氷河と瞬が、例の掘っ立て小屋から 星矢たちのいるホテルに戻ってきたのは翌日の昼前。 ちょうど紫龍がホテルのチェックアウトを済ませた時だった。 「やったのか?」 「夕べはずっと、瞬と二人でオーロラを見ていた」 今更 言葉をどう飾っても無駄と開き直り 単刀直入に尋ねた星矢に、氷河が今日もまた 馬鹿な答えを返してくる。 星矢は遠慮なく、その顔を盛大に歪めた。 「白々しい嘘つくな。夕べはオーロラは見られなかったみたいだって、ホテルのあんちゃんが言ってたよ」 氷河は嘘をついたつもりはなかったのだろう。 星矢に興醒めな現実を掲げて 嘘を咎められても、彼は悪びれた様子もなく、声のない微笑を浮かべただけだった。 自分が今 置かれている立場の危うさを正しく認識できていないらしい氷河の呑気さに、星矢がこめかみを引きつらせる。 氷河の無自覚と危機感のなさを なじろうとした星矢が、その機会を逸してしまったのは、その場に、氷河より馬鹿な男たちが登場したからだった。 つまり、昨々日 氷河と氷河の母を侮辱して、とんでもない災難に見舞われてしまった例の青年たちが。 彼等は、瞬のせいで半死半生の目に合った際、病室代わりに運び込まれた部屋の料金を支払いにきたものらしい。 どこに転がっているかわからない危険物に怯えて びくびくしているような彼等の挙動は、滑稽にして不審。 紫龍に脇腹を肘で突かれて、星矢は、それが噂の蜜蜂青年たちだと察することになった。 「あいつ等が、瞬の逆鱗に触れた命知らずの阿呆共かよ? いや、ここは大物と褒めるべきか」 小さなホテルのロビーのことである。 彼等の登場に気付いたのは、紫龍と星矢だけではなかった。 彼等が今 最も恐れ、最も顔を合わせたくないはずの人物も、もちろん彼等がホテルに入ってきたことに気付いたのである。 彼等に謝罪をせずに帰国したくなかったらしい瞬が、小走りに彼等に駆け寄っていく。 瞬に気付くと、彼等は即座に回れ右をしようとした。 「待ってください!」 すっかり怯えきっている蜜蜂青年たちを、瞬が慌てて引き止める。 アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙は、絶対零度の凍気をさえ霧散させる、温かい春の小宇宙。 だというのに、瞬に呼びとめられた青年たちの身体は、強烈な凍気技を放たれた哀れなペンペン草よろしく、その場で凍りついた。 あまりの恐怖に、身じろぎ一つできないでいるらしい青年たちに、瞬がゆっくりと歩み寄っていく。 青年たちの前までくると、瞬は、彼等に向かってぺこりと頭を下げた。 「昨日は、ひどいことしてごめんなさい。でも、氷河のマーマのことは、あなたたちの誤解なの。氷河のマーマは、あなたたちが思っているような女性じゃなかったの。とても理知的で聡明で、自分の才覚で蓄えた資産も持っていた。お金持ちだったんだよ」 星矢と紫龍が持参した証拠書類を彼等に示して、瞬が氷河の母の事情を懇切丁寧に説明し始める。 瞬の様子が優しげで穏やかなことが、かえって彼等の恐怖を増大させているようだった。 氷像のように凍りついていた蜜蜂青年たちが、酸素不足の金魚のように口をぱくぱくさせだしたのは、瞬の説明によって、氷河の母に関する風評が全くのデマだったことを知ったからではなく――おそらく、瞬のたび重なる豹変に混乱しているからだったろう。 彼等は、瞬の得体の知れなさに怯え、恐れ、ほとんどパニックを起こしかけているのだ。 「氷河の母親に関するデマを本気で信じていたのなら、彼等は、純粋に親切のつもりだったのかもしれないな。 「だとしたら、かわいそうに。