「平気な振りをするので精一杯なんだよ! 僕は、氷河がいなくても、生きていかなきゃならない。氷河がいなくなっちゃったら、一人で生きることで、僕は精一杯になる。僕は死ねないんだから! 生きていることだけで精一杯の人間が、自分の命を永らえることの他に何を考える余裕があるっていうの!」 「しゅ……瞬……?」 「氷河に抱きしめてもらえなくなるんだよ! つらい時、どうやって耐えたらいいか、考えなくちゃならない。悲しい時、自分で涙を止める方法を思い出さなきゃならない。嬉しい時、氷河と一緒に喜んでもらえないことを、どうやって耐えるのか、考えなきゃならない。夜だって、泣かずに一人で眠る方法を編み出さなきゃならない。そんな時に 焼きもちなんて――氷河が側にいてくれなくなったら、氷河が僕の側にいてくれなくなったら――僕は、他の人のこと、考えてる余裕なんかないよ!」 それは 例え話にすぎないというのに――氷河は もちろん、瞬の側を離れるつもりなど全くないというのに――瞬は、その瞳を涙でいっぱいにして、氷河に訴えてくる。 瞬の迫力に、氷河はすっかり 瞬に完全に圧倒されている氷河が、かろうじて口にすることができたのは、 「そ……それは確かに、エリスに嫉妬している余裕はないな」 という、ほとんど意味のない呟きのみ。 いつも花のように優しく穏やかで、滅多に声を荒げず、やわらかに微笑んでいるのが常だった瞬が――たった今も、前向きなのか 後ろ向きなのかの判断に迷う主張を主張している瞬が、 「あるわけないでしょう!」 と、強い口調で氷河を怒鳴りつけてくる。 断固として力強く雄々しい瞬の前で、氷河は、瞬に操られている操り人形のように こくこくと頷くことしかできなかった。 実際、氷河は考えていなかったのである。 別れがどうの、他人になったら こうのと、愚にもつかないIF文を頭の中で繰り返しながら、瞬と一緒に眠ることのできない夜のことなど。 氷河にとって、それは、想像もできないものだった。 耐える以前に、想像ができない。 何とか想像することができたとしても、その想像に耐えることができそうになかった。 そして、更に氷河に想像できなかったこと――想像してもいなかったことが もう一つ。 それは、氷河が改めて想像するまでもなく、現実のものとして、今 彼の目の前にあったのだが――氷河は、自分の不在が これほど瞬を苦しませることだとは、それこそ想像したこともなかった。 自分を、それほど大層なものだとは考えてもいなかったのである。 氷河としては、最初に絵梨衣が城戸邸にスイートピーの花を分けてもらいに来た時に、『絵梨衣さんは、どうして沙織さんじゃなく、氷河にそんなことを頼んだの?』とか『花のことなら、氷河より僕の方が詳しいのに』とか、そんな可愛い嫌味を言って、ちょっと瞬に拗ねてもらえれば、それで満足だったのだ。 それが、瞬が自分を好きでいてくれることの証になると思っていた。 その考えが根本的に間違っていたことに、今になって気付かされて――というより、思い知らされて――氷河はこれまで 瞬を女の子と誤解して粉をかけてくるような馬鹿者共に 気軽に(?)焼きもちを焼いていた自分の軽佻浮薄を深く反省することになったのである。 瞬は焼きもちを焼かない。 それは、瞬が、諦めがよすぎるからなのかもしれない。 『人の心は変わるものである』という、ごく一般的な事実を常識的に知っていて、恋人の心の不変を信じていないからなのかもしれない。 恋人の心変わりを自然なこと、致し方のないことと認め受け入れてしまえるからなのかもしれない。 恋を失っても自分は生きていける、生きていかなければならないのだと、強く思っているからなのかもしれない。 あるいは、幼少時代の不遇が、瞬から嫉妬心というものを学ぶ機会を奪ったからだったのかもしれない。 それは、瞬にとって、非常に不幸なことなのかもしれない。 だが、それらのことは どれも、瞬が瞬の恋人を好きではないことの証左には 決して なり得ないことなのだ。 たった今、氷河の目の前で、『氷河の決めたことなら、その意思を尊重する。氷河が側にいてくれなくなっても、僕は必死に生きていく』と涙ながらに訴える瞬が、“氷河”を嫌っているのだと思うことは、氷河には 天地が引っくり返っても できることではなかった。 