「俺を地獄に落としてほしい」
『地獄はどうだったかしら?』という質問への答えが それだったというのに、アテナは ほとんど――全く――驚いた様子を見せなかった。
それどころか、彼女は、こうなることを見越していたかのように、あるいは期待していたかのように、落ち着いた口調で氷河に尋ね返してきた。
「あなたは 地獄の住人に生まれ変わりたいというの?」
「生まれ変わるのではなくて――できれば、今の姿のままで、俺をあの世界に落としてほしいんだ。赤ん坊から始めるのでは瞬を守れない」
「瞬……それが地獄の王の名前? あなたが見付けた希望の名前なのかしら」

知恵の女神は知識の女神ではない。
彼女は、考えて――推考して、その質問を作り出したのだろう。
彼女は、氷河が地獄におりていく前に、地獄というところがどんな場所であるのか、ある程度承知していたらしい。
氷河は、彼女に問われたことに ためらいなく頷いた。

「神々の目に どれほど醜悪に映ろうと、そして、どれだけ理不尽と矛盾に満ちていても、あの世界は瞬のいる世界だ。神々が滅ぼすというのなら、俺は瞬を守り、神々と戦う」
「何事にも無関心で恬淡で、事なかれ主義の きらいもあった あなたにそこまで言わせるなんて、地獄の王は、よほど魅力的な人物だったのね」
「瞬は優しくて清らかで美しく可愛い」
「そういうことは、そんな恐いような真顔ではなく、少し照れながら言うものよ。もう少し やわらかく、優しく。でないと、あなたの王は、あなたの気持ちに なかなか気付いてくれないでしょう。注意なさい」
「俺の気持ち?」
アテナの忠告の意図がわからず、氷河は“恐いような真顔”のままで、彼女が口にした言葉を そのまま繰り返した。
アテナが、そんな氷河を見て、やわらかく優しく微笑する。

「あなたの希望は わかったわ。あなたをそんなふうに変えてしまうほど、地獄が素晴らしい世界なのだということも、神々に報告しておきましょう。彼等が素直に得心してくれるといいのだけど、それは少々難しいことかもしれないわね。矛盾と不合理に満ちた人間のよさを 神々にわかってもらうのは、至難のわざかもしれない……」
「そうなったら……もし神々を説得することができなかったなら、あなたも神々の側に立って、地獄を滅ぼすのか」

瞬と瞬の生きている世界を守るためでも、できれば この人とは敵対したくない。
それが、氷河の本音だった。
氷河が決して敵対したくない女神が、
「いいえ」
と、ごくあっさり 氷河の不安を否定する。
「私は、あの世界を滅ぼすことには最初から反対だったの」
アテナの答えは 氷河には非常に喜ばしいもので、彼を深く安堵させるものでもあった。
察していた通りのものでもあり、彼女がオリュンポスでも特に有力な神であることを考慮すると、意想外の答えでもある。

「そうなのだろうと感じてはいた。……最初はわからなかった。神々の中で最も聡明で卓越した力を持つ あなたがなぜ あれほど地獄に肩入れするのかがわからず、そのことに憤りさえ感じていた。今は、そのことを嬉しく思う」
アテナはおそらく、地獄という世界が何であるのかを――その存在の意味するところを、最初から知っていたのだ。
知っていながら、あえて氷河を下界に遣わした。
「私たちが地獄と呼んでいる あの世界は、確かに醜悪な罪と矛盾に満ちているけれど、天界にはない素晴らしいものがあるのよ」
「瞬のことか」

恐いような真顔で問い返した氷河に、アテナが ぷっと吹き出す。
その失笑を 急いで微笑の形に作り直して――要するに、笑いながら――彼女は、
「ええ、そう。あなたの瞬のような」
そう言って、氷河の言葉に首肯した。
そうしてから、初めて彼女は真顔になった。

「あなたは気付いていたかもしれないけど――あなたは一度も私に尋ねなかったから、私も何も言わずにいたのだけれど――あなたは、ある神と、地獄にある私の神殿にいた巫女との間に生まれた子供で――半分 人間です。天界を出て聖餐と神酒を口にしなくなれば、普通の人間と同じように 歳をとり 死ぬこともできるようになるわ。あなたの瞬と同じように」
「多分、そんなことなのだろうと――いや、俺が瞬と同じ人間になることができるというのは、とても嬉しい情報だ。ありがとうございます」
“ある神”の名を、アテナは口にしなかった。
知らない方がいいというのが、アテナの判断なのだろう。
氷河も知りたいとは思わなかった。
それは、もしかしたら――否、十中八九――いずれ人間である自分と敵対することになる神の名なのだから。

「お行きなさい。私は神々の説得に努めてみます。もし説得ができなかったら、私も あなたのあとを追うことになるかもしれないわ」
「そんなことにはならないよう祈っていますが、案外、アテナには、天界などより地獄の方が生きていて楽しい世界かもしれない」
「そんな気がして、私も困っているのよ」
「困ることはない。地獄は――地上は、素晴らしい世界だ。地上には、天界よりも鮮やかな光がある。そして、瞬がいる」

自分が神ではないものだからそう感じてしまうのではないかと疑っている部分が、氷河にはあった。
自分に地獄の住人の血が流れているから――神々にとっては醜悪な場所でしかない地獄の住人の血が、瞬と瞬のいる世界を美しく感じさせているのではないかという疑いが。
しかし、神であるアテナも あの世界に心惹かれているというのなら、あの世界には やはり何かがあるのだ。

「さあ、お行きなさい。あなたの光があるところへ」
「ありがとうございます」
長い間、姉とも慕い 母とも慕ってきた彼の女神に一礼し、そして、氷河は、美しいばかりで無気力な光しか存在しない天界を出て、地上に向かったのである。
そこは、天上の神々に“地獄”と呼ばれる世界。
希望と失望、善意と悪意とが、それぞれに強い力で混在する矛盾に満ちた世界。
そして、瞬という光がある世界だった。






Fin.






【menu】