りのことだったので、瞬の心身は、その健全な眠りを思う存分に貪り尽くそうとしていたはずだった。 だというのに、まだ深夜といっていい時刻のうちに瞬が覚醒してしまったのは、もしかしたら 瞬の心身ではなく、アテナの聖闘士である瞬の小宇宙が、仲間の危機を瞬に知らせてきたからだったのかもしれない。 仲間の小宇宙ではない小宇宙――が、瞬の意識を微かに刺激してきた。 それはひどく微弱な小宇宙で、にもかかわらず、奇妙な強さを伴った小宇宙だった。 どれほど小さくても決して消えない希望のように。 だが、それは、完全に消滅することもまた決してない絶望の種のように、不気味な重力を持っていた。 その冷たく重い力が洩れてくる先は、瞬の隣りにある氷河の部屋。 そう感じた途端に、瞬は、感覚だけでなく意識と身体の両方をはっきりと目覚めさせた。 氷河の部屋に、 それは、あってはならないことだった。 温かい希望を その胸に育んでいる氷河を、今は失意をしか持っていないハーデスが快く思うはずがない。 ハーデスは氷河に危害を加えようとしている。 もしかしたら、氷河を消し去ろうとしている。 それは、不吉なほど迷いのない確信だった。 希望と絶望のせめぎ合いに急きたてられるように、瞬は氷河の部屋に飛び込んでいったのである。 「やめてっ! 何をしてるのっ!」 氷河は彼のベッドで眠っていた。 一見したところ、室内に氷河以外の何者かの姿はない。 だが、瞬には はっきりと見てとれたのである。 これまで気配を感じさせることしかなかったハーデスの、光のない夜のように黒い思い。 ハーデスは、その思いの力だけで、氷河の命を消してしまおうとしていた。 「やめて、やめて、やめてっ。あなたは何をしているのっ!」 手では取り除くことのできないハーデスの暗い心を、瞬は自らの小宇宙で氷河の周囲から追い払おうとした。 これまで言葉でやり合ったことしかなかったせいで実感することもなかったのだが、アテナに封印されたことで、ハーデスが その力の大部分を失ってしまったのは事実らしい。 であればこそ彼は、氷河が眠りに就いている時を選んで この暴挙に及んだのだろう。 おそらく氷河から生気を奪うことで彼の命を絶とうとしていたハーデスの闇は、瞬の小宇宙の力によって驚くほどあっけなく、氷河の上から取り除かれた。 2、3歳の子供でも もう少し抵抗してみせるだろうと思わずにいられないほどハーデスは微力――ほとんど無力だった。 この神が、一度は地上に生きる すべての人間を滅ぼし去ろうとしていたのだと思うと、瞬は、現在のハーデスの無力に憐憫を覚えさえしたのである。 ハーデスのために――瞬は泣いてしまっていたかもしれなかった。 「この者は邪魔だ。そなたにいらぬものを与えて」 ハーデスが、そんなことを言いさえしなければ。 「いらぬものというのは、希望のこと?」 「瞬……いったい何が――」 「氷河、大丈夫っ !? 」 ハーデスの作りだす闇の作用が働かなくなったことで、氷河は意識を取り戻したようだった。 ベッドの上に上体を起こした氷河の枕許に瞬が駆け寄ると、彼は、大丈夫だということを示すように、微かな笑みを その目許に浮かべた。 それから、訝るように眉をひそめる。 「何が起こったんだ。敵か? しかし、それにしては――」 『それにしては手応えのない』『大した脅威も感じない』――。 氷河は、そんなことを言おうとしたのだろう。 ハーデスのために、瞬は、氷河が言おうとした言葉を遮った。 「ハーデスなの」 「ハーデス?」 氷河の中で、冥府の王は既に“かつてアテナの聖闘士の敵だったもの”程度の存在になってしまっていたらしい。 彼は、思いがけない者の名を聞いた――というような顔になった。 「 「僕っていうより、ハーデスは この地上に未練があるんだと思う」 彼が成し遂げようとしていた人類の粛清。 