乙女座バルゴのシャカが突然 来日したのは、4月初旬。 関東は、桜が満開の時季だった。 さすがに聖衣着用で飛行機に乗ることはできなかったのか、あるいは彼なりに一般人の中に紛れ込もうと努力をしているのか、身に着けているのは、結婚式か葬式に行くような黒の上下。 星矢がそれを結婚式用の装いなのか葬式用の装いなのかの判断ができなかったのは、シャカがネクタイをしていなかったからだった。 いずれにしても、黒の上下に尋常でない長さの金髪。 シャカの外見は 何にも見えない――電話帳に載っている どんな職業の従事者にも見えず、かといって裏社会に属する者にも見えない――正しく“怪しい人物”そのものだった。 「なんだよ? 黄金聖闘士様がわざわざ日本まで花見にでも来たのかよ?」 城戸邸の客間で乙女座の黄金聖闘士を迎えた星矢の口調が不愛想極まりないものになったのは――むしろ、嫌そうなものになったのは――彼が何者であるのかを知っている星矢の目にも シャカが“怪しい人物”にしか見えなかったから。 そして、その時点で、乙女座の黄金聖闘士が、天馬座の聖闘士の苛立ちを収束に導いてくれる救世主だということに、星矢が気付いていなかったからだったろう。 「この私が花見などという娯楽に興じたりするわけがないだろう。常識で考えたまえ。日本での潅仏会は この時季だと聞いて やってきたのだ」 乙女座の黄金聖闘士が、目を閉じたまま、星矢の質問に答える。 が、残念ながら、耳慣れぬ単語を含んだシャカの答えを、星矢は理解することができなかった。 「カンブツエって何だよ? 干物か何かの絵手紙展でもあるのか?」 星矢の頓珍漢な応答に、シャカが不愉快そうに こめかみを引きつらせる。 『潅仏会』が『乾物絵』でないことを説明する親切心を持ち合わせていないらしいシャカに代わって 星矢の疑問に答えることになったのは、龍座の聖闘士だった。 「潅仏会というのは、釈迦の誕生日だのことだ。別名、花祭り。日本では4月8日とされているな。あちこちの寺で、花で飾った 「へー。お釈迦様って、乙女座じゃなく牡羊座生まれなんだ。んじゃ、なんで あんたは乙女座の黄金聖闘士なんかやってんだよ?」 星矢の素朴な疑問が、シャカの神経を刺激しているのは火を見るより明らか。 あっさりと その目を開け、こめかみのみならず 顔全体を痙攣させ始めた乙女座の黄金聖闘士と星矢の間に、紫龍は慌てて割り込んでいくことになったのである。 「まさか、最も神に近い男と言われているあなたが、お稚児さん見物をするために わざわざ来日したのではないでしょう。何かあったんですか」 「あ、いや、ちょっとアンドロメダのことが気になったのでな」 シャカが、彼にしては素直かつ正直に 彼の来日目的を口にしたのは、紫龍の質問が星矢のそれに比べて、あまりに自然かつ常識的かつ真っ当・妥当なものだったせいなのかもしれなかった。 シャカは、本当は、その真実の来日目的を人に告げるつもりはなかったらしい。 紫龍に答えてしまってから、自身の迂闊に軽い苛立ちを覚えたように、シャカが僅かに その肩を怒らせる。 が、すぐに口にしてしまったものは仕方がないと考え直したらしく、彼は彼の事情説明を続行した。 「先月 君たちが聖域に来た時、私は あることをアンドロメダに頼まれたのだ」 「瞬が 頼み事? 瞬が人に頼み事とは、珍しいこともあるものだ。まして――」 『まして、建設的生産的なことは何ひとつできそうにない黄金聖闘士に』と、つい言ってしまいそうになった紫龍が、慌てて 口にしかけた言葉を喉の奥に押しやる。 努めて平静を装い、紫龍は、彼の発言内容を急遽 変更した。 「いったい瞬は、あなたに何を頼んだんです」 シャカは顔の痙攣を静め、今度は渋面を作って 紫龍に答えてきた。 「視覚を奪ってほしいと、アンドロメダは私に言った」 「視覚を奪ってほしい? それは、なぜです。いったいなぜ瞬はそんなことを――」 建設的生産的なことのできない黄金聖闘士への頼み事が まともなものであるはずがないと決めつけていた紫龍にも、瞬の頼み事の内容は 驚かずにはいられないものだった。 それは星矢も同様で、彼は紫龍の隣りで、それでなくても丸い目を更に丸くして息を飲んだ。 「さて……。もちろん、私は断ったのだが、アンドロメダはなぜそんなことを望むのか、理由も言わなかったし――ひどく思い詰めているようだったので、もしや自分で自分の目を傷付けるようなことはしていないかと、少々気になったのだ」 瞬の頼み事の異常さもさることながら、シャカがそんなことを気にして わざわざ瞬の様子を確かめるために極東の島国までやってくる事態も、紫龍には にわかに信じ難いほど 異常なことだった。 