アルセーニ・ラーリンという名前も ラーリン侯爵家のことも、氷河は知らなかった。
氷河に本当に貴族の血が流れているのだとしても、氷河はそんなことには どんな意味もどんな価値もないと思っているから、
「ラーリンコウシャクケ? 何だ、それは。ラーメンかコケの名前か?」
などという馬鹿な答えを、彼は平気で瞬に返してくるのだ。
手許にあったモバイル機器では、19世紀中葉のモスクワ公にラーリンという名の人物がいたことくらいしか わからなかった。
それで、瞬は、日本に帰る前にペテルスブルクに寄り道をしたいと 氷河にねだり、ペテルスブルクのロシア国立図書館で古い資料に当たってみたのである。

その手の資料は 20世紀初頭の革命で失われてしまったのではないかと危惧していたのだが、幸い、それは残っていた。
革命以前のロシアの有力貴族の一覧と、その家系図。
やはり、19世紀中葉のモスクワ公ラーリンなる人物はシベリアのラーリン家から出た人物だった。
彼の父アルセーニ・ラーリン侯爵は、あのイラリオノフ家のオリガ姫と結婚し、彼女との間に なんと8人の子供を儲けていた。
「8人!」
8人という子供の数が、当時のロシアの貴族の家庭において標準的なものなのかどうかは わからなかったが、それは瞬には驚くべき数だった。
図書館の閲覧室で、特別に書庫から出してもらった資料の前で、瞬は思わず 声をあげて笑ってしまったのである。

彼の子孫に関する情報は、ロシア革命以降は記されていなかった。
氷河と彼をつなぐ どんな証拠も論拠も、結局 瞬は手に入れることはできなかったのである。
だが、瞬には、図書館の資料で知り得た情報だけで十分だった。
愛が いつも彼の側にあったことを知ったラーリン侯爵は、オリガ姫の瞳の中に愛があることに、すぐに気付いただろう。
そして、オリガ姫は、憧れていた人との恋を実らせることができたのだ。
それがわかれば、それだけで、瞬は十分だったのである。

「何を笑っている」
古い家系図を見て笑っている瞬を訝ったらしい氷河が、あまり楽しそうにではなく 瞬に尋ねてくる。
瞬は慌てて 首を横に振った。
「あ、ううん。何でも」
「俺に関係のないことで、おまえが楽しそうにしているのは不愉快だ」
「氷河は、そんなに僕に笑われたいの?」
瞬がからかうように そう言うと、氷河は反抗的な子供のように むっとした顔になった。
それが、ラーリン侯爵が機嫌を損ねていた時の表情にそっくりだったので、瞬はつい また笑ってしまったのである。
それから、あまり図書館での会話にふさわしいとは思えない内容の質問を、氷河に投げかける。

「氷河、僕を好き?」
「ああ」
場所柄をわきまえない氷河は、場所柄をわきまえていなかった瞬の質問に、すぐにYESの答えを返してきた。
もちろん、瞬も、すぐに同じ答えを返したのである。
「僕も氷河が大好き」
ためらいなく、人を好きだと言い切ることのできる幸福。
この幸福がどこから訪れるものなのか、瞬は その謎の答えを知っていた。

「人が人を好きになれるのって、すごく幸せなことだよね。きっと、氷河は氷河のマーマに、僕は僕の兄さんに、人を愛することと愛されることを教えてもらったから、だから僕は 今、こんなに氷河が大好きなんだと思う」
「俺がおまえに愛されているのは、一輝のおかげだとでもいうつもりか」
瞬が導き出した謎の答えが、氷河は気に入らなかったらしい。
だが、たとえ氷河の賛同を得られなくても、瞬は その答えに絶対の自信を抱いていたのだ。

「僕は氷河が好きで、氷河に巡り会うことができて、だからすごく幸せ」
氷河に似ていた あの人も、愛が確かに存在することを知り、愛の意味を知り、その愛を多くの人に分け与え、与えた愛に愛を返され、そして、愛に満ちた幸福な一生を送ったに違いない。
そう信じて、瞬は、彼の名の記された古い本のページを閉じたのだった。






Fin.






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