「今度の月曜日、花見に行こうぜ、花見!」 星矢が突然 そんな提案をしてきたのは、彼が春の陽気に浮かれたせいではなかっただろう。 無論、他国では例を見ない天気予報――すなわち、桜前線が関東に迫りつつあるというニュースに接したからでもない。 ましてや、桜を見たいなどという ありきたりな理由であるはずもなかった。 星矢に花見なるイベントの計画を思いつかせたものは、人間の人生において 愛と希望に次いで重要な要素。 つまり“食べ物”だった。 それも、焼きそば、たこ焼き、綿菓子、りんご飴、イカ焼き、花見団子等、B級グルメという分類に含むことが許されるかどうかさえ怪しい 屋台売りのジャンクフードの類。 そうであろうと、氷河は察した。氷河以外の星矢の仲間たちも、おそらく。 今日時点で、関東の桜はまだ二分咲き。 関東より西の桜の名所で人々が満開の桜の下に繰り出し 浮かれ騒ぐ様が、城戸邸ラウンジにあるテレビ用50インチプロジェクターに映し出されていたのが5分前。 星矢がその時事ニュース(?)に触発されて、花見なるイベントの計画を思いついたことは明白。 月曜と指定したのは、土日よりは平日の方が 人出が少ないだろうという、星矢なりの状況判断によるものだったろう。 星矢の選んだ花見の日程は、最も美しい桜を見ることのできる日ではなく、最も人出が少ないと思われる日。 彼の計画の動機が、桜の花を愛でるという風流なものでないことは 火を見るより明らかだった。 だからというわけではなかったのだが、氷河は、星矢の提案を にべもなく却下したのである。 「おまえは今のニュース映像を見なかったのか? 花見と言いながら、花を見ている人間は皆無という、矛盾を極めた映像を。その上、連休中の高速道路もかくやといわんばかりの人の渋滞。桜の木の下にいるのは、赤ら顔の酔っ払いと、カラオケに興じる馬鹿者共ばかり。俺は、自分を日本人だと思っているし、自分が日本人であることに誇りも持っているが、へべれけの酔っ払いを許す日本人の寛容さだけは理解できない。酔っ払いに ここまで寛大な国は、世界広しといえど日本だけだ。水よりウォッカの消費量が多いロシアでも、屋外であれほど酔っ払って それを恥と思わない人間はいない。泥酔している者を非難する人間はいても、許容する人間はいない。まして欧州で あんな酔っ払いが街中に出現したら、その男は、人に不快感を与え、しかも今夜抱く恋人もいない、最底辺に属する哀れな輩と見なされる。まったく、誰が花見なんて馬鹿げたことを始めたんだ。花の下なら何をしても許されるとばかりに、食い、飲み、踊り、歌い、わめく、低俗下劣なイベントを! あんな連中がひしめき合っているところに行くくらいなら、いっそ、沙織さんに頼んで、城戸邸の庭に桜の樹を1本 植えてもらって、それを鑑賞していた方がどれだけましか知れん!」 花見は、花を見るイベントではなく、もちろん酒を飲んでカラオケをがなりたてるイベントでもなく、焼きそばを食べ、たこ焼きを食べ、綿菓子にかぶりつき、りんご飴を食べ、イカ焼きを食べ、花見団子の味を堪能するイベントと信じている星矢が、氷河の長広舌の反対意見に うんざりしたような顔になる。 否、星矢はむしろ、花見に対する氷河の見解が全く理解できないと言わんばかりの顔になった。 この城戸邸の庭に桜の樹があっても、そこに焼きそばと たこ焼きと 綿菓子と りんご飴と イカ焼きと 花見団子を売る屋台がないのでは、何の意味もない。 星矢の定義では、焼きそばを売る屋台のない場所での花見は花見ではなかった。 星矢はそう信じているようだった。 が、そんな星矢でも、焼きそばを売る屋台さえあれば花見というイベントが成立するという考えは抱いていなかったらしく――花見は一人で行くものではなく、仲間たちと繰り出すものという考えでいたらしく――氷河の花見不参加の意思表明は、彼の計画の出鼻をくじくものではあったらしい。 その証拠に、星矢は、『なら、一人で行く』と言い出すことはしなかった。 とはいえ、屋台のある場所での花見には行きたい。 その計画を、氷河の反対で断念するのは癪である。 『諦め』という単語の載っていない辞書の持ち主である星矢は、その辞書の内容を現実に即したものにする術を思いつけない自分に苛立ったように、仲間たちの前で口をとがらせた。 真っ向から対立している二人の間で、紫龍が呆れたような苦笑を浮かべる。 「日本で初めて 「傍迷惑な話だ」 「しかし、花のあるところに出掛けていくくらいなら 庭に桜を持ってきた方がいいという おまえの発想は、その傍迷惑な嵯峨天皇と全く同じだぞ」 「なに?」 「嵯峨天皇は、嵯峨院の大沢池に桜の樹を植えて、日本最古の人工庭園を造るということもしている。