瞬に戻ったシュンの肩にまわされていた氷河の腕と顔が、ぎくりと強張る。
それでなくても あまり一般的とは言い難い自分の恋を 可能な限り すみやかに成立させ、また維持継続するために、氷河は、瞬を口説く時も、無事に口説き落として理無わりない仲になってからも、二人の関係を決して瞬の兄には知られぬよう努めてきた。
それが、ハーデスのくだらない野望のせいで、盛大に一輝にばれてしまった――のだ。

悪気でいっぱいのアテナに いいように翻弄され、散々いたぶられ、あげくに数百年に一度のチャンスを放棄せねばならなくなったハーデスを、実は氷河は少しばかり――ほんの少しだけ――気の毒に思っていた。
が、瞬の兄の攻撃的小宇宙に触れた途端、氷河は冥府の王への憐憫の情を綺麗さっぱり捨て去ることになったのである。
ハーデスが あんな詰まらない野望を抱きさえしなければ、氷河の恋に障害が生じることはなかったのだ。
とはいえ、氷河は、決して 一輝の憎悪や彼の持つ力を恐れていたわけではない。
彼はただ、弟の恋を知ったブラコンの兄が その恋に横槍を入れてくること、それによって瞬が心を痛めること、そして、二人の恋に瞬が萎縮すること――を懸念しているだけだった。

「よくも……俺の目を盗んで、いつのまに……。この こそ泥め! たった今、貴様の助平心が収まっている その身体をぶち壊してくれるわ!」
人類の粛清と滅亡を企む冥王ハーデスの前では 本気で小宇宙を燃やす気配も見せずにいた瞬の兄が、ハーデスの脅威が消え去った今になって、その小宇宙を究極にまで燃やし始めていた。
鳳凰座の聖闘士は もしかしたら、地上の平和と安寧のためではなく、彼の弟のためだけに戦っている聖闘士なのではないか――。
表立って声高に言う者はいなかったが、一輝の戦い振りを見知っている誰もが抱いていた、その疑惑。
今 氷河に向けられている一輝の怒りの小宇宙の激しさは、世間に流布していた その疑惑が事実だったことを、如実に物語るものだった。

「アテナ……止めないんですか」
「沙織さん、止めた方がいいんじゃないか。一輝の奴は、本気で氷河を殺しかねないぞ。なにしろ、一輝は、地上で最も清らかな最愛の弟を ハーデスのそれより悪質なやり方で汚されちまったんだから」
怒りと憎悪に燃える瞬の兄の暴走を止めることができるのは、アテナのみ。
そう判断した紫龍と星矢が、彼等の女神に大権の発動を要請する。
しかし、女神アテナは、いかにも 人類の存続と地上の平和を守ることを第一義とする女神らしい理由で、彼女の聖闘士たちの要請に応じなかった。

「あの二人がここで どれだけ熾烈な戦いを繰りひろげても、地上に被害は及ばないもの。せいぜい、このジュデッカが壊れるくらいのものでしょ。私には何の不都合もないわ。私が守りたいのは、あくまでも 光あふれる地上の世界ですもの」
「いや、それはそうかもしれないけどさぁ……」
アテナは、地上の平和が損なわれさえしなければ、聖闘士の一人や二人が怪我をしようが、命を落とそうが、一向に構わないと言っている(のかもしれない)。
彼女は、白鳥座の聖闘士と鳳凰座の聖闘士の私闘を いさめるどころか、助長するようなことまで言い出した。

「氷河、一輝、決着はここでつけてちょうだい。騒ぎを地上にまで持ち込まないこと。地上の世界に害を及ぼしさえしなれば、好きなだけ やってくれて結構よ。二人共、言いたいことが色々あるんでしょう?」
「大ありだ! この馬鹿野郎のおかげで、これまで 俺がどれほどの忍耐を強いられてきたことか……! 瞬の兄だというだけで、いつもいつも偉そうに構えていやがって、瞬を困らせないためとはいえ、なぜ俺が 貴様の目を盗んで こそこそしなければならないんだ。瞬は俺のものだぞ!」
「瞬が貴様のものだと? 泥棒猫が何を言う! 盗人猛々しいとは貴様のことだ、この色素不足の居直り強盗めが!」

