そんなある日のこと。 農家の庭をこっそり抜け出して散歩に出た氷河は、村の外れにある小さな林の中で、人間の子供たちが大騒ぎをしているのに出食わしました。 「やめて、やめて。そんなことしないで」 何人もの人間の男の子たちが わいわいはやしたてている声の中に、瞬の細い涙声を聞き分けることができたのは、瞬の声が女の子のそれのように高いトーンの声だったから。 例によって みそっかすの瞬がいじめられているのだろうと思った氷河は、瞬の声を聞かなかったことにして、そのまま素通りしようとしたのです。 氷河の背丈はスミレの花より低いので、瞬は草むらの中にいる氷河に気付くことはないでしょうし、気付いたとしても、まさかヒヨコに助けを求めるようなことはしないでしょう。 どうしたって その騒ぎに関わることのできない善意の第三者は さっさとこの場を離れた方が 面倒が大きくならなくて合理的というものですからね。 合理的な氷河は、合理的に そう考えて、生い茂っているスズメノカタビラの草の間で 回れ右をしようとしました。 しようとしたのですが。 「ヒバリの卵を盗るなんて、だめだよ。親鳥が巣に帰ってきて、卵がなくなっているのを見たら、悲しむよ!」 「鳥が悲しんだりなんかするもんか。また、来年 産めばいいんだ」 「だめだよ。きっと悲しむよ。そんなことしないで」 『鳥が悲しんだりなんかするもんか』 瞬をいじめている いじめっ子の その暴言が、氷河の気に障ったのです。 鳥だって悲しむことはありますとも。 氷河のいる農家の鶏舎では、卵を奪われるために飼われているニワトリがたくさんいましたが、彼女たちは、産むそばから温める間もなく卵を奪われるので、毎日 気が狂ったように泣き叫んでいます。 毎日産むのに、そのたびに嘆き悲しんで、悲しみすぎて、理性のある鳥は あの鶏舎に一羽もいません。 そんなことも知らずに、『鳥が悲しんだりなんかするもんか』だなんて。 無知で冷酷な人間の子供に むっとして、氷河は、騒ぎの起こっている方へ 草むらの中を駆けていったのです。 そこには、背の高いブナの木が1本あって、瞬がその木の根元で上の方を見上げ、泣いていました。 いじめっ子はブナの木のいちばん下の太い枝の上に立って、そんな瞬を見おろしています。 それから、ブナの木と瞬を取り囲んでいる5、6人の男の子たち。 「止めれるもんなら止めてみろ。木に登ることもできないくせに」 いかにも きかん気ないじめっ子は、木の上でそう言い放って、泣き虫の瞬を馬鹿にしていました。 「ぼ……僕……」 「俺より高いところに登れたら、卵を盗るのはやめてやるぞ?」 「僕は……」 いじめっ子は、完全に瞬を見くびっていました。 けれど、いじめっ子の暴言に怒髪天を突いている氷河でさえ、彼の言動は致し方のないものと思わないわけにはいかなかったのです。 そして、瞬は いつもの通りに諦めるだろうと、氷河は思いました。 木登りなんて危ないことが、臆病な瞬にできるはずがありませんでしたからね。 なのに。 他の子供たちが はやしたてる中、瞬は、ブナの木を登り始めたのです。 ブナの木が瞬に何かするわけもないのに、いかにも 恐々といった様子で、瞬はブナの木に取りつき、何度も幹に足をすべらせながら、それでも瞬はブナの木に登ろうとし始めたのです。 草むらの中から はらはらしながら瞬の木登りを見ていた氷河は、瞬が高いブナの木の最初の横枝に取りついた時には、ほっと安堵しました。 そこから上はたくさんの枝が伸びていましたから、あとは枝伝いに上に上がっていけばいいだけ。 瞬は小柄で痩せっぽちなので、重くて大柄ないじめっ子より上に行くのは可能でしょう。 恐がって足をすくませたり、枝を掴み損ねたりさえしなければ。 そう考えて、氷河がほっと一息ついた時でした。 掴もうとした枝を掴み損ねた瞬が、自分の身長の倍の高さのあるところから、地面に落ちてしまったのは。 瞬は、恐さのせいで泣きながら木を登っていたので、涙で目がぼやけ、枝の位置を見誤ってしまったのでしょう。 幸い、ブナの木の下は やわらかい草と土しかありませんでしたから、瞬は打ち身だけで済んだようでした。 けれど、だから平気ということはないでしょう。 とても痛いでしょうし、瞬は、以前よりもっと 木に登るのが恐くなったはず。 今度こそ瞬は諦めるだろうと、氷河は思いました。 そこにいる子供たちも、木の上にいるいじめっ子だって、そう思ったに違いありません。 けれど、瞬は また登ろうとしたのです 大きさの合っていない古着を土だらけにして、涙で顔をくしゃくしゃにして、頬も手も傷だらけにして、それでも瞬は もう一度ブナの木に登り始めたのです。 「おい、やめてやれよ。瞬の言う通りだ。卵がなくなってたら、親が泣く」 木の下にいた男の子の一人が、ぼろぼろでぐしゃぐしゃの瞬を見て、そう言いました。 「うん。やめてやれ」 「瞬が死んじゃうぞ。卵を盗られたら、親鳥だってかわいそうだ」 すぐに、他の子供たちも そう言い出しました。 そこにいたのは、親のない子供たちだけでした。 村の教会の庭にある小さな小屋に、お情けで住まわせてもらっている孤児たちだったのです。 彼等には、もしかしたら、『鳥にさえ親がいるのに』と僻んで、ヒバリの親子を妬む権利があったかもしれません。 けれど彼等は そうしませんでした。 それまで木の上で瞬を見おろしていたいじめっ子も、それは同じ。 彼は、彼が立っていた枝の上から するすると地面に下りてくると、ぐしゃぐしゃの顔で泣きながらブナの木の幹にしがみつき抱きついているような瞬の腕を、ブナの幹から外してやりました。 そして、 「瞬、意地悪して ごめんな。痛かったか」 と、瞬に謝ってきたのです。 瞬は、もしかしたら、恐くて痛くて何も考えられなくなって、ただどうしてもヒバリの親子を一緒にいさせてやりたいの一心で、ブナの木に取りついていただけだったのかもしれません。 自分がいじめっ子に何を言われたのか、まるで わかっていないように ぽかんとしていました。 やがて、ヒバリの卵の無事が守られたことを理解したらしく、ぐしゃぐしゃの顔をもっとくしゃくしゃにして、 「ううん。ありがとう」 と言いました。 いじめっ子も、本当は軽い気持ちで始めたことが大騒ぎになってしまったことに びっくりしていたのかもしれませんね。 瞬のその言葉を聞くと、彼はほっとしたような顔になりました。 ともかく、その時、氷河は、瞬を大層見直したのです。 氷河も、親のない天涯孤独の身でしたから。 あの農家には成鳥もいましたが、氷河の親はいなかったのです。 自分が“親のない かわいそうなヒヨコ”だということに反発し、開き直りながら、氷河は、それでも心のどこかで 子供を守ってくれる親を求め、憧れていたのです。 ヒバリの親子を思う瞬の心は、氷河の胸に切なく響きました。 そのことがあってから、瞬の手の平に乗せられることや、瞬に身体を撫でられることが、氷河は 以前より嫌ではなくなりました。 瞬は、ただ優しいだけではなく、優しく強い子だったのです。 そんな瞬が自分に特別な親しみを示してくれるということは、氷河にとっては とても誇らしいことでしたから。 |