そしてまた、この瞬を失うことなど、全人類が死滅し、全世界が滅亡し、全宇宙が消滅しても、受け入れられることではなかったのである。 「すまんっ」 懸命に涙をこらえようとして、だが、その努力が全く報われていない瞬の細い身体を、氷河は ほとんど飛びつくようにして抱きしめた。 瞬は恋人の軽率に傷付いているのだから優しくしてやらなければならないと思うのに、力の加減ができない。 力の加減同様、声の音量調節もできず、氷河は瞬の耳許で 彼の後悔を大声で がなりたてることになった。 「すまん、瞬。俺が悪かった! 俺は おまえだけのものだ。俺にはおまえだけだ! 俺は おまえなしでは生きていけない。おまえ以外の奴なんて、そういえば どうでもいいものだった!」 「え……だって、氷河はエリスさんと」 「エリスサン? それは新種のカボチャの名前か何かか?」 「カボチャ?」 なぜ ここでカボチャが出てくるのか。 それが瞬にはわからなかった。 場にそぐわない果菜の名前を聞かされて、瞬は 氷河の胸の中で1、2度 瞬きをした。 あいにく 氷河は 突然のカボチャ出現の事実をさほど重要な不可解とは認識していないらしく、そのあたりの説明を省略して、彼の言いたいこと(だけ)をまくしたて続けてくれたのだが。 「おまえだけだ! おまえほど素晴らしい人間はいない。俺の命も心もおまえだけのものだ。どうして俺が おまえの側を離れて どっかのカボチャなんかと……!」 「カボチャ……」 冬至でもイースターでもないのに、なぜカボチャなのか。 瞬の疑念は深まる一方だった。 そして、それが 人でも物でも 理由なく軽視することを よしとしない瞬は、とりあえず、氷河の腕の中でカボチャの擁護を開始した。 「カボチャなんかカボチャなんかって言わないで。カボチャのタルトはおいしいよ」 「あ? ああ、何だって、おまえの言う通りだ。俺はおまえのためなら、世界中のカボチャを集めてきて、すべてのカボチャをおまえに捧げる」 「カボチャのタルトは一つあれば十分だけど」 「遠慮しなくていいんだ。おまえには、世界中のカボチャをその手にするだけの価値がある!」 なぜ 今、この場面でカボチャなのかということも問題だったのだが、世界中のカボチャをもらっても処分に困る。 本気で世界中のカボチャ集めを始めてしまいそうな勢いの氷河を落ち着かせるために、瞬は、氷河の胸に頬を押しあてながら、 「でも、一つのタルトを氷河と半分こする方が素敵でしょ」 と小さな声で告げたのである。 氷河が、これまで通り、これからも、自分の側にいてくれるのなら、カボチャ出現の謎など、瞬には 本当はどうでもいいことだったのだ。 「何だって、どんなことだって、すべて おまえの言う通りだーっ !! 」 氷河は すぐに瞬の意見に賛同した。 瞬の焼きもちより価値あるものを手に入れ、興奮しまくった氷河の雄叫びが 城戸邸の広いエントランスホールに響き渡る。 氷河の その大声は、騒ぎを聞きつけてホールに駆けつけてきていた星矢と紫龍の顔を、いつまでも消えない木霊の揺らぎのように歪ませることになった。 「俺、なんか、瞬って、別に不幸なわけでも かわいそうなわけでもないような気がしてきたんだけど……。嫉妬なんて知らなくても、瞬は弱いわけでも何でもないんだしさ。瞬は、嫉妬以外のところから、いくらでも生きる力を見い出せる奴だし、前向きで強くもある。むしろ、氷河の方が、瞬に振り回されてるっていうか、瞬に踊らされてるっていうか、そんな気がするんだけど……」 城戸邸エントランスホールの空気が いつまでも揺れ動き続けているのは、氷河の雄叫びの残響のせいもあったろうが、瞬に抱きついている氷河が、その見えない尻尾を千切れんばかりに振り続けているせいでもあったろう。 二人の青銅聖闘士から成る このカップルは、どう考えても 瞬が飼い主で、氷河は 飼い主より図体が大きいだけの、従順至極な飼い犬だった。 「思い切り、踊らされているな。同じ男として情けない」 氷河の 見えない尻尾を見やり、嘆かわしげに 紫龍が大きな溜め息を洩らす。 『瞬も“同じ男”だが』という突っ込みを入れようとした星矢は、その直前で そうすることを思いとどまった。 自分が氷河と同じ男なのだと思うのは 死ぬほど嫌だが、自分と瞬が同じ男だと思うことにも 微妙な違和感を覚える。 その理由を考えると 面倒なことになりそうだったので、星矢は 自分の発言内容を その直前で変更することにしたのだった。 