Je Reviensジュルヴィアン

- 私は戻ってくる -







「夕べ、夜中に目を覚まして、サイドテーブルに香水瓶が置いてあるのに気付いたの」
瞬が不安そうな目をして、仲間たちに そう訴えてきたのは、風が初夏の匂いを帯び始めた春の終わりのことだった。
ラウンジの窓の外にある城戸邸の庭では、白や赤の薔薇が、花の盛りに向かって生気を充実させている。
すべての命を祝福しているような光が屋内にまで入り込んでくる明るい季節のただ中で、瞬だけが その睫毛に不安の色を乗せていた。

「香水? それはまた意味深な贈り物だな」
「贈り物とかじゃないと思うんだ。中身がからっぽだったから。けど、でも、だから ますます意味がわからなくて……」
「からっぽ?」
「うん。それに……夜中に気付いたって言ったでしょ。どう考えても、その瓶が置かれたのは真夜中なんだ。僕、夕べは11時頃ベッドに入ったんだけど、その時にはテーブルの上に そんなものはなかった。僕が香水瓶に気付いたのは夜中の2時頃なんだよ」
「11時から2時の間か。城戸邸のセキュリティシステム下では、ジュリエットに恋焦がれているロミオでも外から邸内に侵入することは不可能だろうから、普通に考えると、その瓶をおまえの部屋のテーブルに置いたのは内部の者――ということになるが」
そう告げる紫龍の視線は、ごく自然な動きで、氷河の上に移動した。
三人掛けのソファで 瞬の隣りに腰をおろしていた氷河が、紫龍の視線の意味するところを察し、少々不愉快そうに顎をしゃくる。

「俺以外の何者かが そんなことをしたと考えるのは実に不愉快だが、犯人は俺じゃない。俺が そんなことをするわけがないだろう。夜中、瞬が眠っている部屋に忍び込んで、俺が冷静な紳士でいられると思うか? へたなことをして瞬に嫌われるような危険を冒すほど、俺は馬鹿じゃない」
自分は不法侵入の罪を犯していないという氷河の言葉は、そのまま、自分は その罪を犯す動機を持ち合わせているという告白になっていた。
きっぱりと自分の無実を主張する氷河に対して、星矢が、全く彼を信じていない態度をあからさまにする。

「この手のことで、おまえの言うことなんか信じられるかよ。馬鹿じゃないなら、色々悪知恵も働くだろうしさ。案外、その瓶がカラだったのって、使用済みだったからじゃねーのか?」
星矢は“そんなこと”をした犯人は氷河だと、はなから決めつけている――信じきっている。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間に向けられる星矢の絶大な信頼に(?)、氷河は その顔を大々的に歪めることになった。
「使用済みとは どういう意味だ。どんなに小さな瓶でも、たった数時間で香水を一瓶 使い切ることなど不可能だろう。部屋の中で そんなことをしたら、人はアルコールの匂いで死ぬぞ」
「香水瓶の中身が香水とは限らないだろ」
「香水瓶に香水以外の何が入っているというんだ」
星矢がいったい何を考えているのかが 本気でわからなかった氷河は、至って真面目に――というより素朴に、その発言の意図を星矢に尋ねたのである。
星矢の返答は、見事なまでに氷河を信頼しきったものだった。

「そりゃあ、催淫剤とか精力剤とか、性的興奮を促進する薬だよ。そんで、記憶を混乱させる作用もあるようなやつ。つまり、媚薬 兼 忘れ薬。瞬をその気にさせて、やることやって、やった後は綺麗さっぱり忘れるようなオクスリだったんだろ」
仲間に対する星矢の信頼の内容はさておくとして、それは氷河には荒唐無稽な邪推としか思えないものだった。
氷河は、星矢のとんでもない推理を、鼻で笑うことになったのである。
「馬鹿らしい。催淫剤はともかく、忘れ薬なんてものが、この世に存在するか。俺たちが生きているのは、おとぎ話やファンタジーの世界じゃないんだ。真面目に考えろ」

星矢は確かに、真面目に考えて そんな推理を仲間たちの前に披露したのではなかった。
その発言の主目的は、氷河をおちょくり、からかうこと。
当然、笑い話で済むところだった その場面を 笑えないものにしてくれたのは、無駄に真面目な顔をして横から口を挟んできた紫龍その人だった。
「そんなものは いくらでもあるぞ。プロプラノロールあたりが最もポピュラーかな。一般に市販もされていて、比較的容易に手に入る。本来は高血圧の薬なんだが、これが米国では、戦場帰還兵やレイプ被害者の記憶を忘れさせるのに用いられているようだな」

いつも無駄に真面目な顔をしている紫龍は、無駄な知識まで、無駄に多く持ち合わせている。
紫龍の無駄口に、氷河は ぴくぴくと こめかみを引きつらせ、室内に大きな怒声を響かせた。
「そんなものがあったとしても! そんな卑劣な手で瞬を手に入れても、俺はちっとも嬉しくない! そんな薬で一時的に瞬を俺のものにできたとしても空しいだけじゃないか。俺は恒久的に瞬を俺のものにしたいんだ!」

