夢の中では、もう彼に会うことはないと 僕はあの人に言ったけど、実際 そう思っていたんだけど――翌日 僕はまた彼に会ってしまった。

ギリシャは観光で成り立っているような国だから、観光客同士が鉢合わせするのは不思議でも何でもないことなのかもしれない。
しかも、その日、僕が赴いたのはパルテノン神殿跡。
アテネに来た観光客が、その観光プランから外すことは まず考えられない場所だったんだから。
それでなくても時季外れ。昨今の政情不安もあって、ギリシャの観光客は減っているらしい。
行く場所が同じなら、出会う可能性は大きいし、目立つ人だから、いたらすぐわかる。
実際、すぐわかった。
アスファルトで舗装なんかしたら趣が殺がれると考えてのことなんだろうけど、だだっ広くて乾いた土に石ころが転がっているような神殿前の小さな荒地。
観光客たちが思い思いの場所から、かつては壮大華麗な神殿だったものの跡を眺めている。
その中に、彼がいた。

危険と思うと同時に、胸が弾んだ。
彼が綺麗な人だからというんじゃなく、もしかしたら彼こそが僕の正体を知る手掛かり――唯一の手掛かり――なんじゃないかってことに、彼に再会して気付いたから。
でも、僕は、すぐに踵を返したんだ。
そして、周囲の人たちに怪しまれない程度の早足で、その場を離れようとした。
彼に見詰められて、昨日みたいなことになったら、知る人もない この国で、僕はどうなるかわからない。
彼に僕の存在を気付かれることなく、彼の様子を窺っていられるポジションを、僕は確保しなければならなかった。

二人の間には距離があった。
おそらく、30メートルくらい。
彼の姿を認めて すぐに踵を返したんだから、僕は、普通なら、絶対に彼に気付かれないはずだった。
なのに、彼は気付き、そして、僕を追いかけてきた。
最初は無言で。
だけど、僕が足を止めなかったから、彼は声を出さないわけにはいかなくなった――らしい。

「待ってくれ。逃げないでくれ! いくら君が綺麗でも、変なことはしない!」
逃げる人間の足を止めるにしても、もっと違う言葉があるだろうって、正直 僕は思った。
というか――。
僕は、多分、彼に、『私は君の正体を知っているぞ』とか『聖域の場所を知りたいのなら、大人しくしろ』とか、そういう言葉を期待していたんだ。
なのに、『変なことはしないから、逃げないでくれ』だなんて。
僕の身体からは、昨日とは全然違う理由で力が抜けてしまった。

それでも、恐る恐る振り返り、僕は彼の顔を覗き込んだんだ。
そうしたら。
彼は 昨日と違う目をしていた。
何ていうか、今日の彼の目は ごく普通の――大人しくて、引っかけやすそうな女の子を見付けた普通の男性の目と大して違わなかった。
この人は本当に昨日 僕がうのていで逃げ出した あの人と同じ人間なのかと、彼に確かめたくなるくらい。
そんなことを彼に訊けるはずもなかったけど。
代わりに僕は、“軽薄な男性の軽薄な振舞いに苛立ちを感じている日本男児”を装って、彼を怒鳴りつけた。

「当たりまえです。僕は男子です」
「それはわかっている」
「えっ !? 」
我ながら、それは、傍目には大仰に見える驚き方だったと思う。
でも、僕は日本でもギリシャでも女の子に間違われてばかりいたから。
男性用のジャケットを身に着けて、幾度 男子だと主張しても、信じてもらえないのが常態になってしまっていたから。
だから、僕は、僕をあっさり男子と認める彼の その言葉と態度に驚かないわけにはいかなかったんだ。

僕は日本とギリシャで それなりの格を持つホテルを使ったけど、その両方のホテルのフロントマンに、同じ親切をされてしまっていた。
つまり、チェックインの際、書類に僕が性別MALEにチェックした箇所を、彼等は ご丁寧に無言(かつ、無断)で、FEMALEにチェックし直し、僕の“ミス”を訂正してくれたんだ。
そんなふうな侮辱――もとい、誤認の連続だったから、男子だっていう僕の主張をあっさり受け入れてくれた(最初から わかっていた?)彼に、僕は単純にも好意を抱いた。

