記憶の花園






記憶の神だと、その女神は言った。
生物の命の源たる海の界を支配する神でもなく、神々の住まう天界を支配する神でもなく、どんな人間も免れることのできない死の国を支配する神でもなく――彼女が支配するものは人間の記憶。
人間個々人の中にひっそりと息づいている記憶なのだと。

彼女はオリュンポス十二神に数えられるような有力な神ではない。
実際、その日、野を駆ける風が春のそれから夏のそれに変わりかけている聖域で彼女に会うまで、瞬は記憶の女神の名を知らなかった。
記憶の女神と彼女に告げられた瞬は、だから、その時 僅かに首をかしげたのである。
彼女は、瞬の仕草の意味を正確に察しているような微笑を浮かべ、そして言った。

「でも、本当の力、本当の強さというものは、天を引き裂く稲妻を起こす技や 嵐を巻き起こす技ではないわ。死そのものには、人間を恐れ怯えさせる力はあるかもしれないけど、死の国を支配する地位そのものには大した力はない。それは、あなた方だって わかっているでしょう。そんな技や地位よりも、あなた方が信奉する愛の方が よほど強い力を持っているということは」
それは、瞬にも素直に首肯できる意見だった。
自分の力でアテナの聖闘士たちを この地上から消滅させてみせると言っている彼女に、実際に頷いてみせるわけにはいかなかったが。

彼女は、微笑しながらアテナの聖闘士たちに宣言したのだった。
海や天空を荒れ狂わせる力や 死への恐怖、そういった力はもちろん、他のどんな武器も用いずに、アテナの聖闘士を その地上から滅し去ってみせると。
「確かに、愛の力は強い。でもね、記憶は その愛を支配するものなのよ」
僕たちに そう告げる彼女の声は、まるでアテナの聖闘士たちを からかうような口調だった。
「私の戦い方は、他の神たちとは違う。私は、あなた方の住む地上を消し去ることはできない。水浸しにすることもできない。死や漆黒の闇で覆い尽くす力もない。私にできるのは、あなた方の記憶を守ること、あるいは奪うことだけ」

若い少女のようにも、長い年月を生きてきた老女にも見える、不思議な姿の女神。
「あなた方から、あなた方が戦う理由の記憶を奪ってあげましょう。もしかしたら、あなた方は、それで 今より はるかに幸福な人間になれるかもしれなくてよ」
アテナの聖闘士を この地上から消し去ってみせると宣言した記憶の女神は、そう言って微笑み、アテナの聖闘士たちにかすり傷ひとつ負わせることもなく、消えていった。

そうして、彼女の姿の消えた聖域の片隅で、瞬と瞬の仲間たちは、彼女の言った通りのものになっていたのである。
瞬は――瞬たちは――自分たちが これまで何のために戦ってきたのかを、忘れていた。
自分たちが その何かのために命をかけて戦っていたことは憶えているというのに。
「あ……」
瞬は、自身の胸の虚ろを自覚しながら、ぼんやりと仲間たちを見やった。
同じように、どこかぼんやりした目で、仲間たちが瞬を見詰め返してくる。

戦う理由を忘れてしまった人間が、これほど虚無感を抱く者だったとは。
だが、それは致し方のないこと――ごく自然なことだったかもしれない。
“戦うこと”は、彼等にとって、“生きること”とほぼ同義のものだった。
その理由を奪われてしまったのだ。
生きる理由を奪われてしまったも同然の人間が、生気に満ちて明るく輝いていることなどできるはずがない。

「おい……」
仲間に関する記憶までを奪われなかったのは、彼等にとって不幸中の幸いだったろう。
眉根を寄せて、あやふやな口調で自分に声をかけてきた人物が、大切な仲間の星矢だと わかることに、瞬は途轍もない喜びを覚え、また 安堵した。
そして、仲間たちに関する記憶まで奪われていたら――自分は一人きりではないのだという事実を忘れさせられていたなら――自分はどうなっていたのだろうと、瞬は戦慄したのだった。

