「へっ」
どうやら氷河は、自信のなさから落ち込んで 長い沈黙を守っていたのではなかったらしい。
彼は、星矢の決めつけに立腹して――脳の血管がぶち切れそうなほど立腹して、声を発することができずにいただけだったらしい。
熱い友情(と好奇心)から 氷河のために一肌脱ごうという決意を固めていた星矢と紫龍は、まるで真夏の真っ昼間の霹靂のように大きく激しい氷河の怒声に 目を剥くことになった。

「なんだよ、おまえ。自信なくして落ち込んでたんじゃなかったのかよ?」
「な……何かあったの? すごい大声――」
真夏の青天の霹靂を、春のやわらかな微風が軽く吹き飛ばす。
必要な花を確保した絵梨衣は、庭から直接 星の子学園への帰路についたらしい。
氷河の怒りをどこかへ吹き飛ばし、彼に再びの沈黙をもたらしたのは、絵梨衣を送り出して 仲間たちのいるラウンジに戻ってきた瞬 その人だった。
「あ、氷河。絵梨衣さんが、どうもありがとうって言ってたよ。いずれ、この埋め合わせはするからって。嬉しそうに両手いっぱいのスイートピーを抱えて、まるでスイートピーの花の精みたいだった」
「……」

焼きもちを焼いてほしい人に、そういうセリフを、邪気も屈託もなく、それこそ嬉しそうに言われてしまった氷河が、複雑極まりない顔になる。
瞬は瞬で、人様のお役に立てたことを喜ぶ素振りを見せない氷河の態度が 腑に落ちなかったらしい。
僅かに首をかしげ、瞬は、事情を尋ねるように他の仲間たちの方に視線を巡らせてきた。
そんな瞬を見て、これは確かに彼等の仲間たちが一肌脱がねばならない事態だと確信した星矢は、早速自らの仕事にとりかかったのだった。

「そのスイートピーの件なんだよ、問題は。絵梨衣が、沙織さんやおまえを飛び越えて自分に頼んできたのを、おまえが不愉快に思ってるんじゃないかって、氷河は それを気にしてんの」
「え?」
「城戸邸の庭の花のことなら、おまえや沙織さんに頼むのが、手っ取り早いし、筋じゃん。なのに、あえて氷河に頼むってのは、絵梨衣が、氷河の方が頼みやすいとか、氷河の方が気安いと感じてるとか、つまりは そういうことだろ? そのへんのことを、おまえに誤解されてるんじゃないかって、氷河はそれを心配してるわけ」
「あの……」
「詰まらぬ誤解のせいで 焼きもちを焼かれるのも面倒だとか何だとか、氷河は、図々しく、そんなことまで 本気で心配しているようだぞ」
「……」

星矢と紫龍に事実ではないことを言われても、氷河が彼等にクレームをつけなかったのは、その偽りの申し立てに対する瞬の反応を確かめたいという気持ちが強かったからだろう。
不幸なことに、星矢たちの捏造に対する瞬の反応は、氷河の期待していたそれとは 全く様相の異なるものだったが。
「焼きもちなんて……。絵梨衣さんが僕より氷河と親しいのは事実なんだし、僕が絵梨衣さんに焼きもちを焼いたりするはずがないでしょう」
絵梨衣に焼きもちを焼くどころか、そんな懸念を抱いている氷河の心を案じるような目をして、瞬は 気遣わしげにそう言ってきたのだ。
星矢が、そこに 鋭く突っ込んでいく。

「なんで?」
「え?」
「なんで焼きもち焼かないんだよ? 普通はさ、自分の恋人だの亭主だのが、他の奴と仲良さそうにしてたら、いい気はしないもんだろ。焼きもち焼くのが普通だろ? 俺は そう聞いてるぞ」
「そんなこと言ったって……」
そんなことを言われても 焼けない餅は焼けないと言わんばかりに、瞬が困惑のていを示す。
焼きもちを焼くのが普通と思っているのが、どうやら星矢だけでなく、紫龍や氷河までが星矢と同意見でいるらしいことを見てとったのか、瞬は ますます困ったように両の肩を小さく丸めた。
そうしてから、“普通”でない自分を恥じるように瞼を伏せ、あまり大きくない声で、瞬が瞬の ささやかな望みを口にする。

