「そんなことはないわ。少なくとも 一輝は、あなたがいたから、どんなに苦しくても、どんなにつらくても、この島で生き延びることができたのよ。あなたがいなかったら、この島に来て半年もしないうちに、一輝は死んでしまっていたでしょう」 問われたことに短い答えを返してくれることはあっても、それまで 瞬の話に ほとんど口を挟まずに優しく、時には気遣わしげに、瞬の告白を聞いてくれていた人が、ふいに、初めて彼女の意見らしい意見を口にする。 瞬は、はっとして、その顔をあげた。 この島で、兄は6年もの時間を過ごしたのである。 地獄の島が、いかに急激な変化を遂げているといっても、この島に兄を知っている者がいるのは、不思議なことでも何でもない。 所作が 穏やかで控え目なので、瞬は勝手に 彼女を自分より大人の女性と思っていたのだが、彼女は見ようによっては少女と言っていいような華奢な手足の持ち主だった。 兄より少しばかり年下――だろうか。 兄がこの島にいた頃には、確実に“少女”と言っていい年齢だっただろう。 当時の記憶を残していられるほどの年齢には達した、美しい少女だったろう――。 「あなたは、僕の兄さんを知っているの? あの……あの……もし違っていたら、ごめんなさい。あなたは、もしかしたら、エスメラルダさんと ご縁のある方?」 過去のことは――特につらかったことや苦しかったことは人に話したがらない兄が、一度だけ、心の奥底に大事にしまっていた宝物を取り出してみせるように、デスクィーン島で出会った心優しい少女のことを、瞬に語ってくれたことがあった。 兄が その少女をどれほど大切に思い 愛しく思っていたのかが、一目でわかる眼差しで。 そして、今でも どれほど大切に思い 愛しく思っているのかを、問わずとも わかる響きの声で。 兄にこれほど優しく深く温かい表情を浮かべさせることのできる人間が この地上に存在することを、瞬は考えたこともなかった。 心優しく、清らかで、可憐。 野に咲く小さな花が 強い風に打たれ揺れるように、自らの薄幸に耐える健気な少女。 兄が心惹かれ、忘れられないのも当然のことと思い、瞬が憧憬の念すら抱いた その少女。 兄の宝物の名を――永遠に失われてしまった兄の宝石の名を、瞬は口の端にのぼらせた。 瞬が問うたことに、彼女は答えなかった。 ただ切なげに微笑んで、彼女は、その白い手と指で、瞬の背後にある何かを指し示した。 「え?」 振り返った瞬は、そこに、思いがけない人の姿を見い出すことになったのである。 この島のことは、名すら憶えていないだろうと思っていた人。 雪と氷でできた純白の世界に在ることはふさわしいが、熱く乾いた砂埃の舞う土地に 自ら足を踏み入れることなど考えもしないだろう(と、瞬が思い込んでいた)氷雪の聖闘士がそこにいた。 瞬はすぐに その場から――というより、氷河の前から――逃げようとしたのである。 瞬がそうすることができなかったのは、瞬が立っている場所が 海に突き出た岸壁の端だったからだった。 「瞬!」 そういえば、たった今まで自分の長い告白を聞いてくれていた人は、島の外からやってきた人間の自殺を心配して見知らぬ異邦人に声をかけてくれたのだった。 その事実を思い出し、自分に逃げ道があることに、瞬は気付いた。 ここから海に飛び込んでも、この程度の高さなら、聖闘士である自分が死ぬことはない。 自分には海という逃げ道がある。 瞬が、そう判断した瞬間に、 「逃げるな!」 という氷河の鋭い声が、海風に逆らって瞬の許に届けられる。 瞬が動きを封じられてしまったのは、だが、氷河のその鋭い声のせいではなかった。 そうではなく―― 一瞬、その鋭い声に ひるんだ瞬の手足に絡みつくように響いてきた氷河の懇願のせいだった。 「逃げるな。逃げて、これ以上に、俺をみじめな男にしないでくれ」 「ど……どうして、氷河が みじめになんかなるの」 弱く無力なせいで人の負担になることしかできないという事実だけならまだしも、周囲の人間の心を思い遣ることもできない最低の人間と共にいることは 氷河のためにならないと考えて、氷河の幸福のために、瞬は彼の前から姿を消したのである。 氷河が、それで、より恵まれた人間、より幸福な人間になることはあっても、みじめな人間になることなどありえないことのはずだった。 