氷河の力強い反論に、彼の隣りにいた瞬は、身の置きどころを見失ったように 身体をもじもじさせることになったのである。
『俺は瞬が好きなんだ』と公言して はばからない氷河を、これまで瞬は いつも『冗談はやめて』の一言で かわしてきた。
しかし、そのたび氷河は、『俺は本気だ』と返してくる。
城戸邸内では、『氷河は瞬に片思いをしている』という“冗談”が半ば公然の事実と認められていて、その状況に 瞬は悩まされ続けていたのである。
氷河が同性の仲間に特別な好意を抱いていることなど あるはずがないというのに、誰もが――星矢や紫龍や沙織までが――氷河の冗談を氷河の本意として取り扱っていることに。
氷河に『おまえが好きだ』と言われるたび、『これは氷河の冗談なのだ』と自分に言いきかせ続けることに、瞬は いい加減にみ始めていた。

氷河は冗談を言っているのだと わかっているはずの星矢が、今日も氷河の冗談に乗る。
その乗り方は、どう考えても“悪乗り”だった。
星矢は、紫龍以上に真面目な顔で、氷河に、
「でも、我慢が限界にきたら、おまえだって何するか わかんねーじゃん」
と言い置いてから、瞬に向かって。
「瞬、おまえ、ケツは痛くねーのか」
と尋ねてきたのだ。

どういう意味で星矢がそんなことを尋ねてくるのかを、不幸なことに瞬には理解できてしまった。
男子に好意を持った男子が、相手の男子に対して どのように本懐を遂げるのか、瞬は知りたくもないのに、無駄に真面目な顔をした紫龍に事細かに語って聞かせられたことがあったのである。
「な……なに、それ。どういう意味」
素知らぬ振りをしていようと思うのに、そう思うほどに頬が熱を持ち、真っ赤に染まる。
「いや、だからさー」
男子に好意を持った男子が、相手の男子に対して どのように本懐を遂げるのか、その具体的方法を、ここで星矢に事細かに語られてしまいたくなかった瞬は、真っ赤な頬のままで星矢の言葉を遮った。

「馬鹿馬鹿しい! 氷河がそんなことするはずないでしょう! そんなこと、疑うだけでも氷河に対する侮辱だよ。氷河はそんなことしません!」
「いや、俺は――」
瞬の信頼は、星矢のそれとは違って、確かに氷河を侮辱するものではなかった。
だが、氷河としては、だから 自分に向けられる瞬の信頼を 諸手をあげて喜べるかというと、そういうわけにもいかなかったのである。
彼が“そんなこと”をまだ してはいないが、いずれしたいと希望しているのは、紛れもない事実だったので。
とはいえ、その希望を今ここで語ることは、あまり 賢明なこととはいえない。
結局、氷河は、複雑さを極めた表情を その顔に浮かべ、黙り込むことになった。

氷河が沈黙を守ることになったのを これ幸いと、瞬は、話の軌道修正を図った。
すなわち、氷河の冗談から本来の香水瓶の謎へと。
「そんなことより、夜中に突然、僕の部屋に からっぽの香水瓶が出現した謎を解いてよ!」
氷河の“冗談”で瞬を混乱させるのは 今はやめておいた方がいいと考えたらしい紫龍が、瞬の軌道修正に素直に従う。
「防犯カメラの映像は確かめたのか」
紫龍のまともな質問に、瞬は 内心でほっと安堵の息をつくことになった。
「何も映ってなかったみたい」
「なあなあ、そういう芸当って、貴鬼のテレポーテーションの力を使えば可能なんじゃないか?」
「それは可能かもしれないけど、貴鬼が何のためにそんなことをするの?」
「うーん……それもそうか。貴鬼は瞬の尻なんか 狙ってないだろうし」
「……」

できれば そこから離れてほしいと、瞬は心の底から思ったのである。
ほとんど泣きたい気持ちで、そう思った。
ここで瞬に泣かれることは本意ではなかったらしく、今にも泣き出しそうな顔の瞬を見て、星矢はやっとそこから離れてくれた。
とはいえ、そこから離れて、次に星矢が提示してきた推理も、瞬には あまり楽しいものではなかったのだが。
星矢は、極めて きな臭いIF文を、仲間たちの前に持ち出してきたのだ。
「なら、方向を変えて、敵の宣戦布告って線はどうだ? 香水瓶は敵の挑戦状だって線。香水瓶座なんて星座はないのか? コップ座があるくらいなんだから、それくらい ありそうな気がするけど」
「そんな星座はない」
紫龍が、あっさり星矢の推理の前提を否定する。
紫龍は、続けて、星矢の推理そのものをも否定した。

