瞬に力を奪われ眠りに落ちてしまった俺が、次に目覚めた場所は病院だった。 いかにも病院のそれらしい壁、いかにも病室らしい部屋の造り。 俺の右腕には、点滴のチューブがくくりつけられていた。 「信じらんねー。おまえ、3日もメシ食ってなかったんだって?」 その言葉通りに“信じられないもの”を見る目で、丸くて黒い目の持ち主が病室のベッドに横になっている俺を見おろしていた。 それが、昔 城戸邸で1、2を争う腕白坊主だった星矢の大人版の目だと気付くのに、俺はかなりの時間を要した。 「瞬が俺を迎えに来てくれたんだと思ったから」 弱り死にかけていた方が、瞬も俺を死者の国に連れていきやすいだろうと、俺は思ったんだ。 「確かに、瞬は、おまえを迎えに行ったんだけどさー」 「瞬は――おまえが瞬を幽霊だと思っていると言っていたが、そうなのか」 この趣味がいいとは言い難い長髪の男は紫龍だ。 妙に分別くさい口調が、子供の頃とほとんど変わっていない。 「幽霊じゃなかったら――普通の人間が、シベリアくんだりまで気軽に来れるはずがない」 「辰巳に、誰かおまえを迎えに行けって――首に縄をつけてでも日本に連れ戻せって言われて、瞬はシベリアくんだりまで来たんだよ。辰巳の言うことなんか無視してればいいのに、瞬は お人好しだから。……いや、瞬は おまえに会いたかったんだろうな」 「辰巳がどうやって、幽霊の瞬にそんなことを命じられるんだ」 「幽霊じゃないからだろ。おまえ、ほんとに瞬が幽霊だって信じてたのかよ!」 「……」 『信じていたのか』と問われれば、『信じていた』と答えるしかない。 俺の知っている瞬は、人と戦う力を身につけてまで自分が生き延びるなんてことは 死んでもできそうにない、大人しくて内気な子供だった。 星矢の質問に頷いた俺に、星矢は、実に病室にふさわしくない大声で、実に忌憚のない批評を 俺に下してくれた。 「瞬を幽霊と信じてて、3日も絶食して、立ち上がる体力もない状態で 瞬にとんでもないことしでかして、それが終わるなり 空腹で瞬の上にぶっ倒れたのか? ほんとに恥ずかしい男だな!」 「氷河は、餓死より腹上死の方が いい死に方だと判断したんだろう」 「どんな死に方だって、餓死に比べたら 「瞬は聖闘士なんだ。反撃されなくてよかったと、神に感謝することだな。瞬がおまえを憎からず思っていなかったら、俺たちは更に一人 仲間を失っていたかもしれない」 そう告げる紫龍の口調には苦渋の響きがあった。 俺たちが多くの仲間を失ったというのは、やはり事実らしい。 瞬の兄が帰ってきていないというのも、おそらく。 そして、それが現実なのに――瞬より きかん気で体力も腕力もあった子供のほとんどが、死んだにせよ生きているにせよ、聖闘士になるための修行から脱落したというのに、瞬が生き延びて聖闘士になったということも――どうやら事実のようだった。 「動かしても命にかかわるようなことにならないのなら、ちゃんとした治療は日本の病院でするから、即刻氷河の身柄をジェットヘリで運んでこいって、辰巳さんが言ってきたんだけど、いくらなんでもそれは無理だよね……」 いったい どうやって あの瞬が聖闘士なんてものになれたのか、本当に瞬が聖闘士になるための修行を耐え抜くことができたのか――。 星矢たちの言葉を にわかに信じることができずに困惑(というより混乱)していた俺の耳に、突然瞬の声が届けられる。 俺ではなく星矢たちの様子を見て、俺の覚醒に気付いたらしい瞬は、病室のドアの前で足をとめた。 自動ドアが 自分がその場から動かないので閉まるに閉まれないでいることに気付いたらしい瞬が、2歩分だけ、俺のいるベッドの方に移動する。 俺に何を言うべきなのかを、瞬はかなり迷ったらしい。 迷って――瞬は瞬が手なずけた化け物のことに言及することをやめたようだった。 あの化け物がしでかしたことには触れないことにしたようだった。 おそらく、俺のために。 「あの……辰巳さんが氷河と電話で話している時、僕、側にいたんだ。もしかしたら、氷河と話をさせてもらえるかもしれないって思って。でも、氷河は日本に帰らないって言い張って、辰巳さんは怒って、そんなことさせてもらえる雰囲気じゃなくなって……。それで、あの話し方だと、氷河は誤解したって思ったの。僕が死んでしまったって。だから――」 だから おまえは、俺を日本に連れ戻せという辰巳の命令に従って、シベリアくんだりまでやってきたのか? 「最初の夜、氷河はやっぱり誤解してるってわかったんだけど、まさか氷河があんなことを考えていたなんて知らなかったから――僕を見殺しにしたって考えて、氷河が自分を責めてるなんて、僕、知らなかったから……。僕、すぐに誤解を解こうとしたんだよ。でも、氷河といろいろ話しているうちに、幽霊の振りをしていた方が、いろんなことを隠し事せず話してもらえそうだって、僕、思ったんだ。