同じアホなら






城戸邸の庭は、今はスイートピーが主役だった。
白、ピンク、赤、オレンジ、紫、青と、色とりどりのスイートピーが咲く花畑の中を、瞬の案内で絵梨衣が歩いている。
彼女が城戸邸にやってきたのは氷河の紹介。
星の子学園で行なわれる月例の誕生会で飾る花を分けてもらうためだった。
半年前に星の子学園に来た、『甘豆』と書いて『スイートピー』と読む名の女の子が、スイートピーがどんな花なのかを知らないというので、その花を彼女の誕生月の誕生会に飾ろうという計画が 星の子学園の方で持ちあがったらしい。
最も低予算で その計画を実行するために、白羽の矢(?)を立てられたのが、城戸邸の庭だったのである。

城戸邸の庭に咲くスイートピーを(できれば)無料で分けてもらうわけにはいかないかと 絵梨衣に相談された――まではよかったが、氷河は なにしろ、バラ以外の花に関する知識を全く有していない男だった。
タンポポとチューリップとヒマワリくらいなら区別がついたが、花菖蒲とグラジオラスの区別はつかない。
パンジーとガーベラの区別もつかない。
もちろん、ボタンと芍薬の区別もつかない。
へたをすると、スイートピーとフリージアを一緒にしてしまいかねない自分を知っていた氷河は、絵梨衣に平然とフリージアの花を渡して 甘豆ちゃんに間違った知識を植えつける危険を回避するため、城戸邸の庭の案内を瞬に頼んだのだった。

甘い豆スイートピーちゃんねー。この頃、訳のわかんない名前つける親が多いよな。以前は、俺たちの名前も珍奇珍妙だと思ってたけど、今じゃ、俺たち、全然普通だもんな」
「その昔、森鴎外が、海外でも通用するようにと考えて、自分の子供たちにフランス系の名前をつけたそうだが……。於菟オットー茉莉マリー杏奴アンヌ不律フリッツルイだったかな。鴎外の孫には、トムやら礼於レオやらがいる」

「傍迷惑な親は、いつでも どこにでもいるってわけだ。そのモリオーガイって何者だよ」
「……」
星矢の前で、鴎外の代表作のタイトルを並べ立てても無駄だし、無意味だろう。
紫龍は、星矢に森鴎外が何者であるのかを説明することを 僅か1秒で断念し、視線をラウンジから続くテラスの向こうに広がる庭の方へと転じたのだった。

うららかに晴れた春の日の昼下がり。
色とりどりの花の中を歩む(一見したところ)二人の美少女。
その一方が、かつては、女神アテナの命を奪い 世界を混乱と恐怖に陥れようとした邪神エリスの依り代で、もう一方が、かつて全人類を粛清し 地上を死の世界にすることを企んだ冥王ハーデスの依り代だったのだと思うと 目眩いを覚えずにはいられないほど、それは平和で のどかな光景だった。

紫龍が庭に視線を転じる前からずっと、その平和で のどかな光景を見詰めていたらしい氷河が、ふいに、独り言のように低い声をラウンジに響かせる。
「瞬は嫉妬の感情というものを持っていないのか」
平和で のどかな その光景に苛立っているように、とげとげしい氷河の口調。
紫龍は、当然、うららかな春の日にそぐわない氷河の口調(と言葉)を訝ることになったのである。
「嫉妬?」
「急に何だよ。嫉妬? 何だ、それ?」
“鴎外”を知らない星矢なら、“嫉妬”を知らないこともあるかもしれない。
万一のことを考えて、紫龍は、星矢が何なのかを知らないという“嫉妬”なるものの正体を、彼に教えてやることにした。

「一般的には、人間が他人の才能や成功や幸運を妬む気持ちのことだろう」
「いや、それはわかるけどさ。なんで、瞬が嫉妬なんかしなきゃならないんだよ?」
幸い、“嫉妬”は“鴎外”よりは著名なものだったらしい。
が、単語の意味がわかれば 文章の意味がわかるというものでもない。
また、文章の意味がわかれば 発言者の意図が理解できるというものでもない。
氷河が口にした文章の意味と意図が全く理解できないという顔を、星矢は肩をすくめながら その発言者に向けた。
鴎外は知っていても、氷河の発言の意図がわからないという点では星矢と同じだった紫龍が、氷河にではなく 星矢の疑念に頷く。

