館の正面で馬から降ろされた瞬が、最初にまじまじと観察することのできた部屋は、なんと浴室だった。 やたらと広く、風さえ吹いているような玄関のホールの建築様式や調度を確かめる暇もなく、瞬は浴室に連れていかれてしまったのである。 おそらく、18世紀のロシアという時代と場所を考えれば、(たとえ貴族の館といっても)立派すぎるほど立派なバスタブと、そのバスタブになみなみと満たされた花の香りのするお湯。 瞬の世話を命じられた小間使いは、さすがに直接 瞬の身体に触れることはしなかったが、 白い絹のブラウスに、襟や袖口に金糸で刺繍が施された濃紺の上着、水色の帯。 鏡に映し出された自分の姿を見て、瞬はひどく滅入ってしまったのである。 絶対王政下の王族や貴族に仕える小姓か何かのような その出で立ちが、妙に自分に似合っていることに、少々 傷付いて。 小姓のコスプレを整えた瞬が、浴室の次に連れていかれたのは、おそらく この館の主の私室だった。 5、60平方メートルはあろうかという広い部屋の床の半分以上が、厚手の毛皮で覆われている。 室内の家具や調度の類はフランスの影響大、ほとんどがロココ風の凝ったものだった。 この館の主が相当の財力を有していることは わかるのだが、にもかかわらず、室内が豪華華麗に見えないのは、床の敷物の贅沢、調度の豪奢に比して、壁があまりに殺風景なせいだったろう。 熱を逃さないために濃い緑の緞帳のようなものがおりていたので、室内の壁のすべてを確認することはできなかったのだが、そこには、この手の部屋にありがちな、絵画の類が一枚も飾られていなかったのだ。 この館の主――氷河のそっくりさん――は、好事家が見たら涎を垂らして擦り寄っていきそうな 豪勢な椅子に腰掛けていた。 同じ椅子がもう一脚あったのだが、肘掛けや脚の部分の複雑な彫刻、背もたれ部分の繊細な刺繍は、アンティーク家具になど全く興味のない瞬にも、かなりの価値がある家具だということが容易に見てとれる。 瞬は、決して怯えていたわけではなく――事情を知らされないまま、見知らぬ館の見知らぬ部屋で、ほぼ初対面の人の前に引き出された人間がそういう態度をとるしかない程度の気後れと遠慮に支配されて、彼の前に立つことになったのだった。 椅子に掛けたまま、氷河のそっくりさんが、衣装を変えた瞬の姿を上から下まで 一通り観察する。 そうしてから、彼は、幾分シニカルに感じられる笑みを、その口許に刻んだ。 「これはまた、可愛らしい天使──いや、春の妖精のようだ。あの辺りは、私の領地の中でも、いちばん春の妖精を見付けやすい場所なんだ。おまえは本当は小さな白い花の精なのではないか?」 「残念ながら、僕は人間です」 瞬が真面目に、少しばかり素っ気ない口調で答えると、彼は その瞳に、今度はなぜか ひどく自然な微笑を浮かべた。 「着替えを手伝った小間使いに聞いたら、本当に男子だったと報告された。まあ、そのために風呂を使わせたんだが」 「多分、そんなことだろうと思っていました」 この時代の人間の目には奇妙に映る服を身に着けていただろうが、瞬は、自分が 何をさておいても入浴を求められるほど汚れているとは思っていなかった。 親切心からではなく、性別を確かめるためか、瞬の衣服の材質を確かめることが、彼の目的なのだろうと、瞬もそれは察していた。 が、この入浴と着替えのおかげで、世話をしてくれた小間使いから色々な情報を得たのは瞬も同じだったので、瞬は彼の陰謀(?)を非難しようとは思わなかった。 貴族の館の小間使いというものは かなりの情報通らしく――というより、主人のプライベートを含んだ様々な情報を心得ていないと小間使いの仕事をスムーズに運ぶことができないものらしく――彼女は、瞬が必要としていた情報をすべて瞬に教えてくれたのだ。 氷河にそっくりな この青年の名は、アルセーニ・ラーリン。 歳は29。独身。 2年ほど前、先代侯爵だった父親が亡くなり、ラーリン侯爵家を継いだばかり。 この辺りでは、最大の土地と農奴を有している大貴族の一人――ということだった。 爵位を継ぐまでは、教育をペテルスブルクで受けていたせいもあって、ずっと首都の方で暮らしていたらしい。 