当人に直談判するために、その夜、氷河が向かった先は 瞬の部屋だった。 さすがに3年生の3月ともなると授業らしい授業も行なわれないのか、瞬が机の上に広げていたのはテキストやノートの類ではなく、どうやら瞬が編入する前に印刷所にまわされたらしい卒業アルバムのゲラ刷り。 その一枚一枚を憧憬の眼差しで見詰めていたらしい瞬を見て、氷河は、瞬が一般的な学校生活というものに心から憧れていた事実を思い知ることになったのである。 だが、今は、心を鬼にして現状打破に当たらなければならない時。 氷河は、胸中に生まれた瞬への憐憫の情を、あえて打ち消した。 「学校では大人気だな、瞬」 「え? あ、うん、でも、みんな礼儀正しくて、女子校での騒ぎの時より全然 気楽だよ」 「だが、俺は心配なんだ」 殊更 意味ありげな声音で低く囁きながら、氷河が、椅子に掛けている瞬の背後から、その右の手を瞬の肩の上に置く。 「心配って、何を心配することがあるの」 心配事を抱えているという仲間の方を振り返ろうとした瞬の動きを、瞬の肩の上に置いた手の力で遮って、氷河は瞬の耳許で囁いた。 「俺以外の誰かが、おまえを俺から奪っていくんじゃないかと」 「氷河、なに言ってるの。そんなこと あるはずが――」 「ないと、誰に言い切れる」 「あ……」 瞬の肩の上に置かれていた氷河の右手が、今は 瞬の首筋に触れている。 机の上にあった瞬の両手は、今は その膝の上にあり、瞬は怯え緊張したように、身体を縮こまらせていた。 「瞬。俺の気持ちは知ってるな?」 「え……?」 「知らなかったのなら、今 知ってくれ。そして、俺のものになってくれ」 「氷河……あの、そんな――」 「頼むから、俺を嫌いだなどとは言うな」 「ぼ……僕がそんなこと言うはずがないでしょう。で……でも、こんな急に、だめだよ」 「いつならいいというんだ。俺を嫌いでないのなら大人しくしていろ。そうすれば、俺も無体なことはしない」 言うなり 氷河が、瞬が掛けていた椅子ごと 瞬と瞬の身体を振り向かせる。 驚いて、仲間の顔を見上げた瞬の膝の後ろに左の手を滑り込ませて、氷河はそのまま瞬の身体を抱き上げた。 「あ……」 氷河に抱きかかえられた態勢で、瞬が氷河の瞳を見詰める。 まさか、白鳥座の聖闘士の持つ力を恐れたわけではないだろうが、瞬が氷河の腕と胸の中で、どんな抵抗も示そうとしなかったのは、紛れもない事実だった。 氷河は、その重要な事実に気付かぬまま、瞬の身体を瞬のベッドに運び、降ろした。 そして、彼は、そのまま瞬の身体の上に覆いかぶさっていったのである。 その時。 氷河が自らの身体の重みで、瞬の抵抗を(実際には、瞬は全く抵抗していなかったのだが)封じた、まさにその時だった。 秒速1000メートルのライフルの弾でも貫通不可能な防弾ガラスの窓を突き破って、鳳凰座の聖闘士が、絡み合う(?)二人の前に 颯爽と(?)姿を現わしたのは。 「氷河ーっ! 貴様、瞬に何をするつもりだーっ!」 「出たな、一輝!」 室内に響く、ムードも色気もない一輝の怒号。 瞬に身体を重ねていた氷河は、素早く その身体を起こし、憤怒の表情をした瞬の兄と正面から向かい合った。 「あたりまえだ! 我が最愛の弟の危機となれば、このフェニックス一輝、地獄の果てからでも駆けつけて、不埒な輩を 鳳凰の羽ばたき一つで――」 「ああ、わかっている。しまいまで言わなくていい。貴様が来てくれるのを待っていたんだ。今、グラード学園高校で、瞬が大変な危地に立たされている。この事態を解決できるのは、一輝、貴様をおいて他にはない」 「なに?」 氷河はいったい何を言っているのか。 彼は、邪まな欲望に突き動かされて、地上で最も清らかな人間の身体を その汚らわしい欲望で汚そうとしていたのではないのか。 決して そんな事態を望んでいたわけではないのだが、欲望の『よ』の字も知らないような顔で 瞬の兄の登場を歓迎してみせる氷河に、一輝は思い切り 気が抜けてしまったのである。 氷河が この暴挙に及んだ真の目的が理解できず、その場で ぽかんとしているばかりの一輝に、氷河が これまでの経緯を怒涛の勢いで説明し始める。 そして、氷河は、その勢いを減じることなく、一気に結論まで駆け抜けてしまったのだった。 「というわけで、一輝。