冥闘士のいない冥界を進むのは、至って容易なことだった。
かつて戦いの場となった場所に、かつて戦った敵たちの姿がないことは、ある種の無常感や哀惜の念を 青銅聖闘士たちの胸中に生むことになったのだが、それらの思いは彼等の足を止めるようなものではなかった。
そうして、彼等は、エリシオンの園に再び立ったのである。

エリシオン――奪われた記憶、失われた記憶が花となって咲いている場所――至福者の苑。
人世での悲しみも苦しみも忘れて、人が永劫の幸福を得ると言われている無憂の花園。
瞬たちは、この至福者の園が花で埋め尽くされている理由を、二度目の訪問で初めて理解したのだった。
それらが人の記憶の花だから、ここは幸福の園と呼ばれていたのだ。
人が完全に幸福なものになるためには、浮き世の憂さを忘れてしまわなければならない――というのが、ギリシャの神々の――あるいは人間たちの――考えだったのだと。

「でも、そんなのが本当の幸福なのかな……」
そうではないという答えを知っている声音で、瞬が呟く。
「もちろん、そんなものが幸福であるはずがない。自分の生きてきた軌跡を忘れることを認め受け入れることは、自分の生が無意味なものだったと認めること。自身を否定して得られる幸福が真の幸福であるはずがない」
「そーそー。それまで自分がしてきたこと全部忘れて 幸せ〜なんて言ってる奴は、別に幸せなわけでも何でもなくて、ただの おめでたい馬鹿野郎だろ」
性格も戦い方も その行動様式も まるで違う仲間たちが、すぐに瞬と同じ考えを披露してくる。
他のすべてが違っていても、“幸福”というものに関しての考えが同じであるからこそ、自分たちは仲間として共に戦うことができているのかもしれないと思い、瞬は幸福な気持ちになったのである。
だが――。

「でも、どれが僕たちの戦う理由の記憶が隠された花なのか わからないよ。こんな広いところから、たった1輪――4輪の花を探し出すことなんてできるの……」
「しかも、みな似たような花だしな。色も形も違うが、同じ花という点で、区別をつけることに意味もないように思えるほど花だらけだ」
「見付ける頃には、俺たち、よぼよぼのジイさんになってんじゃねーの?」

星矢は冗談のつもりで言ったのだろうが、それは冗談になっていない冗談だった。
その果てが どこにあるのかを見極めることもできないほど広大無辺の花の海。
この広大な花園の中から たった1輪だけの自分の花を探し出すのは、ハーデスを謀ったために永遠に無益な労働を強いられることになった、かのシーシュポスの苦役より功のない作業なのではないかと、瞬は絶望的な気分になったのである。
「氷河……僕たち、いったいどうすれば――」
「あそこだ。ハーデスの墓所のあったところに咲いている」
「えっ」
百年かけても終わりそうにない難行に思えた、失われた記憶の花探し。
それを5秒とかからぬうちに成し遂げたと告げる氷河に、瞬は、それこそ何の冗談かと呆れ驚いてしまったのである。

「あそこだ……って、な……なぜ、わかるの」
自分たちが何を忘れたのかもわからない者たちが、失われた何かを探し出す。
それが容易なことであるはずがない。
震える声で尋ねた瞬に、氷河は気まずそうな顔で、彼が その花のありかに気付くに至った根拠を語ってくれたのだった。
「花の周囲に小宇宙が漂っている。おまえたちと……そして、アテナの」
「アテナ……?」

それはいったい何なのか。
それが何であるのかは、瞬たちにも まもなくわかった。
というより、瞬たちは思い出した――失われたものを取り戻したのである。
氷河に指し示された3つの花を、瞬たちが それぞれの手で摘み、その花が瞬たち手の上で 吸い込まれるように消えていった瞬間に。