その行為を正しいと信じる気持ち。 自分にこそ正義があったという確信が、ハーデスを そう、瞬は考えていた。 だが、氷河は、そんな瞬の前で首を振ったのである。 縦にではなく、横に。 「アテナに封印されて、今の自分にそんな力がないことは、奴も わかっているだろう。奴が執着しているのは、有象無象がへばりついている この地上なんかではなく、おまえだ。おそらく」 「僕? どうして」 「思い通りにしたいのに、そうできない相手というのは、気にかかって忘れられないものなんだ」 「え……?」 氷河はいったい何を言っているのか。 仮にも神であるハーデスが―― 一度は この地上を死の世界にするという壮大な企みを抱き、アテナをさえ その足元に跪かせたことのある冥府の王が――、言ってみれば駒の一つでしかない ちっぽけな人間のために、敗残の姿をさらすという屈辱に あえて耐えたというのか――。 瞬には、それは、到底 信じ難いことだった。 「ハーデス?」 そうなの? と尋ねたシュンに、ハーデスから返ってきた答えは、短い沈黙。 そして、ハーデスの沈黙は、いつも肯定を意味していた。 「余の野望は砕かれた。しかし、余は、人間と違って死ぬこともできぬ。せめて、そなたが――」 「だから、僕をあなたの絶望に付き合わせようとしたの」 「それは違う。……いや、そうだ」 ハーデスが初めて、沈黙ではなく言葉で肯定の意を知らせてくる。 瞬は混乱した。 沈黙でないハーデスの肯定は是認か否認か。 ハーデスは、彼の意に従わず彼の野望を打ち砕いたアンドロメダ座の聖闘士を 絶望の淵に追い込むために ここにいるのか。 それとも彼には別の目的――ここにいたい他の理由があるのか。 ハーデスの“声”は、氷河にも知覚できたらしい。 氷河は、姿の見えぬ神のために、まるで同情しているような表情と声を作った。 「瞬。こいつは、おまえが好きなんだ」 「好き? な……何を言っているの。神がそんな気持ちを、人間なんかに抱くはずがないでしょう。 もしそうだったとしても――じゃあ、ハーデスは、好きな相手に絶望を植えつけようとしていたの」 「そういう“好き”もある。察してやれ」 「察してやれって……察して どうしろっていうの。ハーデスに同情して、一緒に絶望しながら生きていけとでもいうの!」 氷河が――よりにもよって氷河が、そんなことを言うとは。 神が“たかが人間”に執着していると言われることより、瞬には それは信じ難い発言だった。 氷河が、ゆっくりと首を左右に振る。 「察して、そいつと俺たちの、どちらと共に生きていきたいかを選べと言っているんだ」 「生きるなら――僕は氷河を選ぶ」 それは迷う必要もないことである。 一瞬の躊躇もなく瞬が選んだ答えを聞いた氷河は、選ばれた自分を喜ぶことをせず、選ばれなかった神のために、その瞳に悲痛の色を浮かべた。 神に対する氷河の哀れみは、ハーデスにとっては この上ない侮辱だったのだろう。 耐え難い侮辱に、だからハーデスは、彼らしくなく取り乱したのだ。おそらく。 「瞬。その者は、ただの人間だ。浅ましい欲望を持った醜い人間にすぎぬ。その者は、そなたの望むような美しく清浄なものを、そなたに与えることはできぬ。その者の愛は、地上的で俗世的で 醜悪で――」 ハーデスがもし、理想の世界をアンドロメダ座の聖闘士に与えたいのだ とだけ言っていたなら、瞬はハーデスのその言葉を悲しいものと受け取っていたかもしれない。 彼の悲しみを、共に悲しむこともできていたかもしれない。 彼が、氷河を貶める言葉を口にしたから、瞬はそうすることができなくなってしまったのだ。 「ハーデス。あなたは、僕も ただの人間にすぎないってことを忘れている。僕は、そんな、美しく清浄なものを欲しいなんて思ったことは一度もない。ただ僕は……人間が生きていくには希望が必要だって思ってるの。