なにしろ、シャカは、釈迦牟尼とは違って“慈悲心を持ち合わせていない”名前負け聖闘士のはずだったから。 「瞬がそんなことを あなたに頼んだのも意外だが、そんなことを心配して、わざわざ黄金聖闘士が――というより、あなたが こんなところまで足を運んでくるとは。存外に心配性――というか、世話好きの人情家なんですね」 「他言無用だ」 始めに うっかり来日理由を洩らしてしまったせいで事実を語ることになってしまっただけだった彼は、“慈悲心を持たない男”の評判(それは自称にすぎないものだったが)を覆すつもりはないらしい。 紫龍に口止めをしてから、瞬が乙女座の黄金聖闘士に そんな頼み事をするに至った理由を探るような目を、彼は瞬の仲間たちに向けてきた。 まるでその責任を瞬の仲間たちが負っていると決めつけているような目をシャカに向けられた星矢が、即座に反論に出る。 「瞬が 俺たちのせいで そんなこと言い出すわけないだろ! あんた、瞬の話を寝ながら聞いてたんじゃねーのか? 瞬が自分で自分の目を傷付けるなんて、んな心配するのも無意味だぜ。そんな馬鹿なことする奴が この世にいるわけないだろ!」 星矢の自信満々の断言に、“そんな馬鹿なこと”をしたことのある紫龍と、そして氷河が、気まずそうな顔になる。 「あ……いや、ごく稀にそういう奴もいるみたいだけどさ――」 星矢のフォローは、全くフォローになっていなかった。 が、星矢は、自分のフォローの無力無効を、あまり気に病むことはしなかった。 氷河と紫龍が “そんな馬鹿なことをする奴”だということは事実なのだし、ちょうど その時、黄金聖闘士の来訪を知らされたらしい瞬が客間にやってきたせいで、星矢は そんなことはどうでもよくなってしまったのだ。 「瞬……」 仲間の名を呼ぶ星矢の声に いつもの明るさがないことで、知られたくないことを仲間たちに知られてしまったことを、瞬は悟ったようだった。 乙女座の黄金聖闘士を見、星矢を見、紫龍を見、最後に氷河を見てから、瞬はその顔を俯かせた。 そして、俯いたまま、くぐもった声で 「僕は、自分の目を潰す勇気もない……」 と呟く。 やっと聞き取れるかどうかというほど小さな瞬の声が告げた言葉に、星矢は ぞっとしてしまったのである。 そんな台詞が出てくるということは、つまり、瞬が“そんな馬鹿なこと”を一度は考えたということである。 敵でさえも大絶賛し 傷付けることを避けた その目を、瞬は自ら放棄しようとした。 星矢には、それは決して あってはならないことだった。 「んな勇気は ない方がいいに決まってるだろ! おまえ、じゃあ、おまえがシャカに視覚を奪ってほしいって頼んだのは ほんとのことなのか? なんで そんなこと頼んだりしたんだよ!」 「それは……あの……だから……僕の目が見えなくなったら、氷河が僕を好きになってくれるんじゃないかと思ったから……」 伏せている顔を、瞬は一向に上向かせようとしない。 それだけではなく、瞬は、まるで身の置きどころをなくしたように身体を小さく縮こまらせて、蚊の鳴くような声で星矢の詰問に答えてきた。 「なんで、それで氷河が――」 「だって、氷河は――僕の目が嫌いだって言ってたでしょう。目以外は全部 好きでいてくれるって……」 「はあ?」 身悶えするように苦しげに、瞬が、視力を放棄しようとした訳を告白する。 星矢は、ほとんど間が抜けているとしか言いようのない声をあげて、瞬の告白に応じた。 つい半月前のことをすっかり忘れてしまっているらしい星矢に、紫龍は軽い頭痛を覚えてしまったのである。 しかし、今は、星矢の人並み外れた忘却力を賞賛している場合ではない。 そう判断した紫龍は、あえて その件を無視して、瞬に尋ねたのだった。 「おまえ、あれを聞いていたのか」 顔を伏せたまま、瞬は何も答えない。 それで、紫龍は、氷河の あの理解し難い言い草を 瞬が聞いていたことを知ったのだった。 それだけではなく、瞬が、『それなら、氷河が嫌っているものを自分から取り除いてしまおう』と考えるほど、氷河の好意を価値あるものと思っているという事実――つまり、瞬が あんな心無い暴言を吐く男を好きでいるという事実をも。 そして、その事実は、色々な意味で 紫龍を驚かせるものだったのである。 本音を言えば、紫龍は、『瞬の目が嫌いだ』という氷河の発言を、完全な失言――言ってはならない言葉、瞬には決して聞かせてはならない言葉だったと思っていた。 普通の人間は、自らの存在そのものでないにしても――その一部分だけでも――はっきり『嫌い』と言い切ってしまう人間に こだわりなく好意を抱き続けてはいられないものである。 