「アテナ……」
瞬の小さな呟き。
同じ名を、星矢と紫龍も思い出していた。
なぜ忘れることができていたのかが不思議としか思えない、彼等の運命の指針たる女神の名を。
「どうして僕たち、アテナを忘れたりなんか――」
数万、数十万のピースから成るジグソーパズルの最後の1ピースが はめ込まれ、本当の自分が完成したような充足感。
瞬の表情は自然に満足と幸福でできたものに変わり――そして、再び 曇った。
仲間たちの記憶の花を いとも簡単に見付けてみせた氷河が、まだ彼の記憶の花を摘んでいなかったのだ。
というより、彼は、自分の記憶の花がどこにあるあるのか、まだ わかっていないように――途方に暮れた目で、広大な花園を見詰めていた。
先ほどまでの瞬たちと同じように。

「氷河の花はどれ?」
まさか氷河だけが彼の記憶を取り戻せないなどということがあるのだろうか。
不安を隠すことができずに、瞬は氷河に尋ねたのである。
瞬が不安に思った通り、氷河は――自分の記憶の花のありかだけはわかっていないようだった。
苦渋に満ちた沈黙が、氷河から返ってくる。
「氷河……まさか……」

それでは何にもならない。
アテナの聖闘士たちは、皆が一つの目的のために戦うことができてこそ、アテナの聖闘士たちなのだ。
もし一人でも欠けるようなことがあったなら、アテナの聖闘士たちのジグソーパズルは完成しない。
だから、瞬は探したのである。
この広い花園の中に もう1輪あるはずの、アテナの小宇宙の気配を漂わせた氷河の記憶の花を。

だが、瞬は 記憶の花園のどこにも、アテナの小宇宙を漂わせた もう1輪の花の存在を感じとることができなかった。
優しく温かく力強い、あのアテナの小宇宙の片鱗を、アテナの聖闘士に戻ることのできた自分に感じ取れないことなどあるはずがないと思うのに、どうしても。
瞬は泣きたい気持ちになったが、すぐに、たとえ百年の時がかかっても、この広大な花園から氷河の記憶の花を探し出す決意をしたのである。
瞬の決意を察したように――それまで無言でいた氷河は、やっと その重い口を開いた。

「俺が失った記憶の花を探してくれ。アテナではなく――おそらく、瞬の小宇宙を含んでいると思う」
「なに?」
「え?」
探すものはアテナの小宇宙ではなく、アンドロメダ座の聖闘士の小宇宙。
求める小宇宙の選択回路を切り替えると、それは すぐに捉えることができた。
「これかな? 氷河と瞬の小宇宙の感じ・・がする」
そう言って星矢が指し示した花は、瞬たちの記憶の花が咲いていた場所から さほど離れていないところに、妙に控え目に、だが生き生きと咲いていた。
氷河の記憶の花なら、青白い氷の色をしているのだろうと思っていたのに、それは可憐で小さな薄桃色の花だった。

氷河がその花を、震える手で摘みあげる。
途端に、氷河は、
「瞬……!」
呻くような声で瞬の名を呼び、そして、瞬の身体を強く抱きしめたのだった。
「氷河……いったい……」
「すまん。俺はおまえを忘れていたんだ」
「忘れてた……って、僕を?」
「すまん。何度でも謝る。俺を許してくれ……!」
「氷河……」

ここで氷河の謝罪を受け入れてしまったら、アテナのことを忘れていたアテナの聖闘士たちも、彼等の女神に三拝九拝して己れの罪を謝罪しなければならなくなる。
瞬は慌てて首を横に振った。
「今度のことは、僕たちの意思に関係なく、あの女神様の力によって起こったことなんだから、謝ったりなんかする必要はないよ。それより、事情を説明して。どうして氷河だけが アテナを忘れずに、僕のことを忘れることになったの」
「それって、改めて聞かなきゃならないことかぁ?」
「まったくだ。ここで聞くべきは、氷河がなぜその事実を俺たちに隠していたのかということだろう」
非難とも皮肉ともとれる星矢と紫龍の横槍を無視して、氷河は、瞬に求められたことにだけ応じた。