「確かに。瞬は、その方向性はさておくとして、容姿は並以上に優れているし、頭も悪くはない。健康な身体と、一般人は足元にも及ばない運動神経と運動能力の持ち主でもある。大抵の欲しいものは努力すれば手に入れることができるだろうし、瞬はその努力を厭うタイプの人間でもない。つまり、瞬には、人に嫉妬する材料がない。それ以前に、瞬には、地上と人類の平和と安寧以外、どうしても欲しいものというのがないんじゃないか。欲や虚栄心がないところに、嫉妬心などというものは生まれないものだ」
「男にも、うんざりするほど もててるしな」
「男はさておき、弟最愛の兄貴はいるし、俺たちのように、もののわかった仲間もいる。どこかの阿呆な金髪男は瞬に夢中だし、瞬は 愛情や友情に対する飢餓感や欠如感もないだろう。嫉妬というものは、自分に欠けている何かを持っている相手に対して生まれる感情だ。瞬が嫉妬に縁がないというのは、さほど不思議なことではないと思うぞ。だいいち瞬は、自分に欠けているものを持っている人間が目の前にいても、その人物の幸運を喜びこそすれ、妬むようなことはしない――できないタイプの人間だろう」

嫉妬という感情の持ち合わせが少ないことを、紫龍は一概に良いこととも悪いこととも思っていなかった。
それは使いようによっては、大きな偉業を成し遂げる原動力にもなり得る感情で、同時に、使い方を間違えば、当人を含む多くの人間を不幸にしかねない感情でもあるのだ。
とはいえ、“力”というのなら、瞬は、地上の平和と安寧を願う心という、この上なく強大な力を有しているのだから、妬心など持ち合わせていなくても 何ら問題はない。
そう、紫龍は思っていたのである。
が、氷河の言う“嫉妬”は、紫龍が想定していた“嫉妬”とは 全く(とまではいかなくても、9割方)違う種類の感情だったらしかった。

「いや、そういう嫉妬じゃなく、たとえば俺が他の女と一緒にいたら、ちょっと焼きもちを焼く素振りくらい見せてくれてもいいんじゃないかということだ」
「へっ」
氷河と紫龍の間で、“スイートピーちゃん”より珍奇な声をあげたのは星矢だった。
それを意味のない音――しゃっくりの音程度にしか認識しなかったらしい氷河が、星矢の驚きに気をとめた様子もなく、瞬の嫉妬心のなさの非を言い募る。
「よく考えてみると、変なルートだろう。スイートコーンだかグリーンピースだか知らないが、俺が城戸邸の花のことで、絵梨衣から相談を受けるなんてのは。スイートポテトのスの字も知らない俺より、その手のことに詳しい瞬に頼むのが通常ルートにして最短ルート、城戸邸の所有者である沙織さんに頼むのが正規ルートだ。瞬は、効率も常識も道理も無視して、絵梨衣は なぜ俺にそんなことを頼むのかと、不愉快に思うくらいのことをしてもいいはずだ。なのに、瞬は、親切に庭を案内しているだけで、絵梨衣に意地悪なことをする気配もない」

「なんだ、急に嫉妬とか言い出すから、何かあったのかと思ったら、そんな低レベルなことかよ」
まさか氷河が本気で、絵梨衣をいじめる瞬の図を期待して 花の中の二人を見ていたのだと思うことは、さすがの星矢にもできなかった。
が、そこまで俗悪なレベルではないにしても、氷河の期待が かなり低レベルなものであることは、紛れもない事実である。
星矢は そう思い、思ったことを言葉にもした。
しかし、氷河は、それを低レベルと断じた星矢に、堂々と臆面もなく噛みついてきたのである。
「低レベルとは何だ、低レベルとは!」
「だって、低レベルじゃん」

気色ばむ氷河に、星矢が再度 その言葉を繰り返す。
ますます いきり立つ様子を見せ始めた氷河と星矢を執り成すように、紫龍は二人の間に割って入ることになった。
「まあ、何だ。この場合、考えられるパターンは二つある。一つは、瞬が、自分は絵梨衣以上に おまえに愛されているという自信を持っていて、おまえが自分以外の他の誰かに心を移すことはないと固く信じているパターン。もう一つは、瞬が、おまえなぞ どこの女に取られてもどうでもいいと考えているパターンだ」
「――」
紫龍の指摘は、氷河にとって、瞬に嫉妬を望むことのレベルの高低より重大な問題だったらしい。
星矢に噛みつく作業を中断し、しばし考え込む素振りを見せてから、氷河は ごく真面目な顔で紫龍に、
「……どっちだと思う?」
と尋ねてきた。
紫龍は、その質問を意外に思い、僅かに瞳を見開くことになったのである。






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