瞬は、そう思っていた――信じていた。 瞬が そう信じていることを察したらしい氷河が、ひどく情けなさそうな顔をして、深い溜め息を一つ洩らす。 「熱愛する恋人に逃げられて、楽しい気分になる人間がいると思うのか?」 「そ……れは、人と場合によるでしょう。誰だって、僕みたいな疫病神からは離れられた方がいいに決まってる」 「悪いが、今はおまえの与太話を聞く気にはなれない。先に俺の話を聞け」 「氷河に何を言われても、僕は――」 氷河に何を言われても、瞬は自分の決意を翻すつもりはなかった。 氷河がどう思おうと、これは氷河のためになることなのだ。 瞬はそう思っていた。 が、どうやら瞬とは異なる考えでいるらしい氷河は、瞬の反駁を遮って、彼の話を始めてしまったのである。 そのせいで、瞬は、氷河の前から逃げ出すことができなくなった。 「おまえが誰に何を言われて、こんなところに来たのかは知らないが、ある人から、おまえに『ごめんなさい』と伝えてくれと頼まれた。おまえを傷付けるつもりはなかったと。彼女は、薄々 俺たちのことに気付いていたらしい。その推察の真偽を確かめるために、俺が好きなのが誰なのかということを、おまえに訊いたんだそうだ」 瞬は、力無く首を横に振って、その顔を伏せた。 「氷河には、僕より彼女の方が――」 「あいにく、俺が好きなのはおまえだ。おまえだけだ」 「氷河……」 自分には人に愛される価値があるのだと信じ思い上がっていられたなら、氷河のその断言を、自分は どれほど嬉しく思うことができていただろう――。 氷河の断言を無邪気に喜ぶことのできる自分を想像して、瞬は一瞬 嬉しさのあまり気が遠くなりそうになってしまったのである。 それは、空しい想像でしかなかったが。 そんなことは 絶対に あってはならないことなのだ。 氷河のその言葉を受け入れ、喜んでしまったら、自分たちは二人して彼女の心を傷付けることになってしまう。 氷河はなぜ そんな残酷なことを――彼女にとっても、氷河のために身を引こうとした人間にとっても残酷なことを――平然と口にしてしまえるのかと、瞬は胸中で彼を恨んでしまったのである。 「俺をひどい男だと思うのか」 日常の様々な場面において、おそらくは無関心のせいで鈍感でいることの多い氷河が、こういう場面でだけ、ひどく勘がいい。 瞬が言葉にはしなかった思いを的確に言い当てて、氷河は瞬の立っている場所まで、ゆっくりと――おそらくは、急ぎすぎて、追い詰められている人間を怯えさせることがないようにと考えて、ゆっくりと――歩み寄ってきた。 「だが、俺は、法的社会的に俺に与えられた権利を行使しているだけだ。個々人の生命、自由及び幸福追求に関する権利は、公共の福祉に反しない限り、最大限に尊重されるべきものと、俺たちの国の憲法は謳っている。俺は、俺の幸福を守ろうとしているだけだ。俺の幸せは、おまえが俺の側で幸せにしていてくれることだからな」 氷河の言葉に、瞬は首を横に振った。 瞬が氷河の許から逃げ出したのは、それが公共の福祉に反することだからではなく、人の心を傷付け悲しませることだからだったのだ。 それは、法の問題ではなく、人の心や感情の問題だった。 「僕はもう、氷河の側で幸せでいることなんかできないよ」 「なぜだ」 「だって、僕が幸せになると、そのせいで不幸になる人がいるんだもの……」 氷河は、自分の幸福が 自分以外の他者の不幸の上に成り立っていることに耐えることができるのだろうか――平気でいることができるのだろうか。 瞬は、氷河の心を訝った。 氷河には耐えられることであったとしても、だが、それは瞬には耐えられないことだったのである。 これ以上、自分のせいで傷付く人を見たくない。 その人が、苦難に耐え得る強靭な肉体と精神力を備えていない善良で か弱い一般人なら、なおさら。 が、氷河は、瞬のそんな考えに賛同してはくれなかった。 「考えすぎだ。あるいは、考えが足りなさすぎる。そんなことは、おまえは考えなくていいことだ。どうしても考えずにいられないというのなら、もっと徹底的に、広く深く長く考えろ。せめて、彼女に いずれ、俺なんかと くっつかなくてよかったと思う日がくるかもしれないというところまで考えてほしいものだな」 「そ……そんなこと……。