俺の名は星矢。
女神アテナと地上の平和を守るために戦う天馬座の聖闘士。
俺が記憶を失って こんなところにいるのは、多分、元旦の朝に いつものモーニングコーヒーの代わりに がぶ飲みした お屠蘇のせいだった。

俺が呑んだ屠蘇・・は、結構アルコール分がきつかったんだ。
それで、なんかいい気分になった俺は、客間に飾られている でかい鏡餅を見て、このかちんこちんの鏡餅と永久氷壁はどっちが硬いんだろうってことが、急に気になって仕方がなくなった。
瞬に訊いても、笑って首をかしげるだけだし、紫龍は『なぜ そんなことを気にするんだ』って言って呆れ顔を見せるだけだったし、氷河に至っては『常識で考えろ』とか言って、散々 俺を馬鹿にしてくれた。
常識で考えて わからないから訊いたのに、そんな不親切な答えってあるか?
俺は、意地でも その答えを手に入れてやるって気になって――さすがは酔っ払いと言うべきか、パスポートとカードをひっつかんで城戸邸を飛び出し、そのままの勢いで永久氷壁のある場所に向かったんだ。

その永久氷壁の前で、俺は自分が とんでもない失敗を犯したことに気付いた。
つまり、永久氷壁と硬さを比べる対象であるところの鏡餅が、その場にないことに。
城戸邸を飛び出して半日以上が経っていたのに、その頃になっても、俺はまだ 屠蘇の酔いが抜けていなかったらしい。
肝心の鏡餅を持ってくるのを忘れた自分の間抜けさ加減に腹が立って、いっそ この頭を豆腐の角にぶつけてやりたいと思って、でも、そこには鏡餅だけでなく豆腐もなかったからさ。
代わりに永久氷壁に自分の頭をぶつけてみたんだ。
軽くだぞ。
冗談で、ごく軽く。
だっていうのに、第四紀洪積世から溶けることがなかったはずの永久氷壁が、たったそれだけのことで簡単に崩れて、砕けた氷の塊りが俺の頭を直撃した。

俺は、詐欺だと思ったな。
百万年以上の間 溶けることのなかった永久氷壁がこんなにヤワなものだったなんて、これが詐欺でなくて何だっていうんだ。
まあ、いくらヤワっていっても豆腐の角よりは硬い氷の塊りの直撃を頭に受けて、俺は見事に気を失った。
そして、次に目覚めた時には、綺麗さっぱりすべてを忘れた俺ができあがっていたというわけだ。

「おまえのパスポートとカードが永久氷壁の脇に落ちていたぞ。まさかと思っていたのに、おまえは本気で鏡餅と永久氷壁の硬さを比べるために、こんなところまでやってきたのか」
呆れた顔で訊いてくる氷河に、俺は黙秘権を行使した。
『その通りだ』と正直に答えたら、『常識がない』とか何とか言って、氷河は更に俺を馬鹿にするだけだってことがわかってたからな。
もっとも氷河は、俺が黙秘権を行使しようが、正直に事実を認めようが、そんなことには関係なく、最初から俺を馬鹿にする気 満々でいたようだった。

「言っておくが、永久氷壁は硬いんじゃない。溶けないんだ。1年を通して氷点下の気温を維持する低温地域にあるから溶けない。それだけのことだ。当然、冬場にも滅多に気温が氷点下にならない東京では、それは ただの水になる。かといって、鏡餅をこの場に持ってきたら、鏡餅の中にある少ない水分が凍って、餅は本来の硬さではなくなるだろう。両者の硬度を同条件下で比較することは不可能だ。それぞれの場所で、鏡餅と永久氷壁がどれだけの重力に耐えることができるかどうか強度を測ることはできるだろうが、餅も氷も力を加える角度や場所で、その値は全く違ってくる。ダイヤモンドが劈開方向に沿って力を加えれば簡単に割れるのと同じだ。つまり、おまえの疑念は全く無意味だし、そもそも その答えを得ることができたとしても、それで何らかの益を得る者は誰もいない。瞬に心配をかけるだけだ。わかったか、この阿呆!」

『その答えがわかったら、少なくとも俺の気が済むっていう益があるじゃないか』と、いつもの俺なら言い返していただろうけど、俺はなにしろ 失っていた記憶を取り戻したばっかりで、まだ少し記憶が錯綜していて――そこまで頭がまわらなかった。
それに、俺が氷河に何か言う前に、俺を阿呆呼ばわりする氷河を、瞬がたしなめるみたいに睨んでくれたから、氷河はすぐに大人しくなり、俺を罵倒するのをやめてしまったんだ。
それでも不満そうに口を への字に引き結んだ氷河に代わって、本物の女神が俺に訊いてくる。

「記憶を失っていたそうだけど、思い出したの?」
「思い出した。沙織さんの小宇宙と、氷河の憎まれ口で」
「それはよかったこと。でも、パスポートとカードはしばらく没収よ。思いつきで突飛な行動に出るのは、以後 慎むように」
「へ……」
正直 俺は、氷河の罵倒なんかより、沙織さんが落とすはずの雷の方を恐れていたんだが、沙織さんは俺のパスポートとキャッシュカードの没収を宣言しただけで、俺に嫌味の一つも言ってこなかった。
『罰として、うさぎ跳びでシベリア10周!』くらいのことは言われるものと覚悟していた俺は、沙織さんが あんまり穏やかなんで、思いっきり気が抜けてしまったんだ。

そんな俺に、瞬が、沙織さんが激怒していない訳を小声で教えてくれた。
「セイウチ猟の小屋にいたおじさんたちがね、星矢は何もかも すべてを忘れていたのに、女神のことだけは憶えていた――って、沙織さんに教えてくれたの。それで、沙織さん、機嫌がいいんだよ。やっぱり嬉しいでしょう、そういうのって」
「うわ……」

