瞬には瞬の決意があり、氷河には氷河の未練がある。 そして、女神アテナにしてグラード財団総帥である沙織には、その肩書きゆえ立場と都合というものがあったらしい。 自身の無思慮のせいで瞬とのデートの機会を失ってしまった傷心から立ち直りきれていない氷河の耳に、 「えーっ、問答無用でどっちかかよ!」 という星矢の怒鳴り声が飛び込んできたのは、翌日の午後。白鳥座の聖闘士がラウンジのドアを開けた、まさに その瞬間。 どうやらグラード財団総帥は、彼女の立場を守るため、昨日の“依頼”を“命令”に変えることにしたようだった。 「私が二人だけに仕事を頼むから、あなたたちは私の頼みから逃げようとするんでしょう? だから、私は あなたたちの逃げ道をふさぐことにしたのよ。どちらも春ならではの風流なイベントなのだから、文句は言わせないわ。あなたたちは、二人ずつ二手に分かれて、どちらかのイベントに参加すること。誰がどちらに行くかは、あなたたちが好きに決めていいわ」 察するに、沙織は、四人いる青銅聖闘士たちの中の二人に作業を割り振るという不公平を避けるべく――つまりは、四人全員に何らかの仕事をさせるために――残り二人分の仕事を探してきたらしい。 そして、面倒な お務めから逃げ切るつもりでいた星矢は、その逃げ道をふさぐという沙織の やり方に不満たらたらでいる――ということのようだった。 「俺だって、いろいろ忙しいのに、仕方ねーなー。瞬、考え直して、俺と一緒に、その西郷さんだか失業さんだかの お能を観に行こうぜ。退屈で理解不能で苦痛以外の何物でもない試練に耐えるのは、やっぱ年少者の勤めだろうし。舞台が はねたあと、スーパースペシャルデラックス弁当がつくそうだから、俺、それを心の支えに何とか寝ずに頑張ってみるからさ」 自分だけが アテナの与える試練から逃れることは不可能と悟ったらしい星矢が、瞬を“西行桜”観能コースに誘う。 「あ、でも、僕はどっちかっていうと――」 一度は失われた、瞬とのデートの夢。 そこに再び天から降ってきた起死回生のチャンス。地から湧いてきた敗者復活の場。 ここで瞬の同伴者の役を星矢に奪われてしまっては、天にも地にも申し訳が立たない。 ――と、そんな殊勝な考えを氷河が抱いたかどうかは定かではない。 定かではなかったが、ともかく彼が 瞬の同伴者の役を星矢に奪われてはならないと咄嗟に判断し、 「俺が、瞬と行く! 沙織さん、ぜひ俺を瞬と一緒に行かせてくれ!」 と訴えて、沙織の前に飛び出ていったのは紛れもない事実だった。 血相を変えた氷河の直訴に、沙織が 一瞬 驚いたように目をみはる。 「まあ、瞬が奉仕活動に志願するのは わかるけど、氷河までが娯楽より奉仕活動の方を選ぶなんて、いったいどうしたっていうの。人類滅亡の時が迫っているのかしら」 それは誰がどう考えても、地上の平和と安寧のために戦う女神が言っていい冗談ではなかった。 その冗談を最後まで言い終えてしまってから、自らの不謹慎に気付いたらしい沙織が、白々しい態度で 場を取り繕う。 「あ、もちろん褒めているのよ。なんて立派なボランティア精神かしらって。じゃあ、ごみ拾いボランティアは瞬と氷河。西行桜は星矢と紫龍でいいかしら」 「なに? ごみ拾いボランティア?」 能楽では とんと聞いたことのない演目である。 沙織が彼女の青銅聖闘士たちのために用意したのは、観能コースを二つではなく、観能コースと狂言コースだったのだろうかと、氷河は訝ることになった。 もっとも、氷河の中に生まれた疑念はすぐに――数秒後には消えてしまったのだが。 氷河は決して日本の伝統芸能に つまびらかな方ではなかったが、その氷河にも、能にしろ狂言にしろ浄瑠璃にしろ、『ごみ拾いボランティア』などという演目があるという話は ついぞ聞いたことがなかったのである。 女神と仲間たちの前で顔を歪めた氷河のために、沙織は 彼女が用意した二人一組2コースの“お務め”の内容を説明してくれた。 つまりは、こういうことのようだった。 沙織は、彼女と彼女の連れの代わりに『西行桜』を観に行く人間を二人必要としていた。 そこに更に、城戸邸の近所の桜のある公園の花見シーズン後のゴミ拾いボランティアに、各家庭から割り当て分の人間を出すようにという、町内会からのお達しがあった。 敷地面積によって決められたのか、住人数によって決められたのかはわからないが、城戸邸から出さなければならない人員は二名。 ちょうど四人の人材が必要になった沙織は、彼女の聖闘士四人に 二つの仕事のどれかをするようにと命令を下した。 