今でも 1年のうち2、3ヶ月はペテルスブルクの宮廷で過ごしているのだが、堅苦しい宮廷で皇族や貴族たちの相手をしているより、自分の領地の方が好きらしく――自領でできる狩りが好きらしく――爵位を継いでからは、こちらに帰ってきていることの方が多い――ということだった。 しかし、今年、まだ冬の気配が残っているうちに彼がシベリアの領地に戻ってきたのは、おそらく妻選びのため。 宮廷に入り浸り、見えを張って高いドレスや宝石を身につけ、そのために火の車の貴族の家の令嬢より、多額の持参金つきで、あまり小賢しくない田舎の貴族の姫を妻にしたいと、ラーリン侯爵は考えているのだろう――と、小間使いの少女は言っていた。 『おそらく、旦那様は、イラリオノフ家のオリガ姫を妻に迎える 心積もりでいらっしゃるでしょう』というのが、彼女の推察。 貴族の結婚は なかなか大変なものらしいと、瞬は、他人事だというのに気苦労めいたものを感じて、彼を見詰めることになったのだった。 「あの お喋りな娘は、あの娘が知っている事実と噂をすべて、おまえに話したのだろうな?」 「え?」 小間使いのお喋りは、最初から織り込み済みのことだったらしい。 彼女が そのお喋りを彼女の主人に咎められては気の毒と考え、瞬は彼の質問に事実を答えることを躊躇したのである。 が、この時代に、個人情報保護という概念はないらしい。 彼は、小間使いのお喋りを咎めるために、瞬にそんなことを訊いたのではなかったようだった。 「そのために、いちばん お喋りな娘に おまえの世話を命じたのだからな」 むしろ、彼は、面倒な事情説明を自分に代わって彼女にさせるため、彼女に瞬の世話を命じたものらしい。 つまり、彼女は、彼女に課せられた職務を見事に全うした有能な小間使い――ということになるようだった。 瞬の返答を待たず、小間使いの職務遂行を信じている口振りで、彼が言葉を続ける。 「私は、イラリオノフ家のオリガ姫を妻に迎えるのが、ラーリン侯爵として最も賢明な判断だと思っている。おまえは、その求婚の使いにぴったりだ。おまえの天使とも花の精とも見紛う姿には、オリガ姫もきっと気を許すだろう」 「は?」 個人情報に匹敵する事柄の説明を小間使いにやらせてしまおうと画策するだけあって、彼はかなりの面倒くさがりらしい。 彼本人からの状況説明もないまま、突然そんなことを言われてしまった瞬は、ぱちくりと大きく瞬きをすることになった。 「十二夜のように、ややこしい事態になるのは避けたかったから、まず おまえの性別確認をしたというわけだ」 「あの……」 『十二夜』とはシェイクスピアの『十二夜』だろう。 亡くなった双子の兄を偲ぶために男装してオーシーノ公爵に仕えていたヴァイオラは、公爵のたっての願いで、公爵が恋するオリヴィア姫と公爵の恋の橋渡しを務めることになる。 しかし、オリヴィア姫は、あろうことか男装のヴァイオラに恋をし、そのことを知ったオーシーノ公爵は大激怒。 結局は、実は死んでいなかったヴァイオラの双子の兄セバスチャンとヴァイオラ姫が結ばれ、オーシーノ公爵は、実は女性だったとわかったヴァイオラを妻に迎えて大団円。 シェイクスピアお得意のトランスジェンダー・スラップスティックである。 氷河のそっくりさんは、どうやら、そのヴァイオラの役を瞬に振るつもりでいるらしかった。 「本当に僕が花の精だなんて思ってらっしゃるわけではないんでしょう? どこの馬の骨か わからない者を、こんなに軽々しく ご自分の館に入れてしまっていいんですか? それに、僕にそんな大役が務まるとは、僕には思えません」 「私が私の領地で見付けたのだ。私のものにして当然だろう。おまえが貴族でも農奴でも、私の決定に異議を挟める者など、この国にはいない。たとえ皇帝や皇后でも――まあ、あの二人は今はそれどころではないだろうから、なおさら何も言うまい」 「……」 1762年。 時代が違っても季節が同じなら、賢明とは言い難い夫に耐えられなくなったエカテリーナ皇后が無血クーデターを起こし、ロシア皇帝の地位に就くのは 今から2ヶ月後。 確かに、今の皇帝や皇后は、首都から遠く離れたシベリアの地で行なわれている貴族の酔狂に文句を言っている暇はないだろう。 