「氷河……! 氷河、大丈夫 !? 氷河、目を開けて!」 目覚めると、そこには瞬がいた。 澄んで綺麗で温かい、氷河が見慣れた瞬の瞳が、心配そうに、気遣わしげに、彼を見詰めていた。 この瞳に優しく見詰めてもらえるのなら、この瞳の持ち主に嫌われてしまわずにいられるのなら、一生 ただの仲間でもいい。 瞬の好意を失わないためになら、どんな夢も希望も諦め、どんな欲望も抑えきってみせると、ゆっくりと明瞭になっていく意識の中で、氷河は思ったのである。 「瞬……」 「氷河! よかった、気がついたんだね!」 「俺は……ここはどこだ……」 瞬に『大嫌い』と言われて、倒れたことは憶えていた。 しかし、それは、青銅聖闘士たちが宿舎にしているアテナ神殿の一画にある瞬の部屋だったはず。 そのはずだったのだが、氷河が意識を取り戻した場所は、アテナ神殿ではなく双児宮だった。 氷河は、どういうわけか、双児宮の大理石の床の上に転がっていたのである。 「サガが知らせてくれたの。氷河が双児宮で急に倒れたって」 では、やはり ここは双児宮であるらしかった。 だが、アテナ神殿の一室で倒れたはずの自分が、いつのまに場所を移動したのか。 氷河には、そのあたりの記憶が一切なかったのである。 訳がわからなくて――氷河は、のろのろと上体を起こすと、記憶が混乱している自分の頭を、右の手の平で2度3度叩いてみた。 瞬の後ろに並んで立っている星矢と紫龍が、そんな氷河を冷たい目で見おろしている。 彼等は、人生最大の衝撃に耐えかねて昏倒した仲間の身を、全く心配していないようだった。 氷河の脇に両膝をついて心配顔で氷河を見詰めている瞬とは対照的に――彼等は、むしろ、怒りと蔑みの色を、その顔に浮かべていた。 「おまえ、瞬がおまえを好きになるように、瞬に幻朧魔皇拳を打ったんだって? 最低な奴だな」 「長い片思いを続けていたとはいえ、おまえが これほど卑劣な男だったとは、実に残念だ。戦場に身を置く瞬に余計な気掛かりを増やすようなことはしたくないから、おまえは沈黙を守っているのだろうと思って、俺は 内心 おまえに感心していたのに、本当に見下げ果てた奴だな」 仲間たちの非難は、至極当然、極めて妥当な非難である。 なぜ彼等が再びその悪行を非難し始めたのかということについては 少々合点のいかないところもあったのだが、ともかく、氷河は ただの一言も、どんな言葉も、仲間たちに返すことができなかった。 彼等の言う通りに、白鳥座の聖闘士は卑劣で卑怯で見下げ果てた男だと、氷河は自分でも思っていたのだ。 そんな氷河と、氷河の仲間たちの間に執り成しに入ってくれたのは、某双子座の黄金聖闘士だった。 彼は その目と唇とに薄い笑みを刻んで、実に思いがけない事実を氷河に知らせてくれた。 「キグナスがアンドロメダに幻朧魔皇拳をかけたといっても、それは 私の作り出した幻影世界の中でのことなんだ。実害はなかったのだし、そう責めることもあるまい。――いや、この場合は責めておいた方がいいのか」 「なに……?」 サガに そう言われて、氷河はやっと理解したのである。 星矢と紫龍が、まるで 今初めて仲間の悪行を知らされたばかりのような顔をして、仲間を非難してきた訳。 そして、自分を見詰める瞬の瞳が以前と変わらずに 優しいままでいる訳を。 白鳥座の聖闘士が瞬に幻朧魔皇拳を放つ前に、よからぬ企みを胸に秘めていた白鳥座の聖闘士に向かって、サガが幻朧魔皇拳を放っていたことを。 否、サガが氷河に打った拳は、幻朧魔皇拳というよりはむしろカノンの幻朧拳、あるいは一輝の鳳凰幻魔拳に似た作用を持つ拳だったのかもしれない。 いずれにしても、氷河が瞬に幻朧魔皇拳を放ったのは、サガの放った拳が作り出した幻影の中でのことだったのだ。 