たから、あの夜は幽霊みたいに あの場所を離れて、コホーテク村まで戻ったの。その方が――家の中に入れてもらうより幽霊っぽいでしょう?」 「……」 自分の目で確かめもせずに 辰巳なんかの言葉を鵜呑みにして、瞬の死を信じた俺も迂闊だったが、俺が瞬を死なせてしまったと落ち込んでいることを知りながら、幽霊の振りを続けていた瞬は不人情だ。 悪気はなかったにしても、俺の知っている瞬はそんなことのできるような奴じゃなかったぞ。 瞬にあんな無体なことをしておきながら――俺は瞬に非難の目を向けてしまっていたらしい。 瞬は身体を小さく丸めるようにして、俺に謝ってきた。 「ごめんなさい。本当にそんなつもりはなかったの。ただ、氷河が 僕を好きだったって言ってくれるのは、僕が死んでしまったと信じてるからなんだろうって思ったから……。僕がほんとは生きていることを知ったら、氷河はそう言ってくれなくなるんじゃないかって思ったの。ごめんなさい」 俺は――俺は、ずっと瞬が好きだったんだ。 瞬が俺に嘘をついていた理由が まして、瞬の嘘が生んだ絶望のせいとはいえ、瞬にあんなことをしてしまった俺が。 それがわかっているから、瞬も俺を責められずにいるんだろうし。 瞬が俺を憎からず思ってくれていたことは、紫龍が言っていた通り、俺にとって かなり幸運なことだった。 そして、おそらく、俺にあんなことをされてしまった瞬にとっても。 「普通は凍え死ぬぞ」 俺は、瞬のしたことの是非を問うことはやめた。 それで俺がしたことの是非(非が99パーセントを占める是非)も問われずに済みそうだという姑息な計算を働かせて。 「僕がいたアンドロメダ島も、夜には 氷点下にまで気温が下がるようなとこだったの。電気が通っていないから、夜は、星と月と、それを映す海だけが明かりで――。ランプやランタンはあったけど、燃料は大事に使わなきゃならなかったから。僕、寒いのは平気だし、フクロウみたいに夜目もきくんだよ」 信じられない。 小さくて、大人しくて、いつも一輝の陰に隠れてばかりいる子供だった あの瞬が、本当に聖闘士になれた――いや、 その現実――現実らしい――が、俺はなかなか信じられなかった。 瞬は本当は 孤独と つらい修行に耐えきれずに死んでいて、俺も星矢たちも本当は死んでいて、今 俺たちがいるここは死者の国――死者が、生前できなかったことを成就させるための国なのだと言われた方が よほど真実味があると、正直、俺は思った。 あの小さくて泣き虫だった瞬が聖闘士になったなんて言われるより、その方がずっと信じられる、と。 「つらかったろう」 俺が尋ねると、瞬は首を横に振った。 そうしてから、すぐに縦に。 「何度も何度も死にかけたよ。何度も何度も死のうと思った」 「瞬……」 「誰に どんな綺麗事を言われてもね、死んだ方が楽だってわかってた。でも、僕は、必ず生きて帰るって兄さんと約束してたし、僕が死んだら きっと少しは悲しんでくれる人もいるだろうって思うと死ねなかった。だから、僕は、自分は一度死んだんだって思うことにしたの。僕は一度死んで、すべてを失ったんだって。そんなふうに、死んだつもりになって――そうしたら、僕にとって本当に大切なものは何なのか、これだけは守らなければならないものは何なのかっていうことが見えてきたんだ。余計なことは考えず、僕は そのためだけに生きようと思った。僕が この世に生を受けたことが――そのこと自体が、きっと ものすごいチャンスなんだって思って」 「そうか……」 瞬の『本当に大切なもの』『これだけは守らなければならないもの』――それはいったい何なのか。 瞬に尋ねなくても、それが何なのか、俺には わかるような気がした。 挫折と絶望の果てに、瞬が ただ一つ掴みとったもの。 それは、きっと、とても美しいものだ。 だから、聖闘士になった瞬の瞳は、こんなにも澄んでいるんだ。 一度死んで、余計なものをすべて捨て去って、本当に大切なものだけを持って生き返ってきたから。 今の俺も似たようなものなのかもしれない。 すべてを失ったと思ったのに、俺の手の中には、ただ一つだけ残っているものがあった。 その ただ一つのもののためだけに、死んだつもりになって、命をかけて 生きていけばいいんだ、俺も、多分。 詰まらない後悔を二度と繰り返さないためにも。 「瞬。すまなかった」 俺は瞬に低い声で謝った。 「何が?」 瞬が、そう答えてくる。 俺のしたことは『何が?』の一言で帳消しになるような軽微な罪じゃないと思うんだが。 『何が?』の一言で、瞬が俺を許そうとしてくれていることは、きっと俺に与えられた“ものすごいチャンス”だ。 そして、このチャンスを逃して、また愚かな過ちを犯すようなことがあったら、俺は救いようのない馬鹿だ。 俺にとって『本当に大切なもの』『これだけは守らなければならないもの』。 その守るべき大切なもののために、俺は もう一度、自分の生を生きてみることにした。 Fin.
|