懸命にロシアの歴史を思い出そうとしていた瞬の顎に ふいに手を添えて、氷河のそっくりさん――アルセーニ・ラーリン侯爵――が、瞬の顔を上向かせる。 氷河と同じ色の瞳で、瞬の瞳を覗き込み、彼は感嘆の溜め息と共に 低く呟いた。 「実に素晴らしい瞳だ。残念だな。おまえが女性だったら、オリガ姫ではなくおまえを 私の妻に迎えるのに」 「……」 やはり、彼は氷河ではない。 なぜこんな現象(タイムスリップ?)が起きたのかはわからないが――何もかも わからないことだらけだったが――それだけは確かな事実のようだった。 氷河は、そこで『残念だ』と言って諦めることはしなかった。 先祖だからといって――その確証は まだないが――氷河とアルセーニの面差しが いかに似ていても、二人はやはり違う個人のようだった。 「あなたは貴族なんですよね。ロシアでは、貴族でも平民の娘と結婚できるの?」 実際、氷河に貴族の血が流れているなどという話を、瞬は聞いたことがなかった。 もちろん、 ロシアの貴族のほとんどは、20世紀初頭の革命で、国外に亡命した。 革命に同調し、亡命せず国内に留まったとしても、彼は、身分や領地・特権をすべて放棄、あるいは剥脱されただろうから、現在のロシアでは“貴族の血”など無意味なものではあるのだが。 「逃げ道はいくらでもある。たとえば、どこかの小貴族に金を掴ませ、妻にしたい女を いったん養女として その家に預ける。そこから貴族の令嬢として正妻に迎える等の方法だな。だが まあ、そんな酔狂なことをする者は滅多にいない。それほど気に入った娘がいるのなら、愛人にする方が よほど面倒がないし、家門に何の益ももたらさない女を正妻に迎えても、それこそ益がない。そんなことをしたら、他の貴族たちに愚か者と嘲笑われ、侮られるようになるのが関の山。釣り合った身分と領地を持つ家同士の男女が結びつくのが、最も賢明な婚姻のあり方だろう」 「……」 ロシアは、日本と違って 国土が広い。 その広い国土に暮らす民族も多い。 そのせいもあって、皇帝の支配力や国の法の力は国土の隅々にまでは及んでいないのだろう。 しかも、今は、フランス革命さえまだ起きていない――つまり、前近代といっていい時代なのだ。 地方では、皇帝より領主こそが絶対。 ここでは、氷河のそっくりさん──アルセーニ・ラーリン侯爵――が唯一の法で、最高権力者ということのようだった。 もちろん、ロシアの農奴制や帝政は、いずれ覆される。 だが、その歴史的事実を彼に知らせても、それは意味のないことだろう。 彼が200歳まで長生きするのでもない限り、彼は大貴族として、その一生を終えるのだから。 18世紀に生きる彼の結婚観・恋愛観を変えることもまた、困難かつ無意味。 だが、氷河の先祖には結婚してもらわないと、氷河のマーマが――氷河が生まれない。 瞬としては、彼が氷河の先祖としての務め(?)を果たしてくれさえすれば、それで何の問題も生じない。 彼が 釣り合いだけを考えた愛のない結婚をしても構わないといえば構わないのである。 だが、氷河と同じ顔をした男性が、恋もせず、釣り合いだけを考えた結びつきを当然のことと考えていることが、瞬には寂しく感じられてならなかった。 不自然なことだとすら思った。 瞬は、彼には愛する人と結ばれて幸福になってほしかったのである。 瞬がそう願わずにはいられないほど、彼は氷河に似ていた。 面差しもだが、それ以上に瞳の様子が――まるで似ていないと思っていた青い瞳が。 間近で覗き込むようにして見ると、氷河ほど はっきり表出していないだけで、その奥には確かに小さな炎があった。 瞬が毎夜毎朝 見詰め、毎夜毎朝 瞬を見詰めてくれる、氷が燃えてるように情熱的な氷河の青い瞳。その瞳に酷似した瞳――その炎は今はまだ微かで小さかったが――を、ラーリン侯爵は確かに持っていた。 この眼差しの持ち主が恋をしていないなどということが、そもそも瞬には信じ難かったのである。 「あの……あなたには好きな人はいないの? 本当はいるんじゃないですか?」 「どこから そんな考えが生まれてくるんだ。こちらには知った女はいないし、宮廷の女たちは、どいつもこいつも無意味に着飾って、小賢しく、未婚の若い娘ですら、皇帝と皇后のどちらについた方が得かということばかり考えている。