「だいいち、これが我々に敵対する者の仕業だというのなら、敵は、わざわざ危険を冒して真夜中に敵陣に忍び込み、瞬の枕許に香水瓶を置いていったということになる。普通、そこまで敵に接近しておいて、何もせずに帰るか? 眠っているからといって、瞬が なまじな敵にやられるような油断をしているとは思わないが、犯人が我々の敵だったなら、彼は挨拶代わりに敵の一人を片付けて帰るくらいのことは考えるはずだ」
「そうとも言えないだろ。寝てる奴の寝込みを襲って倒すなんて卑怯なことしたって、自慢になんないんだから。敵は、プライドと戦いにおける礼儀作法を心得てたんだよ。んで、寝てる瞬を倒すんじゃなく、わざと不気味なことして、精神的に追い詰める作戦を採用した」

わざと不気味なことをして敵を精神的に追い詰める作戦は卑怯ではないのかと、その場にいる誰もが――その話を持ち出した星矢までもが――思っていた。
であればこそ、星矢は、
「からっぽの香水瓶なんて、恐くも何ともないよ。訳がわからないだけで」
という瞬の反論に大人しく引き下がったのである。

そうして、振り出しに戻った からの香水瓶の謎。
真夜中に瞬の部屋に からの香水瓶を置いていった者が敵でも味方でもないのなら、他に考えられるのは、せいぜい愉快犯のしわざというパターンくらいのもの。
しかし、アテナの聖闘士たちには、こんなことをして愉快になれる人物の心当たりもなかったのである。
容易に解けそうにない香水瓶の謎の答えを考え続けることに最初に飽きてしまったのは、それまで散々 仲間たちに行き当たりばったりの推理を披露し続けていた天馬座の聖闘士だった。

「面倒だから、もう、んなこと、どうでもいいじゃん。結局、なぜか突然 夜の夜中に、からの香水瓶が瞬の部屋に出現したってだけのことなんだから。こっちの被害はゼロ。瞬のケツが痛くないのなら、瞬は誰にも何にもされなかったってことなんだし。犯人が瞬を倒すために侵入してきた敵で、寝てる瞬に一目惚れして何もできなかったんだとしてもさ、そんな絶好のチャンスに瞬に手も出さずに退散するなんて、氷河のライバルにもなれない程度の奴ってことだろ」
「もう! 星矢ってば、どうして そんな馬鹿なことしか思いつかないの! そんな馬鹿げたことしか考えられないのなら、星矢は もう口をきかないで! 氷河も紫龍も この件は忘れていいよ。確かに、実害はなかったんだから!」
からの香水瓶の謎を解くために、これ以上 聞くにたえない星矢の推理を聞かされ続けるくらいなら、そんな謎など解けなくてもいいと、瞬は本気で思ったのである。
確かに星矢の言う通り、からの香水瓶の出現で 誰かが不利益を被ったわけではないのだから――と。

だが、その場には、からの香水瓶の謎を解かずに済ますことのできない男が 約一名いたのである。
真夜中に瞬の部屋に忍び込み、仮にも聖闘士である瞬に気付かれることなく、その枕許に物を置いて姿を消す。
そんな芸当ができてしまう何者かが この世に存在することに不安を覚える男が約一名。
その不安を払拭するために、その男――氷河――は、香水瓶の謎の解明を打ち切ろうとする瞬に、改めて確認を入れた。
「しかし、このまま放っておくのも問題だろう。瞬、おまえ、本当に心当たりはないのか? 香水瓶が置かれたのは、間違いなく真夜中か? 実は、昼間から置いてあって、おまえが気付かずにいただけだったということは考えられないのか」

瞬は、馬鹿げた推理を展開されるのでなかったら、もちろん 香水瓶の謎を解きたかったのである。
星矢のそれに比べると比較的まともな氷河の質問に、瞬は気色ばんでいた表情を消し去って、浅く頷いた。
「僕が眠る時になかったことは断言できるよ。僕、夕べは、リルケの詩集を読んで、それをサイドテーブルの上に置いて、眠ったの。その時、テーブルの上に香水瓶はなかった。普段は何も置いていない30センチ四方の小さなテーブルに 何かが置かれていたら、それに気付かないはずがないよ」
「……」

瞬のその言葉が事実なのであれば、夜の夜中、聖闘士である瞬の枕許に忍び寄った その人物は、相当油断のならない人物、かなりの曲者ということになる。
改めて確認した その事実に、氷河は到底 冷静ではいられなかった。
そして、どうしても もう一度 確かめずにいられなかったのである。
「あー……おまえ、本当に身体はどこも痛まないのか?」
と。

「氷河まで!」
氷河の極めて真面目な懸念に、瞬が眉をつり上げる。
瞬は掛けていたソファから勢いよく立ち上がり、文字通り、頭から氷河を怒鳴りつけた。
「氷河が心配してるようなことはありません! もし、そんなヘンタイが僕の部屋に無断で忍び込んだんだったら、僕は、それが敵でも味方でも 問答無用で撃退します!」

自分が藪をつついて蛇を出してしまったことに、氷河は もちろん、すぐに気付いた。
すぐに気付いたし、己れのしたことを後悔もした。
しかし、後悔は先に立たないから後悔というのである。
氷河が後悔しても、それは あとの祭り。
決して瞬を侮辱する意図はなかったのだと 氷河が弁明しようとした時には既に、瞬は らしくもない大股で、仲間たちのいるラウンジを出ていってしまっていた。






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