『俺は君の目が嫌いだ』 『手が嫌いだ』 『髪型が嫌いだ』 『服の趣味が嫌いだ』 そんなことを言われてしまったら、大抵の人間は、そんなことを面と向かって言う人間に対して 少なからず むっとするものだろう。 そういう場合に、 『ならば、あなたに好かれるために、あなたに嫌われている部分を取り除きましょう』 『あなたに好かれるために、あなたに嫌われている部分を変えましょう』 と考えるのは、そんなことを言われた側の人間が、そんなことを言われる以前から、そんなことを言った人間に、変え難く動かし難い好意を抱いていた場合に限られる。 つまりは、そういうこと。 瞬は、氷河を、以前から――おそらくは特別に――好きだったのだ。 瞬に首尾よく告白ができたとしても、氷河はそれから 瞬の“特別な好意”を得るための努力を開始しなければならないだろうと思っていた紫龍には、瞬の小さな告白は 十分に“驚くべきこと”だった。 だから、紫龍は驚いたのである。 星矢もまた。 驚いて――自分たちはここで 氷河と瞬の仲間としてどういう態度を取るべきなのか、どういう態度を取ることが最も適切なのかを、彼等は 即座に判断・決定することができなかったのである。 さすがに黄金聖闘士と言うべきか、その場で最も少ない情報しか手にしていないにもかかわらず、その場で最も素早い反応を示したのは、某乙女座バルゴのシャカだった。 それが適切な態度だったのかどうかということについては、少々疑念が残るものだったとしても。 「つまり、君は、黄金聖闘士の力を自分の恋の成就のために利用しようとしたのか? 地上の平和と安寧を守るために使われるべき聖闘士の力を? しかも、最も神に近い男と言われている この私の力を?」 シャカの怒りは至極尤も。 ここで、『なんだ、そうだったのか。それならそうと言ってくれれば、私は喜んで君の恋に強力したのに』と言って笑うシャカはシャカではない。 シャカの怒りは当然のことで、彼には瞬を責める権利がある。 それはわかっていたのだが、星矢は彼に突っ込まないわけにはいかなかったのである。 「瞬にそんな脅し文句は無意味だぜ。なにしろ瞬は本物の神サマになったことがあるんだから」 と。 「む……」 最も神に近い男は、要するに、ただの人間なのである。 その認識はあるらしく、シャカは、星矢の突っ込みを受けて、一瞬 言葉を詰まらせた。 が、そんなことで自分が気後れを感じる必要など どこにもないことを思い出したのか、あるいは、そんなことのために日本〜ギリシャ間9500キロもの大遠征の実行に及んだ自分自身に腹が立ったのか、彼は すぐに星矢への非難を再開した。 「馬鹿馬鹿しい。そんなことのために、私は こんな東の果ての島国までやってきたのか……! 青銅聖闘士の中には 自分で自分の目を潰したりするような愚かな戦い方をする者がいるという話を聞いていたので心配してはいたが、私は、それが杞憂であることを確かめるために来日したのだ。私は、君を 分と常識をわきまえた礼儀正しい慎重派だと思っていたのだが、それも私の買いかぶりにすぎなかったか」 「黄金聖闘士にだって、自分で自分の鼓膜を破った奴がいたじゃん」 どうしても突っ込まずにいられない星矢が、その体質に(?)逆らいきれず、某黄金聖闘士の戦い振りに言及する。 同輩への武士の情けか、シャカは突然 鼓膜が破れた振りをし、紫龍もまたすぐに某黄金聖闘士の立場を慮って、話を本筋に戻した。 「あなたの憤りは当然のものと思いますが、恋をしている者に慎重さを求めるのは無理なことでしょう」 その一般論を最後まで言い終わる前に、紫龍は、彼のすぐ側に 全く一般的でない男が約一名いることを思い出すことになったのである。 「まあ、稀に、恋をして慎重になる へそ曲がりもいるようですが」 恋する身でありながら、ここのところ、いつになく慎重だった氷河をちらりと見やって、紫龍が言葉を継ぎ足す。 それで、この騒ぎの元凶が誰だったのかを思い出した星矢は、先陣を切るのは天馬座の聖闘士の務めと言わんばかりに元気よく(?)、氷河への攻撃を開始した。 「そーだ、悪いのは氷河だ。おまえ、なんだって瞬の目が嫌いだなんて言ったんだよ! んなの、おかしいだろ。目がどうだろうと、鼻がどうだろうと、瞬は瞬だ」 これ以上の正論があるだろうかと思われるほど見事な星矢の迫撃に、氷河は反撃するどころか、防御の態勢に入ることすらしなかった。 自らの発した一言が、瞬の心をどれだけ乱し傷付けたのかを考えれば、星矢の攻撃に抵抗する権利は自分には与えられていない。 氷河はそう考えたのだろう。 真正面からの星矢の攻撃を受けとめて、氷河は僅かに ためらいを見せてから口を開いた。 |