「俺に恨み言を言うために 化けて出てきてくれたのか」
瞬に そう尋ねた俺の声は、多分 少し弾んでいた。
「どうして、僕が氷河に恨み言なんか言うの?」
俺を責めるために来てくれたはずの瞬の声の方は、俺のそれとは対照的に ごく穏やかだった。
俺の言葉の意味が理解できず、僅かに驚いているようではあったが。
そんな瞬の前で、俺の語気が強くなってしまったのは、もしかしたら 瞬は俺が犯した罪を憶えていないのではないかという困惑と焦慮のせいだったろう。
俺がずっと気に掛け 後悔していたことを、もし瞬が綺麗に忘れていたなんてことがあったら、俺の立場ってものがない。

「俺はおまえを庇ってやれなかった。おまえがデスクィーン島行きのくじを引き当てた時」
「え……?」
「そのあとも――アンドロメダ島がデスクィーン島と大して変わらない場所だと聞いて、俺は、おまえと修行地を交換すべきだと思ったんだ。だが、俺は言い出せなかった。あの時 俺が勇気を出していたら、おまえは生きて帰ってこれていたかもしれないのに」
「……」
瞬は、俺たちが運命のくじを引いた あの日、俺が何もしなかったことだけは憶えていてくれたようだった。
ただ 瞬は、それを憎むべき罪とも 卑怯千万な行為とも考えてはいなかったらしい。
瞬は微かに首をかしげて、それから その首を小さく横に振った。

「ここはとても寒い。氷河でなければ生き延びることはできなかったと思うよ」
『ここは寒い』と告げる瞬は、だが、その言葉に反して 少しも寒そうではなかった。
寒さを遮断できるほどの重装備でいるわけでもないのに。
まあ、幽霊が ぶ厚い耐寒服着用で登場するわけもないんだが。
幽霊だから――瞬は もう寒さを感じないものになってしまっているんだろう。

「どんなところだって、アンドロメダ島やデスクィーン島よりはましだろう。現に、俺は死ななかった」
「氷河が僕と修行地をとりかえっこしてたら、氷河はアンドロメダ島の暑さに負けてしまっていたと思うな。それで結局は共倒れ。それよりだったら、氷河だけでも生き延びられた方がいいでしょう」
それは結果論――しかも、間違った結果論だ。
俺が欲しかった“結果”は 瞬が生き延びることで、俺が生き延びることじゃない。
俺の勇気のなさは、俺にとって最悪の結果をもたらしたんだ。
瞬が死に、俺が生き延びてしまうという、最悪の結果を。

「ちっともよくない。できる限りのことをして、その結果の今なら、まだ諦めもつく。できる限りのことをした上での今なんだから仕様がないと思うこともできる。だが、俺は自分にできたはずのことをしなかった。俺は勇気がなくて 修行地の交換を言い出すことができなかった。そして、おまえを死なせてしまった」
「氷河が、僕と氷河の修行地の交換を提案しても、二度の交換までは、城戸翁も辰巳さんも許さなかったと思うよ」
「だとしても! 俺はむざむざ おまえを殺してしまった。見殺しにしてしまったんだ」
それが、俺の“悔い”だ。
取り返しのつかない、二度と贖うことのできない罪と悔い――。

「だから氷河は日本に帰らないの? 見殺しだなんて、そんなことないよ。氷河の理屈でいったら、星矢や紫龍や――生き延びて日本に帰ってきた仲間たちが みんな、僕を見殺しにしたことになる。そんなはずないでしょう。みんな、それぞれの場所で つらい修行に耐えてきたんだよ。氷河ももちろん悪くない」
瞬が言うのは、瞬の理屈だ。
しかし、俺には俺の理屈がある。
俺は俺の理屈にのっとって――俺は、俺が悪いのだと思っていた。
俺が悪いということを知っていた。

