瞬曰く“善良で清らかな人”の畑に向かう途中の光景は、なぜか氷河の許に懐かしさに似た思いを もたらすものだった。
太陽神が司る光と熱の源は、徐々に西に傾き始めている。
空には、まだ夕暮れの色を帯びていない白い雲。
遠くに見える緑の森。
野草が小さな花をつけている大地に細く作られた、人間が歩むための道。
氷河の前を歩む二人の少年の髪を、風が時折 からかいながら通り過ぎていく。
確かに、神々住まう天界のように無機質なほど清澄な世界ではないが、氷河が聞いていたものとは全く違う世界が、そこにはあった。
少なくとも、そこは、“腐臭漂う醜悪な世界”ではなかった。

「あいつ、氷河って言ったっけ? ほんとに ついてくるぞ。大丈夫か? 急に暴れ出したりしないだろうな」
理由もなく暴れたりするような真似をするのは、秩序も何もない地獄の住人の方なのではないかと、星矢が瞬に耳打ちした言葉を洩れ聞いた氷河は憤ったのである。
そもそも、礼節を尽くし、どんな危害を加えてもいない神の使いに対して、そういう疑いの心を抱くことこそ、無礼で粗暴な振舞いだろう――と。
さすがに地獄の王は、従者の理不尽な疑いを すぐに否定したが、その理屈もまた氷河には解し難いものだった。

「そんなふうに言っちゃいけないよ。きっと、彼は、とても つらいことがあって、人が信じられなくなって、この世界に対して懐疑的になってるんだよ。優しくて親切な人は どこにでも いっぱいいるんだって教えてあげれば、人を信じる気持ちを取り戻して、満足して帰ってくれるんじゃないかな」
「帰るって、どこにだよ。申告通り、天界にか? 嘘くせー。あいつ、絶対 アタマおかしいって」
「でも、ちゃんと話はできるし、本当に神様みたいに綺麗な人じゃない。何か誤解してるみたいだけど、悪い人には見えないよ。本物の王様を紹介できたら、それが いちばんいいんだろうけど、そんなことができるほど、僕たちは偉くないし」
「領主のところにでも突き出せば、牢屋に入れてくれるんじゃないか」
「そんなことできないよ。しちゃいけないよ。彼は何も悪いことしてないんだから」
「悪い事はしてないかもしれないけど、おかしなことばっかり 言いまくってるぞ」

瞬と星矢のやりとりは、氷河に筒抜けだった。
星矢は声をひそめて話す技に長けていないらしく、当人は小声で言っているつもりなのかもしれないが、その努力は まるで報われていなかったのだ。
地獄の民の命の存続のためにやってきた女神アテナの使いを牢に閉じ込めるなどという忘恩を企むことは悪辣非道だが、そんなところに神の加護を得ている者を閉じ込めておけると考えることは愚かの極みである。
瞬が星矢の無思慮をたしなめてくれていることは わかっていたので、氷河は、王の顔を立てて、星矢を怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑えていたのである。

その我慢も そろそろ限界――と、氷河が感じ始めた頃、一行は目的の場所に到着した(ようだった)。
瞬が言っていた通り、収穫の終わった広い麦畑には、意図して残したものとしか思えない麦の穂が点々と散らばっている。
そこには既に幾人かの先客がいた。
彼等は皆、極めて貧しい服を着ていて、ある者は持参の籠に、ある者は布袋に、畑に落ちている麦の穂を拾い集めていた。
ほとんどが老人や子供だったが、中には乳飲み子を抱えた若い女もいる。
夫らしい男の姿は見えなかったので、彼女は寡婦と思われた。

ともあれ、畑を持っていない者のために収穫物を残しておいてくれる善意の者がいるという瞬の話は事実だったらしい。
ここは、他人への思い遣りの心など持たない者だけが住む、殺伐として醜悪な地獄のはずなのに。
が、その事実以上に氷河を驚かせたのは、この世界の王である瞬が、他の貧しい者たちと共に 自らの手で、畑の持ち主のお情けを拾い始めたことだった。
一つの世界の王が他人の情けにすがって生きているだけなら、まだ理解はできたのである。
鍛冶屋に服が縫えないように、農夫に戦ができないように、民を統治するのが生業の王には麦を育てることはできないだろうから。
しかし、その“他人の情け”を、王が自らの手で拾い集める行為までは、氷河の理解の範疇を超えるものだった。
王なら、皆に命じて集めさせればいいではないか。
王の仕事は、麦の穂を拾い集めることではなく、悪しき心や弱き心を持った者たちを正しい場所に率い導くことのはずである。
瞬の行為は、氷河にとって、時間の無駄使い以外の何ものでもなかった。

「仮にも この世界の王が そんなことをするな!」
親切心からではなく、同情心からでもなく、強い憤りから、氷河は、瞬がいそしんでいる仕事を代わりにやってのけた。
すなわち、地面すれすれのところを走る冷風を起こして、畑に残っていた麦の穂を ほぼ全部、一瞬で ひとつところに集めてやったのである。

「こんなことができるなんて、おまえ、いったい何者だよ!」
瞳を見開いて 氷河の成し遂げたことに驚く星矢に、これまで幾度も繰り返してきた自己紹介を行なう気にはなれない。
「さあ、それを持って、さっさと おまえの城に帰れ!」
氷河は、星矢の驚愕を無視し、ほとんど怒鳴りつけるようにして、地獄の王に命じたのである。
神か 神の使いでなければ成し遂げられない氷河のわざに、星矢同様 驚いているようだった瞬は、だが、素直に氷河の命令に従おうとはしなかった。

「みんな、こっちに来て。氷河さんが奇蹟のような業で、落穂をみんな拾い集めてくれたから!」
氷河の命令に従って 城(?)に帰るどころか、瞬は そう言って、広い畑のあちこちにいた者たちを呼び集め、彼の前に小山を作っている麦の穂の分配作業を始めてしまった。
氷河は その奇蹟を、王の強権を行使しようとしない瞬のために起こしてやったのであって、瞬以外の誰のために起こしたつもりはなかった。
当然、氷河は、その事実を瞬に告げ、『さっさと自分に必要な分を取って、城に帰れ』と重ねて瞬に命じようとした。
瞬の手で、持参の籠や袋に麦の穂を入れてもらった者たちが、奇蹟を起こしてのけた神の使いに向かって口々に『ご親切に、どうもありがとうございます』と感謝の言葉と眼差しを向けてくるせいで、氷河はその機会を逸してしまったのだが。

それをいいことに、瞬は、
「ルツさんの籠には多めに入れておくね。赤ちゃんに たくさん お乳をあげるためにも、ルツさんはたくさん食べなきゃだめだよ」
などと言いながら、先ほどの寡婦らしき女の差し出した籠に、嬉しそうに麦の穂を入れてやっている。
見れば見るほど その女は痩せていて、つい哀れを催してしまった氷河は、神の使いの命令を無視する瞬を怒鳴り損ねてしまった。
氷河にできたことといえば、
「氷河さん、本当にありがとう。ルツさんは 先だっての戦で旦那さんを亡くして、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えて、ほんとに大変なの」
と若い母親以上に感謝を込めた瞳で氷河を見上げてくる瞬に、
「氷河さんではなく、氷河と呼べ。王のくせに、いちいち敬称なんかつけるな」
と歯切れ悪く命じることだけだった。






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