あいつら きっと、瞬のこと、気が弱くて大人しくて、悪い男に簡単に騙されそうな世間知らずのお嬢ちゃんくらいに思ってたんだぜ」 「か弱く無防備な可愛いウサギと思っていたものが、実は血に飢えた狼より凶暴な人食い虎だったわけだ」 瞬の笑顔の前で凍りついている青年たちに同情の目を向けていた星矢が、やがて その視線を、はからずも(?)凶暴な人食い虎の恋人になってしまった男の上に巡らせる。 星矢の視線は、その95パーセントが懸念と溜め息でできていた。 「おまえ、瞬が本気で怒ったとこ、見たことなかっただろ。だから、俺は、あんなに、おまえらが二人でシベリアに来るのを止めたのに」 「だから止めた――とは?」 「だから、こうなることがわかってたからだよ。瞬と長く二人きりでいたら、おまえは絶対に瞬に本気になるし、おまえに迫られたら、瞬は簡単に おまえになびく。それで、おまえは、本気で怒ったら 誰も太刀打ちできないくらい凶暴で最強な人間を恋人にすることになるわけで――。瞬は、切れたら、ほんとに恐いぞ。何をしでかすか わかったもんじゃない。おまえは 絶対に瞬の尻に敷かれる。一生、瞬に頭があがらない。おまえ、ほんとに瞬でいいのかよ?」 星矢が心配していたのは、この事態――まさに今 現実のものとなってしまった この事態――だった。 星矢が案じていたのは、氷河が強引に瞬を押し倒すことでもなければ、瞬がそんな氷河を拒めないことでもない。 氷河と瞬が離れられない力で結びついてしまったあとの、氷河の身の安全だったのだ。 しかし、さすがは 恋する男と言うべきか。 氷河は、健気で心優しい瞬の強大強力な力に、どんな脅威も感じてはいないようだった。 「おまえは何を心配しているんだ。瞬の尻になら、俺は毎日でも 敷かれていたいぞ」 「毎日でも敷かれていたい――って、おまえ、実はマゾだったのかよ !? せっかく、俺たちが心配してやったのに――だいいち、俺は、そんなヘンタイを仲間に持った覚えはねーぞ!」 恋する男の能天気に呆れ苛立ち、星矢が声を荒げる。 紫龍は、苦笑しながら、そんな星矢をなだめにかかった。 もちろん、『同性の瞬に好意を抱いた時点で、氷河は十分にヘンタイだったろう』などという詰まらない突っ込みを入れることはせずに。 「落ち着け、星矢。氷河がいいと言っているんだ。これは 俺たちがとやかく言うことではあるまい。なに、氷河が必要以上に自分のことを卑下するようなことをしなければ、瞬はいつまでも人に逆らうことをしない大人しい小ウサギでいるだろう」 「それはわかってるけどよ!」 それは わかっているのだ。 だが、時々 信じられないほど馬鹿で迂闊なことをしでかす白鳥座の聖闘士を知っているだけに、星矢は、胸中の懸念と不安をどうしても消し去ることができなかったのである。 無駄なような気もしたが、星矢は、小声で氷河に忠告した。 「瞬の前では恐くて言えねーけど、瞬の奴、へたすると最強の――最凶最悪の聖闘士だぞ。滅多に本気にならねーだけで」 「うむ。星矢の言う通りだ。瞬の逆鱗に触れるのだけは避けた方がいい」 「ああ。それは気をつけることにしよう」 仲間たちの有難い助言に、氷河がゆっくりと頷く。 しかし、氷河は、その胸中では全く別のことを考えていた。 つまり、時々 瞬の逆鱗に触れてみるのも楽しいのではないかと。 年に一度くらいなら、本気で怒った時の燃えるような瞬の瞳を見て、幸福感に浸るのも楽しそうだと。 アテナの聖闘士の中でも最凶最悪のアンドロメダ座の聖闘士に、恐れを為さずに恋することができる白鳥座の聖闘士。 彼も実は、なかなか一筋縄ではいかない聖闘士なのだった。 Fin.
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