「すみません。女の子に間違われてばかりいたものだから」
「それだけ、華奢な様子をしていて、可愛ければ、普通はそう誤解するだろう」
まさか彼に『僕はあなたの10倍も力持ちです』なんて言うわけにもいかず、僕は少し空々しい笑みを作って、場をごまかしたんだ。
「昨日も会ったね」
彼に そう言われた僕は、昨日今日と続けて彼から逃げようとした訳を問われたくなかったから、その言葉が聞こえなかった振りをした。

「あなたは最初からわかったの? 僕が女の子じゃないって」
「ああ」
「どうして?」
「どうしてと言われても――まあ、普通の女の子は こんなに可愛くはないだろう。名前は?」
変な理屈に笑って、僕はつい、
「瞬」
と、本名(?)を名乗ってしまっていた。
「シュン?」
僕の名を聞いた彼が、微かに眉をひそめる。
でも、そのことに、多分 他意はなかっただろう。
それは『もう10年も会っていない従妹が飼っていた猫がそんな名だった』みたいなことを考えているような、聞き覚えのある名を思いがけないところで聞くことになった人みたいな、そんな表情だったから。

それにしても、なぜなんだろう。
昨日みたいに凝視されていないせいか、僕は、彼を昨日ほどには恐いと感じない。
身体の方も、期待外れの和やかさに脱力はしていたけど、昨日みたいに、力を吸い取られるような、意識できるほどの変化は現われていなかった。
昨日のあれは僕一人の錯覚にすぎなかったのかって疑ったくらいだ。
あれが錯覚なんかであるはずがないのに。

ちらちらと、彼の綺麗な顔を盗み見していて、やがて僕は気付いた。
彼も――僕と視線を合わせることを恐れているかのように彼も――僕を長く見詰めないように注意していることに。
トルコや南欧――地中海沿岸諸国には、青い瞳を持つ者は、故意にでも無意識にでも、魔眼の力で人に呪いをかけることができるっていう民間伝承があるけど、彼はそんなふうだった。
自分の目の力を知っていて、僕に呪いをかけることを避けようとして、僕を見詰めないようにし、でも見ずにいることもできない。
そんなふう。
そんな民間伝承のことを、僕が いつどこで知ったのかは、僕自身にも わからなかったけど。
彼が、その青い目で、僕の肩の向こうを見やりながら尋ねてくる。

「ギリシャには観光のために?」
「帰る場所を探している人間も、観光客って呼んでいいのなら」
当たり障りのない その質問に、僕も 彼の瞳を見詰めないように注意しながら答えた。
答えてから、その答えが奇妙なものだということに気付く。
「なに?」
反問してきた彼のために、
「あ、いえ。帰る日を決めてなくて、年単位で滞在することになるかもしれない人間でも 観光客を名乗っていいのかなと思っただけ」
僕は慌てて、多少は具体性のある答えを作った。

「年単位? そんなに時間をかけて、この国で何をするつもりなんだ」
「ギリシャは西洋文明発祥の地でしょう。僕の出自もわかるかなって」
「それは奇遇だ。俺も、俺のルーツを探るために この国に来た」
僕の奇妙な答えを、彼は本気で受け取らなかったんだろう。
彼は、笑って そう言った。

もちろん、僕も、彼の その言葉を信じなかったんだから、それは おあいこだけど。
ルーツ探しなんて、嘘に決まってる。
彼の輝くような金髪と青い瞳。
どう考えたって、彼のルーツは北方にあるはずだもの。
それに、『奇遇だ』なんて、男性が女の子を引っかける時に使う常套句だ。
日本ではそうだったし、ギリシャでもそうだろう。
多分、世界中でそうなのに違いない。
昨日1日だけで、レストランとホテルのロビーの二ヶ所で、僕は英語を話す旅行者に その言葉を言われ済みだった。

でも、僕はかえって安心したんだ。
彼がそんな常套句を口にする、普通の男性だっていうことに。
彼は、自分の名をヒョウガと名乗った
どこの国の名なのか わからなかったけど、どこかで聞いたことがあるような懐かしい響き。
僕は勝手に、日本語の『氷河』という文字を、その名の響きに当てはめて、彼の名を記憶に刻んだ。

名を名乗り合ったところで 言葉が途切れたのは、きっと 僕たちが互いに見詰め合いたいのに そうすることができずにいたからだ。
沈黙が気まずくて――文字通り目のやり場に困った僕は、彼を見詰めていたいと騒ぐ自分の目をなだめすかし、視線をパルテノン神殿の上に投じた。
神殿からは50メートルくらい離れたところに、僕たちはいた。
ギリシャ観光最大の目玉の全景を、僕は視界に入れていた。
彼は普通の人だと思いたいのに、僕のエマージェンシーコールはまだ微かに胸の奥で鳴り続けている。
どうして止まってくれないのか。
氷河は普通の人なのに。
僕は、そう思っていた。