能が終わったあとにスーパースペシャルデラックス弁当が出ると聞いた星矢は、昨日の意見を撤回し、観能希望。 瞬は、観能より奉仕活動の方にやり甲斐を感じたらしく、ごみ拾いボランティア希望。 そこに、瞬と共にごみ拾いボランティアへの参加を希望する白鳥座の聖闘士が飛び込んできた――ということらしい。 もちろん、氷河の本来の希望は、あくまでも瞬との花見を兼ねた観能デートだった。 そのつもりで、氷河は瞬との同行を志願したのである。 彼は奉仕の精神なるものを あまり持ち合わせてはいなかったし、まして それが ロマンもなければムードもなく、美的ですらない作業となれば、平生の彼なら、ごみ拾いボランティアなどという仕事からは積極的に逃避する方向に動いていたはずだった。 だが。 「んな仕事に自分から志願する奴の気が知れねーぜ。ごみ拾いなんて、滅茶苦茶 詰まんねー仕事じゃんか。聖闘士でなくてもできることだしさ」 「そんな言い方はよくないよ。公園のお清掃って、みんなの役に立つ、立派な奉仕活動でしょう。氷河、一緒に行こうね!」 氷河と違ってボランテイア精神をたっぷり持ち合わせている瞬が、ロマンもなければムードもなく、美的ですらない作業に、白鳥座の聖闘士を誘ってくる。 まさか氷河が ごみ拾いボランティアコースに志願してくることがあるとは思ってもいなかったのか、氷河を誘う瞬の瞳は ひどく嬉しそうに明るく輝いていた。 久し振りに見る、憂いの色の全くない瞬の明るい笑顔。 氷河は、それだけで、約2センチほど、地から足が浮き上がってしまったのだった。 行なう“お務め”が何であれ、瞬と一緒に、瞬と同じ時間を過ごすことができるのである。 これほど意義深く、喜ばしい責務があるだろうか。 「ああ。頑張って、公園を綺麗にしよう!」 氷河が、彼らしくない 殊勝な決意を、瞬の前に披露する。 その様子が いかにも素直で前向きなものだったので――嫌々ながらの決意ではないことが見てとれるものだったので――星矢は、キツネに化けたタヌキ、もしくは タヌキに化けたキツネを見せられたような気分になってしまったのだった。 「他人の捨てたゴミを拾って歩く仕事させられるのを あんなに喜ぶなんて、氷河も瞬も アタマがおかしいんじゃねーの? 能は、退屈なのを我慢して、終わるのを寝て待ってればいいだけのことだけど、ゴミ拾いボランティアは、公共の場にゴミを捨てるようなモラルのない奴に腹が立つばっかりの、全然 楽しくない仕事だぜ? 特に氷河なんか、モラル欠如人間共に怒り狂って、大人しく ごみ拾いなんかやってられる男じゃないような気がするけど」 星矢のそれは、氷河という男の性格を実に的確に捉えた見解だったろう。 が、惜しむらくは、星矢は、氷河が“恋する男”であるという、非常に重要な要素を見落としていた。 その重要な要素を考慮に入れて、紫龍が口にした第四の歌。 「『もろともに我をも具して散りね花 浮き世を厭う心ある身ぞ』というところだな」 「意味は?」 「『散るのなら、俺も一緒に連れていってくれ。あの世でも町内会のごみ拾いでも、お供つかまつります』」 紫龍の現代語訳が相当の意訳だということは星矢にもわかったのだが、そうであったとしても、それは氷河のための歌としか思えない歌である。 星矢は大いに感心して、次に、大々的に呆れた顔になった。 「それも西行とかいう おっさんが作った歌なのか? 氷河そっくりのおっさんだな、西行って」 「氷河も西行法師も、共に花に焦がれた身だ。確かに似た者同士かもしれんな。まあ、氷河には、瞬が一緒なら、どこでも いつでも花見だろうし、瞬に褒めてもらうためなら、モラル欠如人間たちへの怒りに耐えて、必死にゴミを拾うくらいのことはするだろう」 「俺が ごみ拾いボランティアに駆り出されずに済むんなら、氷河の恋狂いは大歓迎するし、瞬が喜ぶなら、それで文句もないけどさ」 それが星矢の嘘偽りのない本音だった。 同時に、星矢は、ごみ拾いなどという、ある意味 腹立たしいばかりの行為をすら 楽しいイベントに変えてしまう恋の力に感嘆した。 そして、ここまで氷河に似ている西行という人物に、俄然 興味が湧いてくる。 舞台が終わるのを寝ながら待つつもりだった『西行桜』。 お面をつけた おっさんたちが舞台の上を ちんたら移動する日本の伝統芸能を、少し真面目に観てみようかと、星矢は思ったのだった。 Fin.
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