彼女が傷付いているのは、そんな未来じゃなく、今でしょう」 「今のことだけ考えてどうするんだ。人間は他の動物と違って時間の観念を持っている。“今”しかない動物と違って、過去や未来を考えることができるのが人間だ。その能力を使わないでどうするんだ。人生は塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとし。何が人間を真の幸福に至らせることになるのかは簡単にわかることじゃない。短絡的に考えるのは危険だ」 「でも、今 彼女が悲しくて苦しいのは事実――」 「だから、短絡的に考えるなと言っているだろう。だいたい、おまえは、うぬぼれが過ぎる。人が そう簡単に人を不幸にできると思うな。たとえ一時期、誰かを苦しめ、悲しませることができたとしても、それは 「え……」 彼女は、実際に そう言ったのだろう。 胸の痛みに耐え、涙を隠し、氷河のために――氷河の幸せのために。 瞬は、氷河に伝えられた彼女の言葉を聞いて、泣きたくなってしまったのである。 彼女の強さに、自分の弱さを比べて。 彼女の強く美しい心に、自分の弱く醜い心を比べて。 彼女は、氷河のため、氷河に幸せになってもらうために、恋から身を引くことを考えたのだろう。 だが、瞬が氷河の許から逃げ出したのは、氷河の幸福を願ったからではなく、瞬自身が幸福になるためだった。 自分のせいで傷付く人がいないことが、瞬の幸福だった。 氷河の許を去る時、瞬は、氷河の幸福のことなど全く考えていなかった。 「誰もが皆、それぞれに、自分が幸福になるために頑張っている。人間の力を見くびるな。誰もが、おまえより強い。少なくとも、俺や彼女から逃げ出した 今のおまえより強い」 「僕は……」 瞬に何を言うことができただろう。 正しい事実をしか言っていない氷河に対して。 自分の弱さと醜さが悲しくて、瞳が涙でいっぱいになってしまった今の瞬にできることは、自分でも情けないほど か細い声で、 「氷河は、そんな僕が好きなの?」 と、氷河に尋ねることだけだったのである。 氷河がただの一瞬も迷った様子もなく、瞬に頷いてくる。 「好きだな。おまえは、人の痛みを自分の痛みのように感じることができる 想像力と優しさと強さを持っている。おまえを失った俺の気持ちを想像して、もう少し慎重に振舞ってくれたら完璧だったんだが、まあ、人間というものは不完全な生き物だ。おまえに欠けている部分は 俺が補ってやるから、安心して俺のところに戻ってこい」 「氷河……でも……」 「おまえは馬鹿じゃない。今 自分がどう振舞えば、より多くの人間が幸福になれるかは わかっているな? おまえが このまま帰らなかったら、俺は おまえに振られた みじめな失恋男になり、星矢たちは大切な仲間を失うことになる。俺より いい男を掴まえてみせると張り切っている彼女も、後味の悪い思いをすることになるだろう」 「そう……なのかもしれない。氷河の言う通りなのかもしれない。でも、僕は――」 氷河の言うことはわかるのである。 氷河の言う通りにすることが、最も多くの人を幸福にする最善の策なのだろうということは。 それでも尻込みをせずにいられないのは、どうしても前に進む最初の一歩を踏み出す勇気を持つことができないのは、瞬が、自分を 幸福になる権利を持たない人間だと思っているからだった。 そして、瞬がそう思わずにいられないのは――。 「おまえは大きな勘違いをしている。本当に、おまえが お荷物だったら、一輝だって、いつでも おまえを捨てることができたんだ。一輝がそうしなかったのは、奴がおまえを大切に思っていて、奴には おまえが必要で、そして、奴が おまえを好きだったからだ。おまえには、そうするだけの価値があると、おまえは優しく強くなれる人間だと、一輝は信じていた―― 一輝は おまえの可能性を信じていた。おまえがすべきことは、逃げることでも、詫びることでも、卑屈になることでもない。これまで おまえを支え守ってくれていた一輝に感謝して、奴の期待に応えることだ」 日常の様々な場面において、おそらくは無関心のせいで鈍感でいることの多い氷河が、こういう場面でだけは、ひどく勘がいい。 