「このパルテノン神殿って、数千年前は極彩色に彩られていたんでしょう? 何度か想像復元図を見たことがあるよ。どれも、当時の人たちの色彩感覚を疑いたくなるようなものだったけど」
『危険、危険、危険』と遠慮がちに響く声。
自分の内から生まれてくる その声を完全に無視することは、僕にはできなかった。
氷河との間に距離を置くために、神殿の全景を見るためを装って、僕は後ずさった。
1歩、2歩、3歩。

「瞬!」
突然、僕の名を呼んで、氷河の手が僕の腕を掴んでくる。
反射的にその手を振り払い、振り払った瞬間に、僕は、『しまった!』と胸の中で叫んでいた。

以前――あの人の邸に引き取られる前、僕を捕らえようとした人から逃げようとして腕を振り回し、僕は、僕に対して何の害意も抱いていなかった人の腕の骨を折ってしまったことがあった。
今日もまた、よりにもよって氷河相手に、あの時と全く同じことをしてしまったと、僕は思ったんだ。
氷河の唇から、苦痛を訴える悲鳴か呻きが洩れてくることを、僕は覚悟した。
なのに――。

氷河は平気だった。
僕に手を振り払われたことは不快だったのかもしれないけど、でも、そんな心は綺麗に隠して、涼しい顔で彼は僕に、
「元気だな。だが、そこから後ろは立ち入り禁止だ。崩落の危険がある柱があるらしい」
と言ってきた。
「あ……」

氷河に特段の意図はなかったらしい。
彼はただ、僕の身の安全のために注意を促してくれただけ。
それは喜ぶべきことだけど――だけど、こんなこと あるはずがない。
僕は鉄の火掻き棒すら、飴のように たやすく捻じ曲げてしまうことのできる力の持ち主だ。
氷河の肉体が僕の力にびくともしないほど強靭なのか(まさか)、あるいは僕の力がまた弱まり、超人的な力が失われてしまったのか。

そのいずれが、この信じ難い状況を生むことになったのかを確かめるために、僕は地面に落ちている小石を拾って、それを手の中で砕いてみた。
正確には、砕こうとしてみた。
以前は1秒とかからずにできたこと――が、僕にはできなかった。
喜んでいいことのはずなのに、僕は愕然とした。
砕けない。
こんな小さな、ただの花崗岩が。
そんな馬鹿なと、僕は手の中の小石に意識を集中し――でも、小石は砕けなかった。

僕の力が消えている。
いつのまに?
なぜ?
ここが聖域のあるギリシャだから?
この国の空気が、化け物の力を吸い取っているの?
それとも、本当に氷河が魔眼の持ち主で、僕に(故意であれ、無意識のことであれ)呪いをかけているの?

そんな馬鹿なことがあるはずがないと、僕は幾度も自分に言いきかせ、懸命に動揺を押し隠した。
この動揺を氷河に気付かれてはいないかと不安になって、びくびくしながら、俯かせていた顔を上げる。
氷河は僕を見詰めていた。
青い――海が凍りついて宝石になったように青い瞳で。
その青い瞳の中で、手だけじゃなく、足からも、肩からも――僕の全身から力が抜けていく。

この人は誰。
この人は、いったい何者なの。
ミノタウロスを殺すためにやってきたテセウス?
メデューサの命を奪うためにやってきたペルセウス?

そして、僕は いったい何者なの。
7人の少年と7人の少女の犠牲を求め続けたミノタウロス?
多くの勇士を石に変えてしまった魔女メデューサ?

「瞬」
氷河が僕の目を見詰め、僕の名を呼び、口許に冷たい笑みを浮かべて、歩み寄ってくる。
立っていられない。
昨日と同じ。
足がすくんで動けない。
ああ、きっと、この人は僕から力を奪い、僕の命を絶つ力を持っている。
きっとそうだ。
この人は、僕を、この地上から消し去るために、僕の前に現われた怪物退治の英雄だ。
この世界に存在してはならない化け物の僕を抹殺するために、神が遣わした刺客なんだ。
僕は、この青い魔眼に殺される。
僕が そう確信した時、微笑む彼の手が、僕の首筋に触れた。






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