だが、瞬は、なぜ俺が“悪い”のかを知らないから――俺が本来なら感じる必要のない罪悪感に囚われ、過剰に自分を責めているのだと思ったらしい。
瞬は、一人で勝手に罪人になっている(と瞬が思っている)仲間の顔を見上げ、見詰め、そして言った。
「氷河は、みそっかすの僕に、いつも優しかった。僕が泣いてると、そんな僕を 僕より悲しい目で見詰めて、その手で涙を拭ってくれた」
「ハンカチを持ち歩いていなかったからだ」
「え……」

俺の正直な答えを聞いた幽霊の瞬が、ぷっと小さく吹き出す。
そうして 瞬は くすくす笑いながら、もし瞬が生きて その言葉を言ってくれていたのだったら どんなに嬉しかっただろうと思える告白をしてくれた。
「そうだったの? でも、僕は氷河の手で触れてもらえるのが、いつも とっても嬉しかったよ」
本当に、それが生きている瞬の言葉だったなら、俺はどんなに嬉しかったろう。
もし そうだったなら、今 俺は 天にも昇る気持ちになれていたはすだった。

俺が人の心を思い遣れない我儘なガキだった頃、俺がマーマの話をすると、城戸邸に集められていた奴等はみんな、俺をマザコンだの未練がましいだのと言って、馬鹿にしてくれた。
そうしなかったのは瞬だけだった。
――今なら俺にも わかるんだ。
あれは、母親の思い出を持たない奴等の前で、自分だけが持っているものを得意げに語る俺への羨望や憤りから出たことだったんだと。
もちろん 俺は、自分が母親の記憶を持っていることを 得意がっていたわけじゃなかった。
だが、奴等には 俺の言動がそういうもののように見えていたんだろう。
実際、俺は、母親の思い出すら持っていない奴等の気持ちを推し量ることなく、言いたいことを言っていたわけだし。
奴等の心を思い遣ることのできなかった あの頃の俺は、奴等が俺に投げつける言葉を、俺と俺のマーマを侮辱するものだと捉えることしかできなかった。
あの頃の城戸邸には、俺の認識では、俺と俺のマーマを侮辱する者と、何も言わずに無視する者しかいなかった。
瞬だけが、そのどちらでもなかったんだ。

『氷河のマーマは、優しいお母さんだったんだね』
『きっと、とっても綺麗なお母さんだったんだろうね』
『氷河のお母さんは、氷河のことを すごくすごく好きだったんだ』
瞬だって、俺の得意げな言葉に傷付いていないはずはなかったのに――そんなふうに 瞬が言ってくれることが、俺にとってどれほどの慰めだったか。
マーマが俺を愛していたことを認めてくれる人、知っていてくれる人が、俺にとってどれほど大切な存在だったか――。
その大切な人を、俺は守ってやれなかった。
守ってやれないどころか、見殺しにしてしまったんだ。

「もちろん、他の奴等は悪くない。俺だけが悪いんだ。俺はおまえのことが好きだったのに」
「え」
「好きだったのに、我が身可愛さで、俺は俺がアンドロメダ島に行くと言い出せなかった。そうして俺は、おまえが生き延びる可能性をおまえから奪った」
「そ……そんなことは――」
「そうなんだ。頼むから、俺を責めてくれ。でないと俺は――」
でないと俺は、瞬に責めてもらえないことで、一生 後悔を引きずって生き続けなければならなくなるだろう。

俺は――俺はちゃんとわかっている。
俺は明瞭に自覚していた。
俺が瞬に責めてほしいと思うのは、俺が楽になるためだ。
瞬に俺の罪を知ってもらい、その罪を責めてもらうことで、俺は少しでも俺の中の罪悪感を軽減しようとしているんだ。
瞬のためじゃない。
俺のためだ。
俺は俺自身のために、人を責めることなどできそうにない瞬に無理を言っているんだ。

そんな俺の卑劣を、瞬は気付いていたんだろうか。
だから、瞬は俺を責めてくれないんだろうか。
いや、そんなはずはない。
瞬は俺の卑劣になど気付きもせずに、ただ 苦しんでいる俺の心を慰めようとして、
「どう責めればいいの。責める理由なんかないのに」
と言ってくれたんだ。