それまでは、都が奈良にあったこともあって、宮廷の貴族たちは、山に自然に咲く桜を遠目に愛でるだけだったそうなんだが」 「人工の庭に桜ね。風流なんだか、不粋なんだか」 「その風流なのか不粋なのかわからない やり方が、おまえの発想と同じだと言ったんだが、聞こえなかったか」 皮肉の念押しをしてくる紫龍を、氷河が ぎろりと睨みつける。 氷河には もちろん、紫龍の声も言葉も聞こえていた。 彼はただ、花見などという馬鹿げたイベントの発案者と自分が同レベルだということを認めないために、仲間の発言を無視しただけだった。 自分が話を振ったにもかかわらず、花見の起源がどこにあろうと、その発案者のレベルがどの程度のものであろうと、そんなことはどうでもいいと、実は氷河は思っていた。 彼はただ、花見客という名の酔っ払いが ひしめき合っている屋外宴会場に足を踏み入れたくないだけだったのだ。 そんな場所に、瞬を連れていくことは絶対にできないと思っているだけだった。 が、そんな氷河の耳に、あろうことか、瞬の、 「そう、氷河、お花見、好きじゃないの……」 という、少々 沈んだ声が飛び込んでいたのである。 「なに?」 それは、『あんな馬鹿者だらけの場所には、瞬も行きたくないに違いない』と決めつけていた氷河を 驚き慌てさせるに十分な力を有した声で、実際に氷河は 大いに驚き慌てたのである。 驚き慌てすぎて、驚き慌てた表情を作ることもできないほどに。 「そうだね。日本のお花見は桜より人を見に行くようなものだものね……」 氷河の当惑――むしろ混乱――に気付いた様子もなく、氷河の目の前で、瞬がしょんぼりと両の肩を落とす。 氷河は ますます驚き慌てて、その顔を強張らせることになった。 これは、氷河には想定外のことだった。 瞬は、どうやら 星矢の提案に乗り気でいたらしい。 「あーあ。氷河が瞬を泣かせた」 今にも 担任教師の許に 氷河の非道を告げ口に行きそうな小学生のような口調で、星矢が氷河を責めてくる。 その声を聞いて、瞬は、伏せかけていた顔をあげ、大きく左右に首を振った。 「やだ、僕、泣いてなんかいないよ。こんなことで泣くわけないでしょう」 「んじゃ、訂正。氷河が瞬をいじめた」 どうあっても氷河を 仲間をいじめ泣かせる悪党に仕立て上げたいらしい星矢の前で、瞬が長い吐息を洩らす。 これが6、7年も前の、皆が幼い子供だった頃のことであったらともかく今――もはや誰も幼い子供とは呼べない年齢に達した今――、聖闘士と聖闘士の間で 泣かせたもいじめたもあったものではない。 星矢は単にこの状況を茶化しているだけなのだと悟り、瞬は真面目に星矢の相手をするのをやめたようだった。 それは賢明な判断だったろう。 瞬の溜め息で、星矢は、氷河をいじめっ子に仕立て上げる遊びを中断せざるを得なくなったのだから。 が、いじめっ子にされずに済んだからといって、氷河は 自分が窮地を切り抜けられたと思うことはできなかったのである。 瞬が、もしかしたら自分のせいで落胆消沈しているのだ。 自分が、もしかしたら瞬の心を沈ませてしまったのである。 これが窮地でなかったら、何が窮地だというのか。 水瓶座アクエリアスのカミュにフリージングコフィンを二重三重に撃ち込まれるより更に危うい状況に、今 自分は立たされていると、氷河は思った。 カミュの凍気からなら 瞬が救い出してくれるが、瞬の落胆から白鳥座の聖闘士を救い出せる人間は、この地上には存在しないのだ。 「瞬、おまえは花見に行きたかったのか?」 あえて何気ないふうを装い、だが、実のところは恐る恐る、氷河は瞬に尋ねてみたのである。 「……そういうわけじゃないよ」 あまり覇気があるとはいえない笑顔で そう答える瞬を見て、氷河は その事実を知った。 瞬は、花見に行きたかったのだ。 白鳥座の聖闘士が低俗下劣と断じた、馬鹿げたイベントに。 そこに星矢と紫龍がいさえしなかったなら、氷河はすぐさま その場で、 『いやー、奇遇だな。実は俺も花見に行きたいと思っていたんだ。桜を見ずに日本の春は始まらないからな』 くらいのことは、白々しく言ってのけていただろう。 が、実に残念なことに、そこには星矢と紫龍がいた。 そして、彼等は、瞬とは違って素直な人間ではない。 彼等が、仲間の白々しい前言撤回で、先ほどの白鳥座の聖闘士の花見否定の大演説を忘れてくれる親切心を かけらほどにも持ち合わせていない友人たちであることを、氷河はよく知っていた。 が、だからといって、がっかりして肩を落としている瞬を、そのままにしておくこともできない。 かくして氷河は、星矢と紫龍に日和見主義の ご都合主義のと馬鹿にされることなく――つまりは、男の沽券を保った上で、瞬の望みを叶えなければならないという、実に難しい対応を迫られることになってしまったのである。 |