仲間に忘れられることのなかった星矢が、星矢に忘れられずに済んだ仲間たちに問うてくる。
「今の女神サマ、本物かもしれないぞ。俺、ほんとにド忘れしちまってる……。俺たちは何のために戦っていたんだ……?」
「それはもちろん――」
何のためだったろう?
紫龍が途切らせた言葉の先に置くべきものを、瞬もまた思い出せなかった。
確かに何かのために戦っていたはずなのに、その事実は憶えているのに、それ・・が何であったのかを、どうしても思い出すことができないのだ。

今、世界は平和である。
少なくとも、瞬と瞬の仲間たちの周囲に 戦いは存在していなかった。
ポセイドンやハーデス――地上の支配や人類の粛清を企んだ神たちは、その野望を打ち砕かれた。
そうして訪れた平和の時。
世界は、その時から 何も変わっていないように見える。
実際、変わっていなかったろう。変わったのは世界ではなく、瞬たちの方だった。

瞬は、自分たちが聖闘士と呼ばれる者たちだということは憶えていた――忘れていなかった。
聖闘士――尋常の人間たちは持っていない力を持っている人間。
戦うために存在している人間。
だが、その力は いったい何のために自分たちに備わっているのか。
ここが聖域だということも、これまでの戦いがどんなものだったのかも、これまでに相対してきた敵たちのことすら憶えているというのに、自分たちが何のために戦ってきたのかということだけは思い出せない――。

「なんか、胸のあたりが もやもやして、すげー気分が悪い」
星矢が、その言葉通りに 気分の悪そうな顔をして、ぼやく。
瞬も、それは似たようなものだった。
戦う理由を忘れたことは、瞬たちに苦痛をもたらすことはなかった。
悲しみも寂しさも もたらさなかった。
ただ、とにかく気分が悪いのだ。
やがて、瞬たちは、その気分の悪さが虚無感によって作られるものだということに気付いた。

「これは……奪われたものを取り戻すしかないだろうな」
「でも、どうやって?」
紫龍の意見に異議はない。
むしろ、一刻も早く失ったものを取り戻したくて、瞬は彼に尋ねた。
が、紫龍からの答えは沈黙。

こういう時に 相談できるような人はいなかっただろうかと、瞬が、古代ギリシャの人々の叡智の象徴にも見える聖域の神殿や石造りの宮を見上げた時だった。
「記憶の女神は、人の記憶を奪うことはできても、それを無にすることはできない――消し去ることはできない。そなたたちの奪われた記憶は、記憶の花園に一輪の花となって生き続けている。記憶の花は、そなたたちが死ぬ時まで枯れることはない」
そう言って、突然、黒いケープで全身を覆い隠した女が、瞬たちの前に現われたのは。

“現われた”という言い方は適切ではなかったかもしれない。
全身を――その顔や髪までを黒いフードで覆い隠した その女の身体は、僅かに宙に浮いており、注意して見ると、それがホログラフのように実体のないものだということがわかったから。
彼女は、“現われた”というより、何らかの力によって、そこに“映し出されて”いたのだ。

いったい彼女は何者なのか。
敵か味方か、それ以前に彼女は生きている人間なのだろうか――?
『どうぞ、怪しんでください』と言わんばかりに怪しげな その姿。登場の仕方、タイミング。
瞬は、もちろん、彼女の意図を――その存在の真偽すら疑った。
ところが、星矢の反応は違っていたのである。

「怪しむのも馬鹿らしくなるほど怪しすぎる ばーさんだな。何か知ってるなら、ヒントくれ、ヒント。それが 魔法使いのばーさんの役目だろ」
星矢が、持ち前の大様さを発揮して、黒衣の女に尋ねていく。
星矢の言うように、ここが魔法使いが普通に存在する おとぎ話の世界なら、得体の知れぬ初対面の人の助言を素直に受け入れることは美徳になり得る行為かもしれないが、現実世界では、それは無謀。
むしろ、危険なことなのではないかと、瞬は慌ててしまったのである。
が、戦いの理由は忘れても、星矢は(何事にも大雑把という)星矢らしさを失ってはいないらしく、彼は本気で 魔法使いのおばあさんに助言を求めているようだった。