「僕は、氷河がいてくれるだけで――氷河が生きていてくれるだけでいいんだよ。氷河に 僕より仲のいい人がいても、氷河が僕の側にいてくれなくても。だいいち、焼きもちって、何のために焼くの。そんなことして、何か得になることがあるの」
「――」
瞬の ささやかな、極めて控えめな願い。
極めて素朴、かつ根本的な疑問。
それらのものに触れて、瞬の仲間たちは、瞬の淡白の理由を初めて知った――初めて理解したのだった。

「い……言われてみりゃ、その通りだな。焼きもちなんか焼いても、何の得にもならない。それっくらいなら、焼かない道明寺でも食って、お茶 飲んでた方が、ずっと有意義ってもんだぜ」
普通の妬心は持ち合わせていなくても 普通以上に察しのいい瞬が、星矢の求めるものを察して、にっこり笑う。
「じゃあ、お茶、いれてくるね。道明寺があるかどうかはわからないけど」
そう言って瞬がラウンジを出ていくと、その場に残された瞬の仲間たちは、瞬の目のないところで安心して(?)、一斉に それぞれの顔を強張らせることになったのだった。

瞬は、焼けない餅を焼かないのではなく、餅を焼く必要がないと思っているのでもなく――そもそも 焼く餅を持っていないのだ。
「おい……これって、つまり……」
顔を ぐにゃりと歪めた星矢に、紫龍が低い呻き声を返す。
それから彼は、沈鬱な表情で、暗く重く口を開いた。
「第四のパターンがあったわけだな。これはつまり、瞬が 嫉妬の感情を知らないというパターンだ」
そうなのではないかと疑っていたことを 紫龍にはっきり言葉にされて、星矢と氷河は、頷きたくもないのに頷くことになった。
つまりは、そういうことなのだ。

「そもそも、嫉妬の感情というものは、普通は、自分より少し恵まれた才能や物を持っている他者に対して抱く羨望の思いだ。だが、幼い頃から、あまり幸運幸福とは言えず、むしろ不遇の中にいることの多かった瞬は、生きていくために、ひたすら耐え、諦めるしかなかった。自分以外の人間を羨んでいる余裕がなかったんだ。瞬は、生き延びるために、人を羨むことより、耐え諦めることを学ばねばならなかった。そして、そのまま 瞬は、嫉妬の感情を学ぶことなく、今日まできてしまった。……そういうことだ」
「うん……」

瞬に限らず、親というものを早くに失った青銅聖闘士たちには、程度の差はあれ 全員に そういうところがあった。
幸運な他人を羨むより、まずは自分の不遇に耐え、打ちのめされないことが大事。
人を妬み羨んでも、何の得にもならない。
まさに、瞬が言っていた通りである。
今の瞬からは想像もできないが、幼い頃の瞬は、聖闘士候補として最も期待されていない子供、修行地からの生還さえ絶望視されていた子供だったのだ。
瞬は、他の子供たちより はるかに余裕がなく、嫉妬心を育む時間も余力も持っていなかったことだろう。
生きていられればそれでいい――それでよかったのだ、瞬は。

そんな瞬に焼きもちを焼いてもらうためには、まず、瞬に嫉妬の感情を学ばせなければならない。
耐えなくてもいいのだと、諦めなくてもいいのだと、欲を持ってもいいのだと、瞬に教えてやらなければならない。
人の持つ才能や物を妬み羨むことのできる人間は、ある意味、幸福な人間なのだ。
氷河が氷河の望みを叶えるには、最低でも、自分より恵まれている他者を羨むことができる程度に、瞬を幸せな人間にするところから始めなければならない。

その事実に初めて気付き、認識し、瞬の仲間たちは――特に、氷河は――ひどく切ない気持ちになった。
そして、だが、だからこそ、必ず自分は自分の願いを実現させてみせると、半ば使命感に似た思いと共に、氷河は固く決意したのである。






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