あんなに不健康な空気の中にいて、人がまともな神経でいられるわけがない。いや、まともな神経の持ち主が、あんな不健康な空気に耐えられるわけがない。あんなところで平気でいられるような女と付き合うのは、私は御免だ」 今から2ヶ月後には、大政変が起こるロシア宮廷。 彼は、敏感に その空気を察知して、宮廷のある首都からシベリアの領地に脱出してきたらしい。 混乱に乗じて より大きな力を得ようなどという面倒な欲望は、彼の中には存在しないようだった。 そういうところも、氷河に似ている。 もし氷河の許に戻れなかったら、自分はどうなってしまうのだろうという不安を しばし忘れ、瞬は我知らず 微笑をその瞳に浮かべることになったのである。 そんな瞬を見て、ラーリン侯爵は僅かに目を細めた。 「私がおまえに求婚の使いを頼む相手は、隣りの領地の――まあ、隣りといっても、間に幾つか他家の小さな領地が挟まっているが――イラリオノフ家のオリガ姫だ。おまえの可愛らしく優しげな姿は求婚の使いにふさわしいものだが、神聖な契約である求婚の使いが身分も正体も定かでない花の精となると、イラリオノフ家が気を悪くするかもしれない。もし おまえの出自を訊かれたら、私の遠い親戚だとでも言っておけ」 「――」 ラーリン侯爵は、本気で求婚の使いを瞬にさせるつもりでいるようだった。 どこの誰とも知れない――もしかしたら、花の精かもしれない不確かな者に、彼の親戚という身分を与えて。 ロマンチストなのか現実的なのか わからない、奇矯といっていい彼のやり方に、瞬はまたしても氷河との類似点を見付けたような気になってしまったのである。 「自分で行かないのは……ここでは、そういうのがマナーなの? そういう習わしなの?」 「マナーも習わしもない。忙しいからだ。私が何人の農奴や自由民の使用人を抱えていると思っている。千人だぞ。そいつらが毎日、子供が生まれただの、病で倒れただのと 騒ぎを起こす。作業する畑を指示すればいいだけの夏場と違って、冬場は農作業以外の仕事を公平に割り当てなければならないし、今の私には求婚などのために時間を費やしている暇はないのだ」 「農奴の管理を、直接あなたがやっているの? 監督官のような人は置かないの」 「父の代からの監督官たちが 一応いることはいるが、私がこの家を継いで、まだ2年と経っていない。爵位を継ぐまで、私は1年の大半をペテルスブルクで過ごしていて、彼等が信頼できる者たちかどうかを まだ把握できていない。今は彼等の人となりを見極める時期なんだ。それに――」 「それに?」 「狩りの予定が入っている」 「……」 たった今『自分で求婚のために割く時間もないほど忙しい』と言った口で、平気でそんなことを言ってのける公爵に、瞬は 少なからず呆れてしまったのである。 そういう支離滅裂なところも氷河に似ている――と思ってしまえるせいで、瞬は彼を不誠実な男性と決めつけることはできなかったのだが。 瞬の氷河も、自分にとって価値があると思っているものに対しては非常に熱心だったが、自分が興味のないことに関しては、驚くほど素っ気なく冷淡なところがあったから。 彼は、自分が妻を迎えることに、今ひとつ気乗りがしていない。面倒だとすら感じている。だが、己の立場と家のことを考えれば、それは必要なことなのだと承知している。 ラーリン公爵の認識は、そういうことのようだった。 「僕が『十二夜』のヴァイオラ――いいえ、セバスチャンのように、あなたの奥様候補に恋をしてしまったらどうするんです」 瞬がそう尋ねると、ラーリン侯爵は、 「そんなことになったら、オリガ姫は それだけ魅力的な令嬢だということになるから、私は喜んで彼女を妻に迎えるだろう」 と、答えてきた。 面倒くさがりの公爵は、どうやら、彼が求婚する相手の品定めの作業までを、瞬にさせるつもりでいるらしい。 彼の命令を拒否する権利は与えられていないようだったし、イラリオノフ家のオリガ姫という女性に興味がないわけでもなかったので、瞬は、求婚の使いという任務を、一度は務めてみようという気になっていたのである。 それでも、(氷河に似ていなくもない)彼の不精振りに、瞬は嘆息せずにはいられなかった。 |