アテナの無責任な私闘助長発言は、氷河と一輝には渡りに舟の、まさに神の恩寵だったらしい。
アテナに戦いの許可を与えられた二人は、むしろ水を得た魚のように、“敵”への憎悪を剥き出しにして、彼等の戦いを始めてしまったのである。
氷河は 長い時間をかけて 瞬の兄への鬱積を育んでいたし、瞬の兄は 寝耳に水で知らされた とんでもない既成事実のせいで、正気でいられないほど激しい憤怒に囚われていた。
それでなくても氷と炎という正反対の性質を持つ二人の技が正面から衝突するのである。
一輝の作る超高温と氷河の作る超低温、更に その二つがぶつかり合って生じる灼熱の水蒸気。
ジュデッカの壁や柱には、甲高い悲鳴のような音を立てて亀裂が走り、それらのものは、衝撃に耐え切れなくなった部分から崩壊を始めていた。

「あの……氷河……兄さん……」
自らの感情に従って 生き生きと(?)戦う二人はそれでいいかもしれないが、不本意に二人の戦いの原因にされてしまった瞬は、アテナのように気楽な傍観者ではいられなかった。
瞬が 氷河と仲良く・・・なったのは昨日今日のことではなく、既に相当の時間が経っている。
二人がそういうことになっても 自分の周囲にどんな問題も起きないので、瞬は勝手に、自分たちのことは兄も認めてくれているのだと思い込んでいた。
アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の関係を、氷河はもちろん、星矢や紫龍までが一輝には知られぬように腐心していたことを、瞬は全く知らずにいたのである。
いったい なぜ二人は今 これほど殺気立ち、悪鬼のごとき形相で戦っているのか、そのあたりの事情が、瞬にはまるで理解できていなかった。

「瞬。危ないから、こちらにいらっしゃい」
そんな瞬の腕を引いて、沙織が瞬を安全地帯に避難させる。
そうしてから、彼女は、彼女にとっては伯父でもあるハーデスの不始末を詫びてきた。
「あなたには本当に つらい思いをさせてしまったわね。聖闘士と聖域を統べる女神として、あのナルシストの身内として、心から謝罪するわ。本当にごめんなさいね」
「そんなことはいいんです。で……でも……あの……氷河と兄さんが――」
アテナ自身に非のないことで、彼女が謝罪する必要などないと思う。
が、今は、兄と氷河の戦いの方が気になる。
女神の謝罪を受け流して、ちらちらと兄たちの方に視線を投げる瞬に、アテナは苦笑めいた笑みを向けた。

「一輝と氷河のことは 放っておきなさい。二人共、加減は知っているでしょう。いくら気が立っていても、相手に致命傷を与えるようなことはしないわ」
「でも……沙織さん……」
「あの二人は、どちらが傷付いても、あなたが悲しむことを知っているわよ。取り返しのつかないことにはならないから、放っておいても大丈夫」
それはそうかもしれないが、それでも放っておけないと思うのは、ただの老婆心、もしくは過保護に類する、あまり褒められない感情なのだろうか。
本当に加減というものを知っているのかどうかを疑いたくなるような熾烈なバトルを繰り広げている兄と氷河から、瞬はどうしても目を離すことできなかった。

そんな瞬とは対照的に、アテナは 一輝と氷河のバトルには ほとんど関心がないらしい。
彼女はむしろ、瞬とハーデスの戦いと その結末をこそ 興味深く思っているようだった。
「永遠に死なない神と、有限の命を持つ人間。ハーデスが あれほど自分の身体に執着するのは ただの病気だから放っておくとして、あなたが あなたの命と身体に執着しないのは、あなたが自分の命の有限を知っているからなのかしら? だから、あなたは身体ではなく、心の自由と自律に執着するの? でも、それも妙な話よね。人は普通は、自分には手に入らないものを欲するものだもの。自分の命や身体に執着しないあなたが特別なだけなのかしら?」

「え?」
アテナがどういうつもりで そんなことを訊いてくるのかが、瞬にはわからなかった。
命の大切さは、瞬も知っている。
瞬は、自分の命や身体を粗略に扱ったつもりはなかったのだ。
「僕は、自分の命や身体に執着していないわけではなくて――ただ、そんなものより大切なものがあると思っているだけです」
「それは、この世界に生まれた時から、肉体と命の有限を受け入れている人間だからこそ言える言葉? 命というものに諦観を抱いていて、ある意味では、神より達観している人間だからこそ言える言葉なのかしら?」
「諦観?」