この馬鹿げた事態を打破するには、本物の一輝であるおまえが、3年Aクラス在籍の城戸一輝として、グラード学園学校に行くしかないのだ!」 それで すぐさま、 「なんと、そんなことになっていたとは……! それは ゆゆしき事態だ。我が最愛の弟を 浅ましい目で見る身の程知らずな男共を、俺は すぐにでも鳳凰の羽ばたき一つで吹き飛ばしてやらねばならん!」 と応じてしまえるあたり、一輝もまた、さすがはアテナの聖闘士というべきか。 その場でただひとり、氷河に襲われ損ねた瞬だけが、事の次第を把握しきれないまま、ベッドの上で きょとんとしていた。 「あの……氷河……」 やがて何とか気を取り直した瞬が、真剣な顔で“(可愛い)一輝ちゃん”騒動収束のための対応策を練っている兄と氷河の間に、恐る恐る割り込んでいく。 「もしかして、氷河は、一輝兄さんを呼ぶために、僕にあんなことをしたの?」 「ん? ああ。この騒ぎは、一輝当人に登場してもらわない限り収まりそうにないと思ったんでな。俺がおまえに乱暴なんかするわけないだろう」 瞬に、先程の暴挙の理由を告げる氷河は、困惑顔の瞬を振り向きもせず、注意深く 瞬の兄の顔色を窺っている。 「それはそうだけど……でも……」 氷河のその態度は、少なからず瞬の心を傷付けるものだった。 が、氷河は、彼の不快の素を絶つ計画に夢中で、瞬の傷心に気付かない。 「一輝、頼むぞ。この事態を解決できるのは、おまえしかいない。瞬のためだ。瞬の男としてのプライドと貞操を守るため。その上、この問題には 一輝という名の男の名誉もかかっている。このままでは、一輝という名を冠した男は世界一 可愛い男の娘どころか、世界一可愛い女の子のレッテルを貼られてしまいかねないんだ」 はたして一輝が『男の 「あの……氷河……」 「うむ。このフェニックス一輝が女子と思われるなど、天地が引っくり返っても あってはならんことだ」 問題は、やはり、たった今 瞬のベッドの上にいるというのに、氷河が全く瞬を見ていないということの方だったろう。 「そうとも。そんなことは、決してあってはならぬことだ。フェニックス一輝は男の中の男、この地上で最も男らしい男でなければならん。その事実を証明するためにも、真の城戸一輝として、あの馬鹿野郎共に、おまえの男らしさを思い切り 見せつけてやってくれ。そうすれば、“可愛い一輝ちゃん”にイカれた阿呆共も、尻に帆をかけて逃げ出すことだろう」 「ね、氷河。僕……ほんとは氷河となら――」 「瞬、いい兄を持ったな。これで、おまえは、あの不気味な黄色い声から解放されることになる」 「そんなことはどうでもよくて、ねえ、氷河ってば」 「ところで、一輝。この馬鹿げた事態を 迅速かつ効果的に解消するには、劇的な演出が必要だと、俺は思うんだ。そこで、当日 おまえが着ていく服のことなんだが――」 「……」 完全に氷河に無視された 瞬は そのまま部屋のドアに向かって歩き出したのだが、氷河は相変わらず 瞬の動向には無関心で、瞬の兄とのディスカッションを継続中。 『今すぐ振り向いて』と胸中で願い、『今すぐ振り向いてくれたら、この無礼を許してあげてもいい』と寛大にも考えていたのに、結局 瞬は その切なる願いを完璧に無視されてしまったのである。 部屋のドアに手をかけるまでは なんとか眉を吊り上げていることもできたのだが、ドアを開け廊下に出た途端、瞬の気丈は続かなくなった。 「あれ、瞬。おまえ、こんなとこで何してんだよ」 「瞬、何かあったのか? おまえ、泣きそうな顔をしているぞ?」 ちょうど そこに来合わせた星矢と紫龍に尋ねられたのが合図だったかのように、瞬の涙腺が崩壊する。 「氷河は……氷河は、僕のことなんかどうでもいいんだ……! 僕のこと無視して、兄さんとばっかり……!」 「へ?」 「氷河が一輝のことばかり?」 それはいったいどういう事態なのかと、星矢と紫龍が問い返す前に、瞬は星矢にしがみついて盛大に泣きじゃくり始めた。 「僕、もう、氷河のことなんか知らない! 氷河のことなんか、死ぬまで知らないんだから……!」 いったい何がどうなって こういうことになったのかは わからなかったが、『悪いのは氷河だ』という一点にだけは、星矢も紫龍も疑念を抱くことをしなかったのである。 |