「瞬のあれって、天然か? それとも計算か?」 本来は社会より野生に生きる動物であったはずの 氷河を、盲目的に従順な飼い犬に変える瞬の その力は、天賦の才か、あるいは学んで会得した技術なのか。 原点に還ったように超根本的な星矢の疑問に答える前に、紫龍は 軽く その両の肩をすくめた。 「計算ではないだろう。まともに計算ができる人間は、そもそも氷河のような阿呆を相手にすることはしない。それこそ、時間の無駄だ」 「そりゃそーだ。でも、ってことは、瞬は氷河なんかを損得勘定抜きで好きでいるってことになるぜ? 変な話だよなー。瞬って、他のことじゃ、結構 お利口サンなのに」 「恋は思案の外 と言うからな。蓼食う虫も好き好き、恋は盲目、惚れた欲目に、アバタもエクボ、縁は異なもの味なもの」 「それって、誰かを好きになると、人間 みんなアホになるって ことわざじゃん。氷河はともかく、瞬でもそうなのかよ」 「現にそうだからな。だが、まあ、ともかく、これで めでたしめでたし。俺たちは、そんな阿呆たちには極力 関わらないように気をつければいいというだけのことだ」 「おまえ、そう簡単に言うけどさー……」 今、その阿呆な行為の真っ只中にいるのは、命をかけた戦いを共に戦ってきた かけがえのない仲間、そして、これからも共に戦っていく 失うわけにはいかない仲間たちなのである。 彼等に関わらずにいることは はたして可能なことなのかと、星矢が紫龍に尋ねようとした時だった。 エントランスホールから各棟に延びる廊下の通り口に、かけがえのない仲間たちの姿があることに気付いたらしい氷河が、 「ああ、ちょうどいいところに。瞬がレピキュリアンのカボチャのタルトを食べたいんだそうだ。おまえら、ちょっとK祥寺まで行って買ってこい。1個だけでいいからな」 という阿呆なことを、地上の平和と安寧を守るために存在するアテナの聖闘士たちに、堂々と命じてきたのは。 「なに?」 「瞬が、俺と半分こしたいんだそうだ。早くしろ!」 「……」 『おまえらに拒否権はない』と言わんばかりに強気な氷河の後ろには、今は涙の乾いた瞬が、氷河の横暴に困ったような顔をして控えている。 人として、男として、聖闘士として、情けなくはあったのだが、星矢と紫龍は、氷河に言いつけられた仕事を拒むことはできなかった。 せめて その命令に従うのは非常に不本意だということを示すため、わざと のろのろと星矢たちは玄関に向かったのである。 それから ちょうど5分後。 駅に続く のどかな春の道を重い足取りで歩んでいた星矢は、 「阿呆の氷河に いいように使われてる俺たちって、もしかして、氷河以上の阿呆なんじゃね?」 とぼやくことになった。 「馬鹿を言うな! 俺たちは氷河に使われているんじゃない。瞬に使われているんだ!」 珍しく 向きになって主張する紫龍の その気持ちは、星矢にもわからないではなかった。 同じ阿呆なら、氷河よりは瞬に使われている方がまだまし、多少は人としてのプライドが保たれるということなのだろう。 「その方がまだ救いがあるな」 瞬に使われているという点で、龍座の聖闘士と天馬座の聖闘士は 氷河と同レベル、氷河以下ではないというだけのことなのだが、星矢は、自分自身と紫龍の最後の矜持を保つため、そこに言及することだけは 賢明にも避けたのだった。 そんなこんなを考えるにつけ、この状況下での最大の謎は、氷河(と その仲間)を ここまで自在に躍らせることのできている瞬が、それでも そんな氷河を心から好きでいるらしいという、この現実である。 結局のところ、恋をしている人間は皆 阿呆だということなのだろう。 だが、恋する阿呆に逆らえない常識人が阿呆でないかというと、その答えもまた『否』。 結論として言えることは、この地上で活動する人間たちの間に“恋”という現象がある限り、当事者も当事者外の人間も――つまりは、すべての人間が阿呆にならざるを得ないのだということ。 同じ阿呆なら、踊ってしまった方が得なのかもしれない。 同じ阿呆なら、踊ってしまった方が楽しいのかもしれない。 腹が立つほど晴れて のどかな春の空の下、星矢は、らしくもなく そんなことを思ってしまったのだった。 Fin.
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