サッカー部側に多少の誤解はあるにしても、十中八九 無理と思われた入部の希望が叶い、上機嫌で城戸邸に帰った瞬を出迎えたのは、グラード財団総帥にしてグラード学園高校理事、そしてノヴグラード学園高校理事でもある城戸沙織その人だった。
もちろん、女神アテナにして城戸家の現当主でもある彼女が、実際に瞬たちを玄関で出迎えたわけではない。
瞬たちの帰宅に気付いたメイドが、『お部屋で お嬢様が皆様をお待ちです』と、沙織の御意を伝えてきたのである。

さすがの瞬も、その言葉には一瞬ひるんだのだが、それでも すぐに顔にあげ、瞬は 仲間たちの先頭に立って、沙織の執務室に向かって歩き出した。
“一般的な男子”と“一般的な女子”の概念を超越した人間であるところの瞬と、そもそも純粋な人間ですらない女神アテナの直接対決が、聖域でも戦場でもない ここ城戸邸で繰り広げられることになるのかと戦々恐々しながら、瞬の仲間たちは瞬のあとに従ったのである。

「グラード学園から、連絡があったわ。あなたったら、一輝の振りをしてグラード学園に潜り込んでくれたそうね。そんなに星矢たちと一緒がよかったの」
ノヴグラード学園への男子入学志望者獲得計画を妨げられて、大いに機嫌を損ねているはずの沙織が 瞬に向けて発した第一声は、思いがけず穏やかなものだった。
というより、よりにもよって あの一輝――瞬とは似ても似つかない容姿と性格の持ち主を騙ることを思いつき、その思いつきを実際の行動に移してしまった瞬に、沙織は呆れ驚いていたのかもしれない。
「当たりまえです!」
むしろ、沙織の質問に答えた瞬の声の方が、いつもの瞬らしくなく、険しく挑戦的だった。

そんな瞬の様子を見て、沙織が溜め息を一つ洩らす。
しかし、なぜか彼女は その顔に微笑を浮かべていた。
戦場の外でも仲間と共に在ることを願う瞬の心を微笑ましく思っている微笑ではなく、大胆な入れ替わりを思いついた瞬の奇抜な発想に感心している微笑でもなく、とても楽しい計画を思いついた者の微笑――つまり、金のなる木を見付けて、やがて我が物になる多大な利益を想像するだに楽しくてたまらないと思っている者の微笑を。

沙織が浮かべている微笑は、アテナの聖闘士たちの目には そういうものに見えたし、実際 彼等の推測もしくは判断は正鵠を射たものだった。
沙織は、彼女の聖闘士たちに、笑顔で、
「確かに、女子校では、瞬の運動能力を 学校の名を売ることに有効利用することはできないわね。本当に、瞬ったら我儘なんだから。でも、瞬の気持ちを考えたら、それも当然のことだったのよね」
と、言ったのだから。

沙織は既に、グラード学園高校3年Aクラス在籍の城戸一輝が、一般的な高校生プレイヤーの持つ能力を超越した力を発揮して サッカー部への入部を許可されたことを知っているようだった。
さすがにグラード財団総帥は情報が早い。
彼女が並みの人間と違うところは、いち早く入手した情報を元に下す判断と決断もまた非常に早いこと。
そして、今回の彼女の素早い決断の内容は、
「今更、あれは一輝ではなかったと本当のことを言っても、清閑が保たれるべき学びの庭を混乱させるだけでしょう。瞬は、とりあえず 今月末の卒業式までは一輝の振りをして学校に通ってちょうだい。4月から2年生に転入できるように手配しておきます。今度は城戸瞬の名で。誰かに あらぬ疑いをかけられたら、歳の離れた双子ですとでも言っておけばいいわ」

『それはあらぬ・・・疑いではないだろう』とか『歳の離れた双子という説明に納得する馬鹿が どこにいるのか』とか『その馬鹿げた言い訳は、既にどこかで聞いたことがある』といった突っ込みを、瞬の仲間たちは口にすることができなかったのである。
「ほんとですか!」
アテナの素早い決断に 瞳を輝かせた瞬が、
「よかった! 氷河、星矢、紫龍、これで堂々と一緒に学校に行けるね!」
と、あまりに素直に喜んでみせるから。

心底から 沙織の決定を喜び、明るい笑顔を浮かべる瞬に水をさすような真似は、瞬の仲間たちには 到底できることではなかったのである。
実際、沙織の決断は実に妥当・適切で、現在の ややこしい事態を解決するためには、そうするより他に どんな方策もないように思われたから。