精神攻撃系の技は、やはり たった2時間かそこいらの時間で 手軽に会得できるものではなかったらしい。 そんなことができてしまったことを奇異に思わなかったのも、その時 既に氷河がサガの拳の術中にあったから。 たった今 氷河を見詰めている瞬の眼差しが優しいのも、氷河が瞬に向けて放った幻朧魔皇拳が解けたからではなく――瞬は最初からそんな技をかけられていなかったのだ。 「やたらと『仲間たちのため』『聖域のため』を強調するから怪しいと思ったのだ。アンドロメダならともかく、キグナスが、『仲間たちのため』『聖域のため』を連呼するのは 不自然の極みだからな」 自らの洞察力を誇るかのような口調で、サガが言う。 それは随分と辛辣な評価だったのだが、氷河は彼に反駁できる どんな言葉も持ってはいなかった。 実際、彼は、『聖域のため』『地上の平和のため』などということを 毫も考えていなかったのだから。 氷河が考えていたのは、自分の恋のことだけだった。 自分一人のことだけ。 瞬の気持ちをすら、氷河は自らの意識の内に入れていなかったのだ。 「星矢の粗忽を矯正したいのなら、私に直接 技をかけることを依頼すればいいのに、どうあっても幻朧魔皇拳を自分でマスターしようとするあたり、怪しさ満載だったからな。しかし、まさか、アンドロメダに対して、そんな下心を抱いてのことだったとは」 『下心などではない、至高至純の恋心だ!』と、サガに発言の訂正を求めることも、今の氷河にはできなかった。 自らが育んできた瞬への思いを汚したのが、他ならぬ自分自身だったことは、さすがに氷河にも自覚できていた。 「俺は……双児宮を出る前に 既に幻朧魔皇拳をかけられていて――いや、そもそも俺は双児宮を出ていなかったのか……。では、瞬が俺を大嫌いだと言ったのは――」 「僕が氷河にそんなこと言うはずないでしょう……!」 切なげな目をして、瞬が訴えてくる。 そんな ありえないことを真に受けて倒れてしまった氷河を(それも幻影の中でのことらしいが)、瞬は寂しく悲しく思っているようだった。 瞬の肩が小さく震える。 そんなふうに瞬を悲しませてしまったのが自分なのだと思うと、氷河は 8割方本気で 自分を殺してしまいたくなった。 「おまえは本当に どうかしている。いくら幻影の中でのこととはいえ――もし瞬が本当におまえを大嫌いだったとしても、瞬は『大嫌い』なんて言葉を口にするはずがない。もっとソフトに――いや、そんな時には、瞬は むしろ仲間を嫌っている自分自身を責めるはずだ」 紫龍の言う通りである。 紫龍の言うことは いちいちもっともだった。 たとえ『大嫌い』でも、瞬はそんなことは決して言葉にしない。 瞬は、自分が誰かを嫌うことになってしまったら、むしろ、その人の美点を見付けだせずにいる自分自身を責めるはずだった。 瞬がそんな人間だから、その心を掴み切れずに、氷河は こんなことをしてしまった――という側面もあったのだが、とにかく、『氷河なんか大っ嫌い』は、瞬が本当に言った言葉ではなかったのだ。 「よかった……」 心から、氷河はそう思った。 本当に心の底から。 「おまえに大嫌いだと言われた時には――おまえに嫌われるくらいなら死んだ方がましだと思った……泣きそうになったぞ」 氷河は事実を口にしただけだったのだが、そんな氷河に、瞬は困ったような微笑を向けてきた。 「そんなことくらいで」 「そんなことくらいとおまえは言うが、それはおまえが、俺がどんなにおまえを好きでいるのかを知らないから言える言葉で、俺は おまえを――」 そんなことを言い募るのは 瞬を責めることになりかねないと気付いて、氷河は言葉を途切らせた。 代わりに、長く吐息する。 「そうだな……。