希望があればいいの。あなたが作ろうとしている世界に希望はある? 希望のない美しい世界なんて、僕は望んでない。そんなのいらない」 ハーデスが氷河を貶めるようなことを言いさえしなかったなら、瞬は そんなふうに断固とした態度で彼を拒絶することはなかっただろう。 自分とハーデスは同じ何かを求めているという気持ちが、瞬の中には いつもあったのだから。 だから、瞬は、ハーデスと再会した時からずっと迷い続けていたのだから。 「では、余とそなたは永遠に相容れぬ二人だということか」 ハーデスが、抑揚のない声で瞬に問いかけてくる。 「そうだね」 瞬は、彼に頷くしかなかった。 「そなたは真実の平和が欲しかったのではないのか。完全な平和など、人間には実現し得ぬものだぞ。それは、神の力によってしか創り出せないものだ」 「かもしれない。実現しないかもしれないけど、でも、それが僕の希望なの。僕が欲しい平和は、僕以外の人間が誰もいない世界で実現する平和じゃないの」 そこに仲間がいなかったなら、同胞である多くの人間たちがいなかったなら、いったい自分は誰と平和の実現を喜べばいいのか。 瞬は、そんな空虚な平和など欲しくはなかった。 「これまで、あなたの言葉に耳を傾けていた僕が悪かったの。僕が間違っていた。ごめんなさい。僕は、よくない希望をあなたに抱かせてしまったかもしれない」 「よくない希望?」 人間ごときに謝罪されてしまったことより、それを“よくない希望”と断じられてしまったことの方が、ハーデスには不快で不本意なことだったらしい。 「余には甘美な希望だった」 瞬に伝えるためにではなく、自分の内で確認するように、ハーデスはそう言った。 言ってから、自嘲の気味のある笑いを瞬の許に運んでくる。 「なるほど。人間が希望さえあれば生きて存在することができるように、神である余も、希望さえあれば、永遠に消えてしまえぬことに耐えられるかもしれぬ。――瞬」 ハーデスが瞬の名を呼ぶ。 氷河によってもたらされた希望の灯が胸の内にともっている今の瞬には、ハーデスの存在は脅威ではなかった。 彼は ただそこに在って、瞬に対する どんな影響力も有していないものだった。 そのハーデスが、彼が手に入れた彼の希望を瞬に語ってくる。 「余は諦めぬ。決して実現しない平和に、そなたの心が疲れ果てた時、余は必ず 再び そなたと会う」 『永遠に、そんな時はこない』 瞬がハーデスに そう断言しなかったのは、悲しい神であるハーデスのため。 彼の世界、彼の それ以前に――心を有する存在から希望を奪うことはできないのだということが わかっていたからだったかもしれない。 それは、誰にも奪えないものなのだ。 それでも、別れは告げなければならないから――瞬はただ 首を横に振って、冥府の王に静かな別れの言葉を伝えた。 「さようなら、ハーデス。僕があなたに与えられる別れの言葉は『さようなら』だよ。『また会いましょう』じゃない」 「さようなら? なんだ、それは」 瞬が、それを特別な言葉のように口にする訳が、ハーデスにはわからなかったらしい。 瞬は、寂しく微笑した。 「お別れの言葉だよ。日本ではそう言うの。『 潔く美しい別れの言葉。 もっと早く、こんなふうに別れるべきだったのに――と、瞬は、その言葉を告げる時が今になってしまったことを悔いていた。 「そのような言葉、余は知らぬ。余は言わぬ」 二人が別れることは、避けることのできない運命なのだと告げる瞬の言葉を、ハーデスは受け入れなかった。 彼には彼の希望があるのだから、それは 考えようによっては ごく自然なこと。それもまた運命。 瞬は、だから、『必ず再び会う』ことを信じている悲しく美しい神を 無言で見送ったのである。 『さようなら』とは言わずに、冥府の王は静かに消えていった。 |