しかし。
『一輝が実は瞬』という ややこしい事態が、それで静かに解決・収束することはなかったのである。
サッカー部入部テストの際に瞬が見せた、超高校生級の運動能力と技術。
“一般的な男子”と“一般的な女子”の概念を超越した瞬の容姿。
普通の男子高校生らしくもなく、普通の女子高校生らしくもない瞬の敬語。
更には、(平時には)大人しく控え目に見える瞬の所作、態度。
そういった種々の要因のせいで、“一輝ちゃん”がグラード学園高校のアイドルになるのに、長い時間はかからなかった。

一般の家庭を含めたインターネットの普及率75パーセント。
これに携帯電話等のモバイル機器によってネットに接続可能な者を加えると、理屈の上では100パーセント以上の国民がネット接続可能な この現代。
情報の伝達時間は極端に短く、その伝播範囲は驚異的に広くなっている。
“(可愛い)一輝ちゃん”の情報は、グラード学園の公式サイト、複数の非公式サイト、果ては OB向けサイトにまで掲載転載され、“(可愛い)一輝ちゃん”の存在は、グラード学園高校始まって以来のスーパーアイドルとして、広く人々に知れ渡ることになった。
その結果、卒業式まで学校に来なくていいはずの3年生が こぞって登校を再開し、それだけでなく、多くのOBまでが、グラード学園高校不世出の超人気アイドルの見学に来る始末。
校内では、瞬がどこに行っても、『一輝ちゃーん、こっち向いてー!』の黄色い喚声が湧き起こり、それはアテナの聖闘士の力をもってしても静めることができなかった。
一応 3年生ということになっている瞬に対して、1年や2年の生徒たちまでが『一輝ちゃん、かわいー!』と、遠慮会釈もなく“ちゃん”づけなのである。
オトコが作る黄色い声を耳にするたび、氷河の機嫌はどんどん悪くなっていった。

氷河にとっては不都合なことに、彼等は、瞬の一挙手一投足に わーわーぎゃーぎゃー騒ぎはするのだが、決して 瞬に対して直接の接触を試みることをしなかった。
つまり、適度な距離を保ち、礼儀正しいファンの立場を逸脱することをしなかった。
瞬に危害を加えるわけでもなく、瞬(の偽り)の名を叫んで 色めき立っているだけの一般人を、さすがの氷河も殴り飛ばすわけにはいかない。
おかしな話ではあるが、彼等の分を踏まえた礼儀正しさが、氷河の気に障って仕方がなかったのである。

グラード学園高校のスーパーアイドル騒ぎに氷河の堪忍袋の緒が切れたのは、“(可愛い)一輝ちゃん”がグラード学園高校に編入して僅か4日後。
とはいえ、氷河は、瞬を『一輝ちゃん』と呼ぶ生徒たちへの暴力沙汰に及んだわけではなかった。
彼は、どこに行っても湧き起こる『一輝ちゃん』の声に苛立って、
「あまり目立つことをするな! おまえが偽物だということがばれたらどうするんだ!」
と、瞬を怒鳴りつけただけだった。
昼休み、瞬の希望で、アテナの聖闘士たちがグラード学園高校の中庭で弁当を食べている時に。

「氷河、声が大きい!」
氷河の その怒声が発せられたあとの星矢の制止に、どんな意味があっただろう。
意味があったとしても、それは遅きにすぎた。
瞬のストーカーは一人二人ではなく、数百人規模。
その数百人が聞いてしまったのだ。
『瞬は偽物だ』という、氷河の怒声を。
そして、氷河の怒声を聞いてしまった数百人は、氷河の言葉を、『“(可愛い)一輝ちゃん”は城戸一輝の偽物である』と解さずに、『“(可愛い)一輝ちゃん”は偽物の男子生徒だった』と解した。
つまり、グラード学園高校の数百人のストーカーたちは、瞬を女の子だと思い込んでしまったのである。

氷河が自身の迂闊な発言を後悔しても、すべては後の祭り。
その日その時から、その日その時までは適度な距離を保ち礼儀正しいアイドルファンだったグラード学園高校の生徒たちの態度は一変した。
瞬にお付き合いを申し込んでくる者多数。
ケータイナンバーやメールアドレスを尋ねてくる者多数。
ナンバーやアドレスを教えてもらえなかったので、ラブレターなどという古風な手段を採る者多数。
あわよくば、“(可愛い)一輝ちゃん”と親密な間柄に――と考える一般的な男子高校生たちが あふれかえっているグラード学園高校で、“(可愛い)一輝ちゃん”は はたして無事に この高校を卒業することができるのかと、星矢たちは本気で危ぶむことになってしまったのである。
“(可愛い女の子の)一輝ちゃん”に向かう熱狂が、アテナの結界 顔負けの強大さで、3月のグラード学園高校を覆い尽くしていた。






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