そんなことくらいで泣きそうになるなんて、俺はどうかしているんだろう、多分」 そう言って、瞬のために、力なく笑う。 氷河が今、瞬のためにできることは、そんなことくらいしかなかった。 氷河の その呟きを聞いた瞬の目が ますます切なげなものになり――それから、瞬は僅かに瞼を伏せた。 「ぼ……僕は、氷河が大好きだよ。決まってるでしょう」 「だが、それは俺の好きとは違うんだ」 「そんなことないよ……」 「なに?」 「あの……そんなことないかもしれないよ」 溜め息のように控えめな瞬の言葉――短く、断定的ではなく、可能性に言及しただけの言葉。 だが、その可能性を知らされて、氷河は息が止まるかと思ったのである。 瞬の瞳を覗き込んで 瞬の真意を確かめたかったのだが、瞬は顔を伏せてしまっていたので、氷河は自分の確かめたいことを自分の目で確かめることはできなかった。 仕方がないので、言葉で、瞬に尋ねる。 「瞬……それはその……あー……何だ、つまり――」 「まだ よくわからないけど、でも、あの……」 短い逡巡を見せてから、瞬が 氷河の肩に 指でそっと触れてくる。 その仕草が あまりに遠慮がちで、あまりに静かで、だが、あまりに優しかったので、氷河は、今度こそ本当に泣きそうになってしまったのである。 瞬は、こんな卑劣な真似をしでかした男を許すと言ってくれている。 嫌ってはいないと言い、あまつさえ、同じように好き(かもしれない)とまで言ってくれているのだ。 白鳥座の聖闘士は、本当に、最初から、これほど卑劣なことも、これほど愚かなことも する必要はなかった。 ただ素直に正直に、自分の気持ちを瞬に伝えるだけでよかったのだ。 それだけでよかったのに、そうしなかった自分を、氷河は心から、虚心に、後悔し反省したのである。 瞬を困らせたくないとか、悩ませたくないとか、そんなことは結局、瞬に拒絶されることで自分が傷付きたくないという本音を糊塗するための卑劣で臆病な言い訳にすぎなかった。 だからこそ、自分は、瞬の心が必ず自分に向く 卑怯千万な技に頼ってしまったのだ――と。 「瞬、本当にすまなかった。許してくれ。だが、俺はおまえが好きなんだ」 氷河が真正面から瞬に その事実を告げると、 「僕も、氷河のこと大好きだよ」 瞬は――瞬も――真正面から答えを返してくれた。 もっと早くに、もっと素直な気持ちになって こうしていればよかったと、ほのかに上気した瞬の頬、はにかむように優しい瞬の唇、なにより、その言葉通りに大好きなものを映しているのだと疑いもなく信じてしまえる、綺麗で温かい瞬の瞳を見て、氷河は思ったのである。 そうしていれば、自分は、もっと早く、瞬の優しい肩を抱きしめる権利を手に入れることができていたのに――と。 陋劣極まりない手段によって、自身の恋を成就させようとした男の恋が 無事に実ったのは、彼の恋した相手が、自らの過ちを認め前非を悔いている人間を許す 寛恕の心の持ち主だったからだろう。 何はともあれ、そういう経緯で、氷河の恋は大団円を迎えた。 というより、幸福なスタートを切った。 のだが。 星矢の方は、そうは問屋がおろさなかったのである。 なにしろ、星矢が自らの無思慮無分別で招いた災厄の相手は、瞬ほど寛大で優しい心の持ち主ではなかったのだ。 星矢は、アテナの御座所である聖域の空を詰まらぬもので汚したことに関して、サガから大いに説教を食らい、凧の局部の黒消し部分を3倍の大きさに修正した凧を、聖域の大空高く、1日3時間、1週間毎日 揚げ続けるという過酷な罰を食らったのである。 黄金聖闘士のプライドは、善良な一市民のそれとは、微妙に質の異なるもののようだった。 Fin.
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