瞬は、自分の命が有限であることに絶望などしておらず、もちろん諦観など抱いているつもりもなかった。
瞬は、そんな言葉を持ち出してくるアテナに奇異の念を抱き、そして戸惑った。
瞬の疑念を察したらしいアテナが、小さく首を横に振る。
「ごめんなさい。言い方が適当じゃなかったわね。私が知りたいのは そういうことではなくて――。人間はいつかは死ぬもので、人間ひとりひとりに与えられた時間は限られている。だからこそ、あなた方が その生と命を価値があるものと思っていることは、私にも わかっているの。そうね、私は何かを知りたいのではなくて、ただ 羨ましいだけなのかもしれないわ。人間に与えられている有限性というものが」
「アテナ……」

永遠の命を持つ神が、有限の命を持つ人間を『羨ましい』と言う。
アテナは決して、有限の命をしか持たない人間を揶揄しているようではなかった。
限りある命だからこそ、その命に価値を見い出し、その命を懸命に生き、死んでいく人間。
彼女は、そんな人間たちの生と消滅を見詰め続けてきたのだ。
彼女の聖闘士たちも その例外ではありえない。
彼女はいつも、最後には ひとり取り残される。
聖闘士たちの戦いは いつかは終わるが、彼女の戦いが終わることはない。
たとえ神という卓越した存在であったとしても――それは彼女にとって どれほどの重荷なのだろうと、瞬は思った。
おそらく彼女は、限りある命の人間を愛するために、永遠の命を持つ神として 人間たちの側に存在してくれるのだ。
瞬は、彼女に捧げる どんな言葉も思いつかず、ただ 彼女に感謝することしかできなかった。

「あの二人は特に、与えられた命を 精一杯 完全燃焼しながら 生きている感じがするわね。喧嘩するほど仲がいいのよ。やらせておきなさい」
アテナにそう言われると、兄と氷河の喧嘩も そういうものであるように見えてくる――楽しげな命の謳歌に見えてくる。
決死の形相で戦う二人を見やりながら、くすくすと楽しそうに笑うアテナにつられて、瞬は――瞬も――つい、その口許に笑みを浮かべてしまったのだった。


「他のことなら いざ知らず、間に瞬を置いて、あの二人の仲がいいはずないじゃん。瞬の清らかなのにも困ったもんだぜ。すっかり沙織さんに丸め込まれちまって……。沙織さんは、俺たち人間の一生懸命を、悪気いっぱいで面白がってるだけだろ」
「それは間違いないな。まあ、面白がるのが、人間に対するアテナの愛情表現なのかもしれないが……。しかし、こうなることが わかっていたから、一輝には 氷河と瞬のことを知られぬように細心の注意を払ってきたのに、すべてが水の泡だ」
アテナと瞬の横で、二人のやりとりを聞いていた星矢と紫龍が、アテナには聞こえぬように 小声で囁き合い、溜め息を洩らす。
一輝と氷河の戦いは、要するに、どちらがより多く 瞬の愛情を勝ち得ているのかを競う戦いなのである。
この場で決着がつくはずがないのだ。
これから延々と繰り返されることになるだろう一輝と氷河の争いの場面を想像するだけで、星矢と紫龍は うんざりしていた。


有限と永遠のどちらに価値を置き、かくあるべき愛情の姿をどのようなものと考えるか。
それは人それぞれである。
有限の命を持つ人間と、永遠の命を持つ神とでは、その価値観、考え方も異なっているだろう。
兄弟である一輝と瞬でも、恋人同士である氷河と瞬でも、それらは決して同じではない。
一輝と氷河なら、なおさら それらは違っているに決まっていた。

有限の価値とは。
永遠の価値とは。
そして、愛のあるべき姿とは どんなものであるのか。
それはアテナとハーデスの聖戦より長い歴史を持つ人類の重大な命題。
誰も正答に至ったことのない難しい問い掛けである。
ただ一つ、確かに言えることは。
たった今、愛する者のために、有限の命を究極にまで燃え上がらせ死力を尽くして戦っている氷河と一輝は、そんな小難しいことは全く考えていないだろうということだけだった。






Fin.






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