だが、少しでも楽になりたい俺は必死だった。
卑劣な俺は必死で瞬に言い募った。
「好きだったのに、守り切れなかったんだ。守れなかったんじゃない、守ろうとしなかった。そして、自分ひとりだけ生き延びて、聖闘士なんて馬鹿げたものにまでなった。いや、聖闘士が馬鹿げたものなんじゃない。俺が聖闘士になれたことが馬鹿げているんだ。正義のために戦うんだか希望のために戦うんだか知らないが、好きな子ひとり守れない男に何ができるというんだ……!」
それは反語だったろう。
『そんなことはないよ』という瞬の言葉を期待した反語。
瞬は死んでしまったのに――俺のせいで死んでしまったのに――瞬を殺しておきながら、俺は自分を 何かができる男にしておきたかったんだ。
瞬の否定を期待して、俺は そんな言葉を吐いた。
そして、心優しい瞬は、俺のそんな卑劣にも気付かない――。

「氷河も僕も子供だった。非力な子供だった。それだけのことだよ」
「かもしれない。だが、それだけのことで、俺はおまえを失ってしまったんだ。永遠に」
そう、『俺は』。
苦しんでいるのは『俺』だ。
瞬に責めてもらい、少しでも楽になりたがっている俺。
なのに、なぜ瞬は 俺の陋劣に気付いてくれないんだ――。

俺の卑劣にも苛立ちにも、瞬は気付いた様子を見せなかった。
自分の仲間(だった者)の中に そんな卑怯な浅ましさがあることを認め受け入れることを拒むように、瞬は ただ俺の心を慰撫することだけを考えているようだった。
「でも、僕は ここにいるよ」
俺を責める響きの全くない声で、瞬が そう囁いてくる。
確かに、瞬の心は 今 ここにあるようだった。
だが、それは、俺が望んでいた未来でも結末でもない。
「俺が会いたかったのは、生きている瞬だ。会って、謝りたかった。そして、好きだと言いたかった。なのに、俺はその機会を失った。自分の勇気のなさのせいで」
「氷河は自分を責めすぎだよ。それで氷河の心が楽になれるのなら、少しはそういうことも必要かもしれないけど、でも、氷河には何の罪もないのに……。そんな、無理に自分を傷付けるようなことはしないでいいんだよ」
「……」

瞬は、俺の陋劣に全く気付いていないわけではなかったらしい。
俺が楽になりたがっていること、許されたがっていること、救われたがっていることを ちゃんと感じとっているようだった。
ただ、それを卑劣なことと考えていないだけで。
その事実に気付いて、俺はますます――いや、もしかしたら初めて――俺の勇気のなさがどんな結果を生んだのかを正しく認識することになったんだ。
この、優しくて善良で聡明な瞬を、俺は殺してしまったのだ――と。

「おまえもマーマも、みんな 俺のせいで死んでしまった。俺は永遠に俺の罪を償えない。おまえにもマーマにも謝ることすらできない。俺は この後悔を抱えて、一生生きていかなければならないんだ」
「そんな、人生を諦めた隠者みたいなこと言わないで。氷河はまだ若くて、綺麗で、強くて――氷河には未来があるんだ」
「おまえにはない。俺や大人たちによって奪われた。かわいそうに」
瞬には、俺なんかよりずっと生きる価値があったのに。
俺は、かわいそうな瞬を抱きしめた。
いや、もしかしたら それは――瞬を失った かわいそうな俺が、自分を支えるために瞬にすがっていっただけの行為だったかもしれない。
そのいずれだったにしても、俺が俺の腕の中にある瞬の存在感に――その確かさに――驚くことになったのは 紛れもない事実だった。

「おまえ、本当に幽霊なのか? それとも、これはただの夢なのか? まるで 生きているように手応えがある」
「きっと、氷河の夢の中に出てきた幽霊だよ」
「夢でも――俺に会いにきてくれて嬉しい」
夢なら、これは とてもいい夢だ。
目覚めた時の空しさを想像するだけで胸が張り裂けてしまいそうなほどに、いい夢。
目覚めたくないと俺は思い、固く目を閉じた。
そして、一層強く 瞬を抱きしめた。






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