「まあ、彼女の話を聞いてみるのも悪くはないかもしれない。俺たちには、他にできることもないんだからな。人が人を疑ったり怪しんだりするには、これだけは真実だと思える何かを持っていなければならない。それと比較して、人は人を怪しむんだ。善悪の判断も似たようなもの。だが、今の俺たちは、それを――判断の物差しとなるべきものを奪われてしまっているも同然。とりあえず、その物差しの再構築のために、どんな馬鹿げたものでも 情報を増やすことには意義があるだろう。彼女は何かを知っているようではあるし」
「……」
彼女はいったい何者なのかと怪しむ心が消えたわけではなかったが、紫龍の言う通り、確かに彼女は何かを知っているふうではある。
積極的に星矢たちに反対しても得られるものはないと判断し、瞬は小さく頷いた。

「ご存じのことがあったら、教えてください。あなたは――人間?」
瞬が丁寧に、だが、疑念を隠し切れずに 彼女に尋ねると、彼女は瞬に 答えになっていない答えを返してきた。
「ばーさんでないことは確かだ。そなたたちが、私を 『お姉さん』と呼ぶなら、私が知っていることを教えてやらぬこともない」
「綺麗なねーちゃん、もったいぶらずに教えてくれよ。その記憶の花園ってのは、どこにあるんだ?」
「……」
顔も見てもいないのに、『魔法使いの ばーさん』を『綺麗なねーちゃん』に格上げした星矢に、彼女は少なからず呆れたようだった。
しかし、その件には言及せず、“彼女が知っていること”を彼女が語り出す。

「記憶の花園は、忘却の河の向こうにある。忘却の河がどこにあるのかまでは、そなたたちも忘れてはおらぬだろうな?」
星矢が彼女に首肯しなかったのは、星矢が“忘却の河”のある場所を忘れていたからだったろう。
というより、星矢は、それが何であるのかさえ忘れていた――その河の存在を教えてもらったことさえ忘れていた――ようだった。
記憶の女神の力によってではなく、おそらく自分の力(?)によって。

が、星矢が忘れていたことを、瞬は憶えていたのである。
それは、冥界の渡し守カロンが、至福の園エリシオンを語った時に口にした冥界の河の名だった。
その河の存在を知っている者――となると、やはり彼女は“生きている人間”ではないということなのだろうか。
「あなたは、ハーデスの――冥界の住人だったの?」
「そんなことに答える義務はない」
瞬に そう問われることを察していたかのような即答。
自分が何者であるのかを、“生きている人間”たちに知らせることはせず、代わりに彼女は 瞬たちを挑発してきた。

「私の言葉を信じるも信じないも、そなたたちの自由だ。記憶の花園に 自らの記憶を取り戻しに向かうかどうかも、そなたたちが勝手に決めればいい。記憶の一部を奪われたところで、そなたたちは死んだりはせぬのだし、そなたたちであり続けることもできるだろう。ただ、私が知らせた場所に、そなたたちの記憶の花があるのは事実だ」
「あなたの言葉を疑うわけではないけど、でも、冥界は――」
冥界は、ハーデスの力の消滅と共に崩壊してしまったのではないのか――。
瞬が彼女に そう告げようとした時には既に、黒衣の女の姿は消えてしまっていた。
戦う理由を忘れた聖闘士たちと、忘れた記憶を取り戻すことができるかもしれないという希望を、その場に残して。

「今の人は もしかして……」
未だ かつて一度も死んだことのない瞬は、死者の国にある命が どういう法則にのっとって存在するものなのかを知らなかった。
だが、もしかしたら、今の黒衣の女性は彼女・・なのではないだろうか――。
脳裏に 冥界で出会った黒衣の女性の姿を思い浮かべ、瞬は そう思った。
だとしたら、現在の彼女が、彼女の仕えていた神の力を封じた人間たちに 好意を抱いている可能性と悪意を抱いている可能性は五分五分といったところだろう。
であればこそ、瞬は、彼女の言葉は本当のことなのかもしれないと思ったのである。
瞬の仲間たちも、同じ考えを抱いたようだった。






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