「俺は……おまえと同じ理由で戦ってはいなかった。だから、アテナに関する記憶を失わなかったんだ、最初から。俺も、もちろん、あの記憶の女神とやらに、俺が戦う理由に関する記憶を奪われたんだと思う。だが、俺は、それが何なのかは すぐに察しがついたんだ。記憶が蘇ったわけではなかったが、俺の知らない人が俺の目の前にいて、俺を知っているようだったから。俺が戦う理由はおまえだったのだと、それだけはわかった」
「瞬がおまえの戦う理由って、おまえ、いったい何のために、何を考えて戦ってたんだよ」
星矢が氷河にそう尋ねたのは、星矢にその答えが わからなかったからではなく、氷河の答えを瞬に聞かせてやるためだったろう。
氷河の返答は、星矢の推察通りのものだった。

「俺は、瞬のために戦っていた。瞬が平和を望むから」
「で? なぜ、それを さっさと俺たちに言わなかったんだ」
「言いにくかったんだ。俺が瞬と同じ考えで戦っているんじゃないことを 瞬に知られたくなかったし、瞬に アテナの聖闘士失格と思われることも避けたかった」
「聖闘士失格とは思うかもしれないが、同時に 俺たちは、実に おまえらしいことだとも思っていただろう」
「なんたって、正義のためでも 生き延びるためでもなく、マーマのために聖闘士になった男だもんな。氷河が瞬のために戦ってたって、今更 驚きもしねーぜ」

褒められているのか、けなされているのか――否、おそらく星矢と紫龍は事実を事実として認め、受け入れているだけだったろう。
瞬だけは、氷河の戦う理由がそれ・・だということを知らされて、少々困惑しているようだったが。

「まあ、今回は、おまえの戦う理由が俺たちのそれと違っていたせいで、俺たちは この花園で百年も苦労せずに済んだんだから――おまえが異端の聖闘士だったことが いい方向に作用したわけで、俺たちはおまえに感謝してもいいくらいだが」
「異端だなんて……」
紫龍の言葉に、瞬が眉を曇らせる。
氷河に嫌味は言いたかったが、瞬を悲しませるつもりはなかった紫龍は、すぐに分別顔で異端の重要性を瞬に説明することになった。

「人が他人と違っているということは、極めて重要なことなんだぞ。遺伝子の多様性は、種の存続上、絶対に必要なことなんだ。生物は、すべて環境に順応する方向に進化するものと思われがちだが、そうとは限らない。たとえば、地球温暖化が進んだら暑さに強い遺伝子を持つ者が生き残り、遺伝の仕組み上でも優性になる。そういった遺伝による世代交代が続けば、やがては 暑さに強くない遺伝子は淘汰され消滅するかといえば、さにあらず。必ず暑さに強くない遺伝子も残るようになっているんだ」
「そうなのか? でもさ、そういうのって、環境に順応できないってことだから、やっぱりいつかは滅んじまうんじゃないか?」
「計算上、それには最低でも 数十万年単位の時間が必要だ。実際に、それで滅んでしまった種も数多くある。だが、温暖化が進む地球に ある日 巨大隕石が落下し、広範囲に巻き上げた粉塵のせいで太陽光が遮られ、地球が突然 氷河期に突入することがないとは限らない。そんな時でも生き延びる固体が存在する可能性をなくさないために、異端の遺伝子というものは必要なものなんだ。それこそ、特定の病を得やすい性質や、物事を深く考えることのできない性質、内向的で実行力のない性質等、現在の環境では生きるのに不利と考えられる性質を伝える遺伝子も、いつ どんな環境の変化によって優位性を持つことになるか わからない。要するに、『みんな違って、みんな いい』ということだ」

「へー。なら、俺の大雑把な性格も捨てたもんじゃないってことか」
星矢は、紫龍の語る異端重要説が いたく気に入ったらしい。
冥界から光ある世界に戻る道すがら、自分と仲間たちの短所を並べたてて、それらの短所が どういう環境の変化が起きた時に有利になるのかを妄想混じりに語っては、星矢は 大いに悦に入っていた。






【next】