沙織さんが怒っていない訳――むしろ、機嫌がいいらしい訳――を知らされて、俺は背筋を凍りつかせたんだ。
俺の全身は、ヤワな永久氷壁の百倍くらい冷たく硬く凍りついた。
本当のことは絶対に言えないと思った。
俺が毎晩夢に見て、俺を救ってくれる女神だと信じていた人が瞬だったなんて、俺の女神が瞬の顔をしてたなんて、絶対、沙織さんには言えない。
俺の憶えていた女神の正体を沙織さんが知ったら、今 機嫌がいい分、その反動は激烈なものになるだろう。
凍っていた俺の脳みそを一瞬で溶かすほどの力を持った本物の女神は、その怒りの熱量でサントリーニ火山を噴火させることくらい、簡単にできてしまうに決まってるんだ。

「本当に、おまえは救い難い馬鹿だ。瞬がどれだけ心配したか、おまえは わかっているのか! 正月から こんな騒ぎを起こして、本当におまえは どうしようもない大馬鹿者だ!」
瞬の心配を盾にして、瞬のためを装いながら、その実 自分の鬱憤を晴らすために 俺を怒鳴りつけてくる この男にも 絶対に言えない。
俺の女神が瞬だったなんて。
それは、沙織さんより、他の誰より、氷河にこそ知られちゃならない事実だ。

記憶を失って心細い日々を過ごしていたはずの仲間を気遣いもせず、氷河が俺を大馬鹿者呼ばわりするのは、どう考えても、瞬が俺に抱きついたのが気に入らなかったからだ。
つまり、恋の恨み、男の嫉妬のせいだ。
氷河が もし事実を知ることになったりしたら、この男は、燃え上がる嫉妬の炎で、冥王ハーデスにも成し遂げられなかった世界冷凍計画を一瞬で成し遂げてしまいかねない。
氷河の立場を考えれば、苛立つ気持ちはわからないでもないが、瞬は俺の仲間として、仲間である俺に抱きついてきただけなんだから、そんなことで地上と人類を滅亡させるわけにはいかないだろう。

俺が瞬を女神だと思っていたって、瞬は俺を仲間としてしか見ていないんだし、氷河が焼きもちを焼くことなんて何もないんだ。
だいたい、俺の記憶の混乱は氷河のせいでもある。
記憶を失っていた時の俺が 瞬を女神だと勘違いしてたのは、俺の頭の中で アテナと氷河のマーマと瞬がごっちゃになっていたせいだ。多分。
ただそれだけのことだったんだ。
――と、俺は懸命に、氷河より自分に言いきかせた。

「もう、こんな無茶はしないで。星矢には はらはらされられっぱなしで、僕、星矢が何か騒ぎを起こすたび、生きた心地がしないんだから」
俺が必死に そんなことをしてるなんて知りもしない瞬が――知られても困るんだが――俺が無事に記憶を取り戻したことに安堵したのか、改めて俺の無謀に言及してくる。
ま、瞬は 沙織さんや氷河とは違って平和主義者だから、瞬にどんなに責められたって、俺はちっとも恐くないんだけどな。
俺は、瞬に怒られるのが好きなくらいだ。

「氷河も似たようなもんじゃないか。いや、氷河は時々、俺より無茶なことをしでかすぞ」
「氷河は、星矢に比べれば、まだ限度を知ってるよ。――と、思うけど……」
自分の判断に確信を持てなかったのか、瞬が その視線を氷河の方に巡らす。
瞬の前では いい子でいたがる氷河は、もちろん瞬の望む通りの答えを質問者に返した。
「俺は無茶はしないぞ。おまえに心配をかけたくはないから」
「ならいいけど……」

それが即答だったから、かえって瞬は氷河の答えを信用することができなかったらしい。
瞬は、そういう顔をした。
瞬の不幸なところは、俺や氷河みたいな暴虎馮河な仲間や恋人を持ってしまったことじゃなく、相手が親しい人間だからって理由で無条件で人を信用できるような無分別に恵まれていないところだと思う。
まあ、そういうタイプの瞬や紫龍が近くにいてくれるから、俺や氷河は安心して無茶や無謀ができているって側面もあるんだけどな。
アテナの聖闘士なる集団は、穏健慎重派と無茶無謀冒険派の両方が揃ってることで、上手く運営されている非営利団体なんだ。

その無茶無謀冒険派の片割れが、らしくもなく静かな視線を白い海の沖の方に向ける。
氷河が何を考えているのかを察して、俺は奴に言ってやった。
「マーマ、いるぜ」
言外に、『会っていくか?』。
今 この状況で『じゃあ、ちょっくら潜ってくる』とは言いにくかったんだろうが、氷河はゆっくりと首を横に振った。
「いや。瞬に心配をかけるから」
「氷河、僕はそれくらいのことでは心配しないよ」
氷河は会話の流れで不本意ながら そう答えないわけにはいかなかったのだと思ったのか、瞬が気遣わしげな目をして 氷河の顔を覗き込む。
だが、氷河は瞬に遠慮したわけではなく、本当に――本心から、亡き母に会う必要を感じてはいなかったんだろう。もう。

「彼女はここで安らかに眠っている。それでいい」
無茶無謀冒険派の片割れのくせに 人生を悟ったみたいな顔をして、氷河が その視線を 白く凍った海から瞬の上に視線を戻す。
そんな氷河を切なげな目で見詰め返し、瞬は氷河の手を握りしめた。
そんなふうに甘やしてもらえるのがわかってるから、氷河は喜んで分別ある振りをしたがるんだ。
本当に分別が備わってるわけじゃないくせに。






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