いつか どこかで

- I -







10年が経った。
僕が命と心をもって この世界に存在することを認知して10年。
僕が普通の人間ではないことを自覚して10年。
怪我や病を得ることのない人間だと知って10年。
歳をとらない人間だと気付いて10年。
もしかすると死ぬことさえできない人間なのではないかという不安を抱き始めて10年。
そもそも僕は人間といっていい存在なのかという疑念に苛まれるようになって10年。

10年前のある日 突然、僕は、自分が日本という国の ある都市にいることに気付いた。
14、5歳の少年の姿で。
その姿は、今も変わっていない。
それ以前の記憶はなかった。
身につけていたのは白いYシャツと黒いパンツ、そして、何の変哲もない革靴。
他には、名前や歳や住所がわかるような どんなものも、僕は身につけていなかった。

僕が この世界にいることに気付いた時、僕の周囲にはたくさんの人がいて、彼等は皆 その顔を上に向けていた。
そして、口々に、『危ない』だの『止められないのか』だの『誰か警察に連絡したんだろうな』だのというような言葉を、独り言のように言っていた。
あるいは、それは独り言ではなく――6車線の広い道路を挟んだ向こう側に建っている10階建てのビルの屋上のフェンスを乗り越えた場所にいる壮年の男性に向かって投げかけられた言葉だったかもしれない。

その壮年の男性は くしゃくしゃのウインドブレーカーを着ていて、眼下に集まった多くの人々を見おろし、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
彼は、最初は――本当はビルから飛び下りるつもりなんかなかったのかもしれない。
でも、ここまで衆目を集めてしまっては もう飛び下りるしかないと考えて、泣くに泣けない気分でいたのかもしれない。
「なんでこんなことになったんだ」という言葉を、震える唇で 彼は幾度も繰り返していた。
僕には、彼のそんな様子がはっきり見え、彼の言葉がはっきり聞こえていた。
それが 普通の人には見えるはずのない姿で、聞こえるはずのない声だということを、僕が知ったのは、それから数日が経ってからのこと。
その時には、僕は自分が普通の人間のそれとは違う目と耳を持っていることに、まだ気付いてはいなかった。

やがて――彼は もはや飛び下りるしかないと覚悟を決めたのか、フェンスを掴んでいた手を離した。
そんなに死にたくないのなら、どんなに体裁が悪くても彼は生き続けた方がいいだろうと思ったから――その瞬間、僕はアスファルトを蹴った。
そして、彼の身体を空中で受けとめ、ビルの下に着地する。

途端に周囲に生まれた どよめき。
ぽかんとして僕の顔を見上げる その男性に、僕は、
「これでよかったんですよね?」
と尋ねた。
彼は、自分の身に何が起こったのかがわからなかったのか、何も答えてこなかったけど。

僕は、速く走ることができた。
自動車や列車以上のスピードで。
跳ぶこともできた。
鳥のように飛翔することはできないけど、2、3メートルの塀くらいなら、猫よりも身軽に飛び越えることができた。
素手で、ほんの一瞬で、小石を砂のように砕くこともできた。
遠くのものを見ることも、聞こえるはずのない小さな音を聞くこともできた。
そういったことが他の人間たちには できないことだっていう事実を知ったのは、僕が この世界に生まれて・・・・から3日後。
気付いてからも1、2ヶ月の間は、他人の目を気にせず、僕は その力を無造作に使っていた。
多くは、危険に見舞われた人々を救うために。

その街では毎日――もしかしたら、半日か、もっと短い時間単位で――様々な事故が起きていた。
喧嘩や引ったくりといった小さな騒ぎから、自動車事故、列車事故、火事、強盗、自殺騒ぎや人質をとっての立てこもりまで。
一度だけ、銃撃戦の現場に出くわしたこともある。
“出くわした”というより、尋常でない聴力を持つ僕の耳には『誰か助けて』という声がひっきりなしに飛び込んできて、僕はその声が聞こえるたび、声の主の許に駆けつけた――というだけのことなんだけど。
人助けをしようなんて崇高な決意や理想があったわけじゃなく、ただ僕には困っている人たちを助ける力があって、他の人にはその力がないのなら、僕が動くしかないだろうと思っただけ。
それだけのことだった。

それで 僕に助けられた人たちは皆、僕に感謝はしてたみたいだったけど、同時に人間のそれを超越した僕の力を気味悪がってもいるみたいだった
「あの子、あれだろ。最近、あちこちに出没しているスーパーマン」
「あんな華奢な女の子のくせに」
「女の子じゃないって噂だぜ」
「女の子みたいな顔をしているのに」
そんな囁きが、
「あの子、ホームレスなの?」
という内容に変わっていったのは、多分、僕が身に着けていた服が破け薄汚れていったから。
僕は、着替えなんて気のきいたものを持っていなかったから。

そのうち、僕に助けられた人たちが、「助けてもらった礼だ」って言って、僕に衣類や食べ物をくれるようになった。
中には紙幣を渡してくる人もいたけど、僕はその価値も使い道も知らなかった。
僕に礼として何かを渡してくる人たちは、単に、そうすることで僕みたいな化け物に作ってしまった借りを清算したいだけだったんだろう。
僕が、そう気付いたのも、僕がこの世界に生まれてから かなりの日にちが経ってからのことだったけど。

カメラを持った人たちが、僕の姿を映して、僕にあれこれと質問をして、インタビューの謝礼だっていって現金の入った袋を僕に渡した翌日から、僕の周囲は騒がしくなった。
そのインタビューとかで、僕は色々と不用意なことを話してしまったらしい。
家はないとか、親はいないとか、自分の歳も名前もわからないとか、そういうこと。

その数日後――それが国なのか、都なのか、区なのかは わからないけど、ともかく、どこかの役所の大人たちが僕の身柄を確保して いずれかの施設に収容すべきだと、(おそらくは僕のために)決定し、そのための人を派遣してきた。
でも、僕は、僕の知らないところで そんな決定が為されたなんてことを知らなかったし――何とかっていう施設の職員だという人が、僕を掴まえるために近寄ってきた時、その人の言葉や態度がひどく威圧的で乱暴だったから、僕は恐くなってその人の腕を振り払った。
僕は、その乱暴な人に捕まりたくなかっただけだったんだけど、そして、そのために彼の腕を軽く振り払っただけだったんだけど、僕のせいでその人の腕の骨は折れてしまったんだ。
その瞬間に、僕は、その街の危険人物指定を受けてしまったらしい。

街の大人たちは、翌日は30人規模の集団を構成して、僕を捕まえるためにやってきた。
前日の出来事で、力の加減をしないで好きに振舞うと人を傷付けてしまうことを学んだ僕は、彼等に大人しく捕まった。






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