人の心を読む力を持っているのではないかと疑いたくなるほど、氷河は 瞬の心を知っていた。 もちろん、氷河がそんな力を持っているはずはなく――それは、氷河がいつも瞬を見ているから気付き察することのできた事実なのだろうが。 いずれにしても、瞬は、氷河に心を読まれたことに驚いている余裕はなかった。 氷河が告げた言葉に、瞬は それほど驚いたのである。 「に……兄さんが、僕を好き? 僕の可能性を信じてくれている……? あの……本当に?」 「本当に決まってるだろ。今度、聞いてみろ。奴が素直に答えるとも思えんが、最後には きっと、本当のことを白状する」 「あ……」 氷河の言うことは、おそらく事実なのだろう。 関心を持てないことには、時に冷酷に思えるほど鈍感で無感動な氷河。 しかし 彼は、彼が関心を持っていることに対しては、超人的といっていいほど鋭く 正確無比な観察眼と判断力を発揮する。 「ぼ……僕は――ずっと僕は兄さんのお荷物なんだと思ってたんだ。僕が、兄さんから自由を奪って、兄さんを苦しめて、そして……そう、僕が兄さんから兄さんの幸福追求の権利を奪っているんだと思ってた。僕がいなかったら、兄さんはもっと自由に生きられて、もっと幸福にもなれていて――」 「一輝には、おまえこそが生きる力の源だった。おまえがいたから、おまえのために強くなろうと思うこともできた。おまえがいなかったら、奴は、この島に送られる何年も前に くたばってしまっていただろう。この島に送られるまで生きていられたとしても、おまえと再会することへの執念なしで、奴が この島で生き延びることができていたとは思えない。まあ、もってせいぜい半年だったろうな」 これまで瞬の話を聞いてくれていた人と同じことを、氷河が言う。 この島で兄が生き延びられたであろう期間の見積もりまでが合致していることに驚いて、そして、瞬は、つい くすりと笑ってしまったのである。 そういう見方が、一般的で普通なのだろうか――と。 あの兄でも、支えとなる誰かが必要だったのだろうか。 それが、彼の非力な弟だったのだろうか。 そうだったのかもしれないと、瞬は思ったのである。 殺生谷以来、兄に妙な対抗意識を持っているらしい氷河が そう断言し、兄弟の関係がどうなろうと益も損も受けない第三者までが そう言ってくれているのだ。 立場の異なる二人の人間の共通認識を疑う理由はどこにもない。 氷河が、僅かに明るさを取り戻した瞬の瞳を見て、少々 わざとらしい溜め息をつく。 「多分、それが おまえの自己卑下の原因なんだろうとは思っていたが……。自分が一輝にとって どういうものなのかということが、おまえには それほど重要なことなのか? 事の発端は、俺とおまえの痴情のもつれ――いや、誤解だというのに、その傷心を癒すために おまえが向かう先がデスクィーン島とは。自信をなくすな」 「だって……」 「まあ、そのうち、喧嘩をした時には、おまえがシベリアを家出先に選ぶようにしてやるさ。おまえが、俺と俺に つながるものにしか考えが及ばないようにしてやる」 「あの……夏場だったら、僕、シベリアに行っていたかもしれないよ」 まさか氷河が そんなところに引っかかり拗ねてしまうとは思ってもいなかった瞬が、あまり自信なさげに そう告げると、氷河は両の肩をすくめて、 「無理をするな」 と、ぼやくように言った。 瞬は、決して嘘をついたつもりはなかったので、氷河に そう訴えようとしたのだが、氷河は別の質問をすることで、瞬の弁解を遮った。 「おまえはどうしたい? おまえの本当の望みは何だ」 「僕は、氷河の側にいたい」 それが自分の本当の――心からの願いだということは疑いを挟む余地のない事実で、それが嘘でないことには自信がある。 迷いのない瞬の即答を聞くと、氷河は嬉しそうに明るい笑顔を作った。 「おまえは正直だ。それもおまえの美点だな」 『無理をして嘘をつくな』と言った舌の根も乾かないうちに、瞬の正直を褒めてのける氷河の変わり身の早さは、氷河の美点なのだろう。 今の瞬は、何よりも、氷河に笑顔を作らせる力が自分にあるという事実が嬉しかった。 氷河に このまま抱きついてしまいたいほどに。 が、さすがに今、この場でそれはまずいだろうという分別が、瞬を思いとどまらせた。 |